08話 転変
――夜。
あれほど明るかった緑の世界は闇で包まれ、バチバチと薪の爆ぜる音を聞きながら、ノアは風に揺られて踊る炎を静かに眺めていた。
はためくマントをもう一度深くかぶり直し、大きくため息をついた。
粉々に砕いた狼の死体は森に置いてきた。
もちろんこの手で命を奪い取ったのだ。せめて自分の血肉にでもと持ち帰ろうとしたのだがそれすらも諦めざるおえなかった。
魔王さまの「いやな予感がする」という言葉に続いて、突然大地が揺れだしたのだ。
地震かと思って身構えるノアだったが、その考えは誤りだったと知ったのは地面が泥のように溶け始めたと理解してからだ。
意志を持つ蛇のようにうねりだす大地が盆地の形を変え、ノアを捕らえようと動き出す。
波のように蠢く大地は、四散した狼たちの死体を練り込むようにたやすく飲み込む。
魔王さまの『逃げろ』という言葉がなければもしかしたら、あの狼の死体のように飲み込まれていたかもしれない。
明確な死が頭を過ぎった頃には身体はすでに動き出していた。
変形する大地に足を取られないように走り、壁をよじ登る。
クライミングなど生まれてこの方やったことはなかったが、これも魔王さまのおかげなのか。
身体を乗っ取られる形でものの数秒も経たないうちに垂直の崖を登り切った。
そして、これがこの盆地だけでなく森全体で起こっている事だと理解した時、身体は拠点とした幹のえぐれた樹木の下まで迷うことなくたどり着いていた。
息切れも疲れも痛みもない。
それでも早鐘のように鳴り続ける心臓はなかなか治まらず、かといって振り返る勇気もない。
『おい、人間。その樹から動くなよ』
いつもより緊張した声が頭のなかで響いたとき、すでにこの世界は変化していた。
あれほど明るい森が、徐々に暗くなっていくのだ。
それは夕日が沈むより早く。けれどもまるで瞼を閉じるようにあっけなくこの世界から光が失われていった。
何も見えず、ここがどこだかわからない。
目を開けているのに、そこに一切の光はなく、なにかを潰すかのような異音だけが耳に響いてきた。
まるで『森』で何が起きているのかを隠すように落ちた天幕だ。
それでもその闇は、魔王さまの灯した指先の炎であっさりと暴かれていった。
眼前に広がる世界に絶句して、思わず周囲を見渡す。
そこはまさに地獄だった。
グチャグチャグチャグチャ。
まるで粘土でも捏ねるみたいに大地が生命を飲み込んでいく。
崖から見上げるほどあった大樹が。無限に続くかと思うほど広がる樹海が。そしてそこに住んでいたであろう生命が。
生木がへし折れる音や岩や鉱物が擦り合わさって鳴る耳障りな音。そこに混じって聞こえる『なにか』の悲鳴が『森』に響き渡る。
あまりにも現実離れした光景に、もちをついて震えた。
そこからはあまり覚えていない。
眠るように意識が突然落ちて、気付いた時には薪に火が焚かれていた。
◇
『落ち着いたか、人間』
ポンと柔らかい声が頭に響き、ノアは頭を振り起すと、ゆっくりと顔を持ち上げた。
夢を見ていたような気がするが、現実は変わらず悪夢は続いているらしい。
初めの頃にあったような、何かが壊されるような不快な音はほとんど聞こえてこないところを見ると、ずいぶん眠ってしまったらしい。
『お前の世界で言うと一時間も経っていない』
「そうか。あれから異常はなかった?」
真っ先に寝落ちておいてそれはないだろう、とあとから気づいたが、魔王さまは全く気にすることなく答えてくれた。
『特に異常はない。どうやらここ周辺では変化は起こらないらしい』
「じゃあ、それ以外の場所は――」
『ほとんど全滅だろうよ』
この現象がどういう意味を持っているのかなど『僕』には全く理解できなかったが、それは魔王さまも同じらしい。
これがこの世界の法則なのか、誰かが人為的に起こしたものなのか、いまだにはっきりとはしないがこれだけはわかる。
――死ぬかと思った。
地割れに巻き込まれたり、狼に襲われたりなど何度か死に直面したことはあったが、今回のはそれ以上の衝撃だった。
はっきりと死を感じたあの感覚。
