朝
忘れたい過去。
それはきっと誰にでもある。
他人から見れば笑ってしまうほど小さなものでも、他人の一生分程の苦労を三日で背負い込んだようなえげつのないものでも。
事の大小を問わず、それらが本人にとって忘れたい過去ならば、それは「後悔」となり死ぬまで自分を呪い続ける。
そんな後悔を糧にして生きる人間は、きっと胸を張って生きる理由を言えるのだろう。
しかしそんな人間はごく少数だ。
ほとんどの人間はその後悔に縛られ、理由も無いままその殺伐とした日々を逃げるように生きている。
私は後者だ。
私は後悔に立ち向かおうとしたことはない。
ただ逃げて、逃げて、逃げて…
いつかは道が無くなり崖から落ちると知っていながら、逃げることしかできないでいる。
それは単なる逃げ損ではないかと言われると、はいそうですねとしか言い様が無い。
世の中には「生きるために生きる」とか「死んでも誰かの心の中で生き続ける」などと言い張る者もいる。
しかしそれは現実逃避に過ぎない。
死んだら死ぬ。
たったそれだけの事を、人々は認めたくないのだ。
わかっていた。
そんなこと、クリスマスに枕元にプレゼントを置きに来るのは大きな白い袋を抱えるサンタクロースではなくビックカメラのレジ袋を持った親であると確信した頃からわかっていた。
だと言うのに、また夢に出てきてしまった。
もうとっくに息の根が絶えた母が、夢の中で息をしていた。
彼女は息を吸っていた。
彼女は息を吐いていた。
彼女は笑っていた。
彼女は話していた。
彼女は私の頬を両手で包み込むように触った。
彼女は死んだ人間には出来ないことを、夢の中で普通にしていた。
しかしそれらは私の脳が作り出した幻想に過ぎない。
そこに彼女の心など存在せず、姿形が私の脳によって再現されただけなのだ。
私は母の夢を見る度、そんな現実をつきつけられているような気がする。
現実は私に言う。
前を向け、今を見ろ、後ろを振り返るな、と。
今なんか見ても、「おはよう」と言ってくれる人はもう存在しないのに。
「おはよう… ございます…」
私は振り返った。
そこには目を擦る実晴の姿があった。
誰かからその言葉を聞いたのはいつぶりだろうか。
私は涙を溢しそうになった。
肩が小刻みに震え、鼻頭が熱くなる。
堪えたその水滴は、なぜか暖かく感じられた。
私は目を擦ってごまかし、言葉を返す。
「おはよう。…幽霊って寝れるんだ。」
実晴は両手を前に伸ばす。
「いえ… 死んでから初めて眠りました…」
実晴は頬を軽く掻きながら言った。
その声には昨日の重苦しさは無く、か細く高めな声質がしっかり目立っていた。
「どうか… しました… か…?」
実晴は心配そうにこちらを覗いた。
よほど顔に出ていたか、あるいは実晴が敏感なのか。
別にどちらでもいいのだが。
「なんでもないよ。うん。」
私は平然な声を装う。
これは誤魔化しであり、嘘ではない。
私はまだあの事を話すことができない。
それどころか、あの瞬間を思いだそうとするだけでも頭が締め付けられ喉に針を入れられたような感覚に陥る。
それでも、いつか。
きっと話せる気がした。
いや、話さないと行けない気がした。
その、一つの尊い命が散った瞬間を。
ただ今は、今だけは、この朝を噛み締めていたいと思った。
隣に幽霊がいる、一人から解放されたこの朝を。