20話 前に進むには
即答だった。
『これは仕事だ、遊びじゃない。君のような素人、ましてや子供が口を挟むようなことじゃない』
アレンの言葉が何度も頭のなかで繰り返し、繰り返し再生されノアは身体を震わせた。
「……はは、まさにその通りかもしれない」
『……人間』
ここは、どこだろう。
飛び出すように事務所をあとにしたから道順など覚えていない。
否定されるのが怖くてあの場から逃げ出したのだ。
そして、不意に自分が帰る場所などないことに気付いた。
「そうだ、こんな役立たずを必要としてくれる場所なんてないんだ……」
フラフラと頼りない足取りで当てもない道を彷徨う。
すると突然、二人の女性の顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられるように痛んだ。
こんなクズがいたところで迷惑以外の何物でもないだろう。
懐から地図を取り出すと、バラバラに引き裂いて道端に捨ててやる。これで、本当に一人だ。
いつの間にか出た大通りでは、夕方にも拘らず人がにぎわっていた。
ある者は友人と。ある者は恋人と。そしてある者は家族と共に大切な時間を謳歌している。
このなかの何人が、劣等種とさげすまれた子供たちが連れ去られていると知っているのだろうか。
いや、知らないかもしれない。もし知っていたらあんな風に笑うことなんてできないはずだ。
フラフラと雑踏をかき分け、行き交う人の視線がノアに集中していく。
この視線には見覚えがある。好奇心と奇異のないまぜになった視線だ。
つま先からてっぺんを眺めてはすぐに視線を逸らす。
まぁそれも仕方がない。
なにせ、夕立が降っているにもかかわらず傘の一つも差さずに、街中を歩いているのだから。
それでも誰一人声を掛けようとしないのは、ノアが劣等種と呼ばれる人種だからかもしれない。
ドンと身体を揺らす衝撃と共に、ノアは濡れた石畳の上にしりもちをついた。
誰かにぶつかったんだと認識しても立ち上がる気力などない。
一瞬、心配そうにのぞき込む視線もノアが劣等種だとわかるとすぐに驚きに変わり、気まずそうに頬を掻いては何も言わずに立ち去ってしまった。
誰もいないところに行きたい。
「――うっぷ!?」
吐き気を覚えて裏通りに駆け込む。幸いにも誰もいない。
安堵した途端、塞き止めていたはずの胃のなかにあった全てのものが逆流した。
耳障りな路地裏に響き、ツンとした刺激臭が鼻につく。喘ぐように繰り返す荒い呼吸に合わせて、何度も吐き気がぶり返しそのたびに口のなかが酸っぱくなる。
「――っ、はぁはぁ」
いつの間にか立体映像の魔王さまに背中を擦られていることに気付き、こんな惨めな姿を見られたくないと思うと同時に、少しだけ気分が楽になった自分がいる。
胃の中にあるものすべてを吐き出し、もつれるように歩く足取りは頼りない。結局まともに歩くこともできず、ふらついて壁に寄り掛かるようにしてズルズルと座り込んだ。
「仕方なかったんだよね」
誰に聞いてもらいたいわけじゃない。ただ漏れた小さな呟きは白く尾を引く吐息とともに揺れては消えていく。
食い下がることすら、できなかった。
思い出すだけで自分の意気地のなさに腹が立つ。
一分一秒争う状況だった。あそこで駄々をこねればそれだけでロブや連れ去られた子供たちを助ける確率が減っていく。
ここはアレンの言うことを聞いて大人しく連絡を待とう。
そんな現実的な意見を前にしてノアは逃げたのだ。拒絶されるのを恐れて。
「変われたのは身体だけで、中身は全然変わってない。結局、他人に拒絶されるのが嫌で、何もできなかった」
ポツポツと身体を叩く夕立が豪雨に変わり、熱い雫がこぼれた。
ジッとノアを見つめる魔王さま。その深紅の瞳から逃げるようにノアは目を逸らした。
「変われた気になれたんだよ魔王さま。……僕だって、僕だっていろんな人に声を掛けられて、頼りにしてるって言われて。でも気のせいだったのかな……」
結局は生き方などそう簡単に変えられないのだ。
染みついた生き方はどこまでも身体にこびりつき、例え洗濯したって落ちることはない。
必ず染みになって残り続ける。
誰かを助けたいなどという大層なことなど、僕にできるはずがなかったんだ。
少しでも誰かの役に立ちたかった。
でも子供だから、いたんだから。いつもそうだ、何か理由がついては身動きが取れなくなる。
「やっぱり、僕は主人公にはなれない人間だ」
地面をたたいても傷まないこの身体はやっぱり不便かもしれない。
こんなにも傷つきたいのに、痛みの一つすら与えてくれない。
『そうか、ならば私が殴ってやる』
「――えっ?」
途端、痛みがやってきた。頬を打つ感覚が身体に走り、視界が歪む。
叩かれたと理解して、殴られたであろう頬に手を当て目を見開く。
見上げれば、その深紅の瞳と目があった。
『やっとこっちを見たか愚か者』
プラプラと手を振り、大きくため息をつく魔王さま。
その表情には不快さが表れており、それでも汚れるのも気にせず、その場にしゃがみ込むと今度は予告なしに殴られた。
『格好つけるな』
ハッキリと、そして確かな言葉が胸を打った。
その表情は先ほどの呆れた顔つきとは変わって真剣そのものだ。
真っ赤な瞳はノアの全てを理解しているように、ノア自身を釘付けにする。
『本の読みすぎだ馬鹿者。前にも言ったがお前はあれだな、誰かの許可なしには行動できん大バカ者だな』
「だって、……だってそうじゃないですか!? 現にアレンさんだってボクの助けはいらないって言ってた。あそこで駄々をこねたってみんなの迷惑になるだけで――」
『迷惑になるから、あきらめたのか?』
言葉が、詰まる。
言い淀みかけた言葉はどれも口のなかで留まるばかりで吐き出すことができない。
いや、……吐き出す気にすらなれない。
『面白くない。面白くないぞ人間!! お前の悪い癖だ、そんなありきたりな答えを私は期待したわけではない』
「ならどうすればよかったんですか!?」
『助けに行けばよかったではないか!!』
反論した言葉に被せるように、魔王さまの声が強く胸に響いた。
『なぜ誰かの命を救うのに他者の許可がいるのだ。お前の人生は誰かの傀儡になることか? 運命の奴隷か? ならばそんなつまらん人生など捨ててしまえ!! ……それともお前は私の願いすら忘れてしまったのか?』
痛ましいまでの呟きが、胸をえぐり、内側から熱い何かがドロドロと溢れ出る。
――新しい世界を見たくはないか?
