プロローグ
ジャラジャラジャラ。
石畳と鉄の擦れる無機質な音だけが響く。今日も私は部屋の中。
ジャラジャラジャラ。
ああ、また一人貰われたんだ。今日も私は部屋の中。
ジャラジャラジャラ。
次は私が買われてしまう。明日はきっと、私が売られる。
足に付けられた枷が冷たい。夜が涼しくなってきて、石造りの部屋もひんやりとしてきた。唯一自由な手に息を吐きかけて暖を取る。私の命は薪一本よりも軽いのだ。
部屋に備え付けられた窓とも呼べない四角い穴からは僅かばかりの月明かりが差し込む。私にはドワーフのような力も無ければ、エルフのような聡明さもない。ビーシャの様に獣のような感覚も持ち合わせてはいない。
私は、ただの人間。
ここに来る前の様に、あの月の全てを見たい。そう、鉄格子の嵌められた窓に手をかざすと、晴れた空には靄がかかり月明かりが翳ってしまう。本当に何をやってもうまくいかない。
ジャラ、と鎖を鳴らす。先に繋がれた重りでさえ私にはどうすることもできない。私にできることは、ただ誰かに買われて外に出るのを待つことだけだ。
すう、と息を吸うと空気がやけに湿っぽいことに気が付く。ぼんやりとしていた月はもう見えず、靄は霧となって視界を覆っていた。
「このまま死にたい……。」
そう零すと呼吸がなぜか軽くなった。この世界は私の好きなものを、願いを、全て取り上げてしまうらしい。
「──商品が死にたいだなんて、おかしなことを言うのね。」
どこかから投げかけられた言葉にギョッとして辺りを見回す。部屋を覆っていた霧は私の前に集まり、窓からは月明かりが差していた。
「死なれてしまっては私が困ってしまうわ。ずっと、最後の一人を待っていたのだから──。」
霧は人の形を取り、やがて幼い少女が現れる。──吸血鬼だ。いつか、教会でみんなの勉強をこっそり盗み見していた時に知った。霧や獣に姿を変えることができると。
微笑む少女の口元からは一際目立つ犬歯が月明かりを反射している。ついさっき、死にたいといったばかりなのに。私の手足は小刻みに震え、怯えきった喉からは震える声が漏れだす。
「あら、祈りの言葉を知っているのね。ここのどの奴隷にもそんな高尚な事は出来なかったのに。でもあなた、間違っているわよ?」
よりいたずらな笑みを浮かべると、吸血鬼の少女は歌うかのように祈りの言葉を紡ぎだす。嗚呼、そんな──。
こんな死に方はしたくない。咄嗟に体を丸めて目を瞑ると、私の頭の中では幸せだった頃の思い出がぐるぐると巡っていく。そして、一つの思いだけが残る。
──何のために生まれたんだろう。
真っ暗な視界の中でふるふると震えながら、最期の時を待つ。さあ来るぞ。もう来るぞ。今に私の首筋に鋭い牙が突き立てられる。ほら──
首筋にいやに冷たく、柔らかい何かが触れる。
「目を開けなさい。あと、鎖が床に擦れてうるさい。」
殺されない? そう思い恐る恐る目を開くと、目の前には不貞腐れた少女の顔があった。
「私はお前を殺しはしない。だけど、命を握っている。」
「それは……。」
いつでも殺せるという脅しだろうか。しばらくの間が続くと、少女は思い出したかのように呆れ顔をした。
「そうか、解らないか。あなたはね、違法な商品なの。そして私は“ソレ”を買い取りに来た。」
私が、イホウ……。きっと、良くないことなんだろう。それはそうだ。私は人間。それだけでこの世界では罪なのだから。
「ああ、やっぱり最低限の言葉しか理解できないわよね……。いずれ話すとして、私はあなたの未来を私の命で買うわ。」
そう言って、少女は私に手を差し出す。
「この手を取れば、お前はもう奴隷ではない。私の所有物の人間だ。さあ、どうする?」
彼女の並べ立てる言葉の意味は理解できない。だけど確かな言葉を口にした。私が奴隷ではなくなる。それだけで、私にはこの手を取る意味がある。
そっと、少女の手に自分の手を重ねる。その手はやっぱりとても冷たかった。
ジャラ……。
微かに鳴った鎖の音に、少女は舌打ちをすると鎖を踏みちぎる。
「少し荒い道になるけれど、覚悟はいいかしら?」
悪魔。そう聞いていた吸血鬼だったが、今私の目の前にいる彼女は、きっと私にとっての天使に違いない。
「はい。」
「そう──ようこそ、ならず者の住処へ。歓迎するわ、人間。」
この日、この瞬間から私、アレーナは、ローザ・スプリングフィールドに仕える人間になった。