間違いなくあの場にとどまっていたら、ノアの身体は地中深くに引きずり込まれていただろう。
思わず膝を抱えて、己の両手を凝視する。
望んでいないとはいえ、生きるために初めて命を奪った。
握る拳は今も肉と骨を断ち、そして潰していく感触が生々しく残っていく。
あの狼たちも、こんな恐怖を味わっていたのだろうか。
そんなことを考えていると頭のなかで唐突に魔王さまの声が響いてきた。
『……すまなかったな人間。もっと別の方法をとるべきだった』
何を意味しているのか理解できず固まっていると、続く言葉に魔王さまの言葉に小さく目を見開いた。
『お前の身体で、他者の命を奪ってしまった』
今度こそ言葉を失くし、ノアは黙って首を横に振ると篝火を見つめる。
そんなことない、と言いたくてもうまく言葉が出ない。それでも黙っているのは言葉足らずのような気がして、ノアはゆっくりと唇を動かした。
「いままで生きるために多くの命を食べてきたんだ。いまさらなんで殺したとか非難する資格は僕にはなし、魔王さまが気に病むことでもないよ」
『……だが、お前の意見をもう少し聞くべきだった。まさか、ここまで動揺するとは――』
まぁ、それは仕方がないことかもしれない。
なにせ、生前では食材と言えば加工された肉の塊が主流だ。
加工された肉は見たことがあっても、ああして生きた状態から命を奪うなんて行為はそう滅多に経験できるものじゃない。
ましてや生きるか食われるかの野生のやり取りをする命の瀬戸際なんて、地球上のほとんどの人間が忘れてしまった感覚だろう。
何度、命に感謝しなくちゃいけないと思っていてもいざ命を奪えば震えてしまう自分がいた。
そして、助けてもらっておいて魔王さまに謝罪される自分が惨めで、本当に情けない。
恐怖を乗り越える覚悟を決めても、『たかが動物』の命の一つや二つを奪ったくらいでここまで罪悪感を感じるとは思わなかった。
自問自答の末、言い訳くさい自分の小心具合がおかしくて、小さな顔に自嘲気味の笑みが浮かんだ。
「結局、僕が生きるためにあの狼たちを殺したんだよ」
『……人間。その気持ちをはき違えるなよ。感情移入するなとは言わん……が、平気で命を奪う行為に慣れてしまえばそれこそお前は人間でなくなる』
「もう身体は人外なのに?」
『精神性の問題だ。例え人ならざるものでも、生命を慈しむ精神を忘れなければ『人間』たりえる、――というな』
そう言うとノアの肩に何か重い負荷がかかった――ような気がした。
隣を見れば、いつの間にか投影された魔王さまが肩に頭をのっけている。あえてこちらを見ないようにしてくれているのか、焚火の明かりをジッと見つめていた。
これも魔王さまが五感を操作して『誰か』が隣にいると錯覚させているのだろう。
それでもそんな気遣いが少しだけ嬉しくて、心が少し楽になるのを感じる。
『お前はこの世界に転生してまだ日が浅い。生前の世界とのギャップに苦しむことにはなろうが、いまは少しずつ慣れていけばいい』
「……異世界転生ものの主人公だったら、こんなのすぐに慣れてバンバン活躍するんだろうけどな―」
『いもしない人間と自分を比べて何になる。――所詮は想像だ。実際、誰かを傷つければ誰もがお前のようになるだろうよ』
そう言って、右手をノアの肩に回し何度か叩く魔王さまの手は、どこか優し気だ。
痛くは、ない。
それでも別の所が痛むのはきっと、魔王さまが必死に泣かせようと意地悪をしてくるからだ。
励まされているんだろうな、と胸の内で呟くと、どこか遠くを見つめる魔王さまの口から『ただな――』とどこか真剣みの帯びた声が響いた。
『これからも、お前は誰かの命を奪って生きていくのだ。落ち込むなとは言わない。だが命を奪う覚悟はしておけ。……私が言えたことじゃないがな』
「――これだから、魔王さまは魔王らしくないんだよ。もう少し情けないって弄ったっていいのに」
『なに。私の時も『そうだった』からな。こればかりはなにもいえん』
腕の隙間に顔をうずめると、魔王さまの苦笑気味な声が返ってくる。
魔王さまにそんな時期があったのか。
意外ではあるがそれでも、もう充分心配してもらった。