契約の際に、魔王さまは僕にそう問いかけた。
僕は貴女と共に生きたい。そう願ったじゃないか。
魔王さまの言葉はいつだって変わらない。勇気づけるのではなく諭すように語り掛けてくる。
静かに吐き出される言葉が熱を持って魂に灯る。
『つまらん考えに。価値観に振り回されるな。誰かに言われたからじゃない、誰かに許されたからじゃない。お前自身がどうしたいかだ』
「僕自身がどうしたいか……」
『一歩踏み出せば見れるのだ。お前は『あの時』のようにわたしに知らない結末を見せてくれるんじゃなかったのか? お前は、ここで諦めるのか?」
自分のなかでバラバラになったものが組みあがっていくのを感じる。
どうしたかったのか、何がしたかったのか。複雑に絡み合った糸がほぐされ、ノアのなかで一本の正しい答えが導き出される。
『もう一度聞こう、人間。……お前はそれでいいのか?』
いやだ。
心に灯った炎をもう偽ることなんてできない。目尻からあふれる涙を袖で拭う。あれほど四肢に力の入らなかった身体は熱を取り戻し、心臓が激しく鼓動していく。
熱に浮かされたうわ言のように吐き出された言葉は、ノアの心を正しく形作った。
「……僕は、強くなりたい。他人と違うから、異端だから。そんな理由で諦めたくない」
『なぜだ?』
「助けたいから。偽善だなんだとさげすまれたって、僕がそうしたいと思ったから」
『ふん、よく言った』
それにこんなにもボクのことを理解してくれる人に呆れられるのはもっと嫌だ。
『ならば、もうやることは決まっているな』
やれやれと首を横に振り、嬉しそうに唇を吊り上げる魔王さま。
あれほど悩んでいた自分が馬鹿らしく思えるほど、清々しい気分だ。
僕は僕だ。ノア=ウルムとしてこの世に生を受け、魔王さまと共に新しい世界を歩む一人の『人間』だ。
夕立ちは去り、西の空に太陽が沈んでいく。
もうこんな時間だ。早く助けに行かなくては取り返しのつかないことになるかもしれない。
『いいのか? あの小僧は足手まといと言っていたぞ』
「確かにアレンさんの言うことはもっともかもしれない。でも、部下でもない僕が彼の言うことを聞く道理なんてこれっぽっちもない」
『ふっ、ずいぶんと悪くなったな人間』
「おかげさまでね」
そう言って、ノアは深く沈みこむと一息に建物を飛び越えた。
三階建ての住宅の屋根に着地して、周囲を見渡す。薄暗くなった夜の街。これなら屋根伝いを飛び越えても誰にも気づかれることなく移動できる。
イタズラをするには絶好の暗さだ。
『随分と考えが様変わりしたな人間。やはり、お前ひとりで考えると碌なことにならない』
「ええ、ですから魔王さま。知恵を貸していただけますか?」
『ふん、まぁ仕方ないな。……なにせ友人の頼みだ。無下にはできん』
そうだ僕らは二人で一つなのだ。
一人で考えて碌にもならないことを考えるくらいなら、魔王さまと一緒に考えて歩く方が幾分も素敵だ。
『……奴らの向かった場所は事前に小僧たちの会話から聞きだしている。今度は迷うなよ?』
「了解です」
『よし、ならば行くぞ』
立ち上がり、踏み出す一歩がこんなにも心地いい。
今度こそ、僕は僕らしく生きて見せる。
魔王さまが僕を理解してくれている。それだけで迷うことなく進むことができる。
熱く高鳴る胸をぎゅっと押さえつけ、ノア=ウルムは駆けだした。