いつまでも落ち込んでなどいられない。
薪をくべ直し、一層大きな炎が灯る。
炎から立ち上がる熱気で視界の先がゆらゆらと揺れていく。その奥では今も大地が動いているのだろうか。
「ここは『あんな風』にならないんだね」
『おそらくお前が心配している惨事にはならないだろう。お前が寄りかかっている樹はな『世界樹』と言って、これはまだ苗木だが世界を固定する役割を持っているんだ』
「これが――」
思わず頭上を見上げて、生い茂った広葉を見つめる。どこにでもあるような陳腐な樹だと思ったがまさかRPGに出てくるような有名な代物だったとは。
どっしりと大地に根を下ろす樹木は少なくとも数メートルほど伸びている。それでもこんなにしっかりした状態でまだ『苗木』とは恐れ入った。
おもわぬ出会いに、胸がいっぱいになるなか、土から盛り上がった根っこをしげしげと触る。
「やっぱりこっちの世界でも、そういった伝説が存在するんだ」
『世界樹にはいくつか不思議な力があってな。他人を落ち着けたり、幸運をもたらしたりする効果があるらしい。この樹の傍では争いが起こらないなんて言い伝えがざらにあるくらいだが……あながち間違いではないみたいだな』
確かに、大地に追われて逃げたときよりも落ち着いている自分がいる。
あれほど高ぶっていた心臓はいつの間にか落ち着きを取り戻し、どこかリラックスしている節さえある。
魔王さまが薪を手に取り次々と炎の中にくべていくなか、ノアは燃え立つ煙から煙臭くはない香ばしい香りが充満しているのに気づいた。
「そう言えばこの薪は――」
『ああ、この苗木から『出た』際に散らばった木片だ。私の身体では森に入って薪を取りに行くこともできんからな。薪代わりに使っている』
「うわっ、それってすごいもったいないんじゃ――」
まぁな、と頷く魔王さま。それでもな世界樹の木片を炎の中に投入していくのをやめない。
もったいないような、仕方がないような微妙な気持ちにさいなまれていると、魔王さまは薪を放る手を止めて、その一片をノアに手渡した。
「これで一つでどのくらいの値段なんだろう」
『さあな、私の時代でもかなり希少なものだったからな。木の葉一枚で五万ゼル位した気がする」
ちなみにそのお値段を日本円で換算したところ、新車三台分のお値段だというのだから驚きだ。
『成長すれば天空まで伸びるものもあるらしい。この樹の根元に巨大な都市を築く国もあれば、そこを聖域として祀る宗教もあるくらいだ。まったく不思議な樹だよ』
身振り手振りで説明してくれる魔王さま。
過去にも現物を見たことがあるらしく、教会の象徴にさえなったことがあると語って聞かせてくれた。
つまり、この身体は奇しくもこの世界樹の苗木によって守られていたのだ。
でなければ、あの『災害』のように何もかも壊されていたに違いない。
『違いない。まぁそんな軟な造りにはしていないが、こいつのおかげで無事に転生できた節はあるな』
誰からも干渉されずに守るように、野原の中心に堂々と起立する苗木。
そのえぐれた幹を何度か叩く魔王さまの表情はどこか懐かしいものを見るように穏やかだ。
ここが聞き時だと思ったのは直感ではないかもしれない。
意識せずにノアの口は動き、話を切り替えるようにまっすぐな瞳で魔王さまを見つめた。
「魔王さま。いくつか質問してもいい」
『……後で説明すると言ってしまったからな。答えられる範囲ならいくらでも答えよう』
炎の光に反射して深紅の瞳はより一層輝きを増していく。
真摯に向けられる瞳はどこまでも真剣で、濁りはない。
心のなかでありがとう、と小さく呟きノアは魔王さまに向き直るように身体を傾けてた。
どんな真実でも覚悟はできている。
大きく一度深呼吸をすると、ノアは魔王さまと同じ真っ赤な瞳を向けた。
「魔王さま……どうしてあの時、僕の身体を乗っ取るなんて言いだしたんですか?」
一瞬、答えに迷ったのか。ほんのわずかに間が開いた。
それでも、魔王さまはノアから瞳を逸らすことなく、言葉を選ぶようにして逡巡したのちはっきりと口を開いた。
『私の役割を手っ取り早く理解してもらうためだよ、人間』




