感触
何年も離れることが出来なかった地縛から呆気なく解放され、私は霞坂日菜に手を引かれ歩いていた。
彼女の手は温かい。
細胞一つ一つが彼女の熱に包み込まれていくようだ。
私は地縛霊になってから、寒さに身を震わせたことも暑さに汗をかいたこともなかった。
そんな私にも、この柔らかい温かさを感じることができた。
私はそれだけで涙が溢れそうだった。
「あ…」
日菜が急に顔を赤くし、私の手を握る手を離した。
私は残念さに似た気持ちを数年ぶりに感じた。
「ごめん…!人前でこんな…!!はっ、ー恥ずかしい…」
日菜が自分の手と周りの人々に視線を交互に向ける。
「それなら大丈夫ですよ… 私、幽霊なので… 普通の方々には見えないと…」
「…あんたたまに凄いぶっ飛んだこと言うね。」
どうやら全くを持って信じて貰えていないらしい。
信じて貰えないことには慣れている。
それどころか誰も私の言葉を耳にしようとはしてくれなかった。
助けを求めても、返ってくるのはさげすんだ視線だけだ。
「目は心の窓」というが、私にとって他人の目は全て矛先にしか見えなかった。
いつ私を刺してくるのか、元々これ以上悲しいことなど無い筈なのに常に怯えていた。
私は日菜の目を見た。
そこには刃など無かった。
こんな目にいつも見守られて居られたらどんなに良いだろう。
離れたくない。
彼女の視界から外れることが怖い。
そうしたらきっと私はまた一人になるだろう。
一人が嫌いな訳じゃない。
しかしなぜだろう。
こんなにも胸が締め付けられるのは、なんという感情なのだろうか。
「おーい?また意識飛んでる?」
ふと我に返る。
日菜が私の顔を覗き込んでいた。
彼女の短い茶髪が秋風にたなびく。
私が何か言葉を返そうとしたが、誰かがこちらを指差して何か話しているのを聞いて口を閉ざす。
「ねえ、あの子一人でずっと喋ってるよ!」
「独り言じゃね?」
「そんなレベルじゃなくて。マジやべえわ。」
私はなんとなく察しがついたが、日菜はその指の方向を目で辿り、ようやく周りに自分達しか居ないことに気がつく。
「実晴…?」
日菜が私の名を小声で呼んだ。
私はいきなり下の名前で呼んでくれたことについては何も言わず、「なに…?」と返した。
「一人でしゃべってるって… 私達のこと?」
「多分… 日菜さんのこと… じゃないかな?」
私もさりげなく下の名前で名指しした。
日菜のまぶたがピクリと動く。
「いやでも、私の隣にはあんたが…」
日菜が同意を求めるようなトーンでそう言った。
今まで散々幽霊と自称していてなんだが、幽霊と知られて嫌われてしまうことはないだろうか。
しかしここで嘘を言っては彼女を騙したことになる。
だからといってどうという事もなければ、彼女に執着する理由など私には無いはずだ。
なのに、どうしてか私は行動に移すことにした。
私は先程の通行人の目前、5cmほどの距離に立つ。
通行人は私の気配にすら気付かず、そのまますり抜けて行った。
日菜は口を大きく開き、上唇を小刻みに震わせる。
「私… 本当に幽霊… なん、だ…。」
日菜が目を白黒させる。
冗談だと言って欲しそうな顔で。
「そ、そんなわけないじゃない!だって私はあんたの手…」
「私も… 貴女が…初めて、だった。」
日菜は過呼吸気味になりながら呆気に取られている。
当然だ。
ああ、なんで言ってしまったのだろう。
人間は異質なモノを排除しようとする。
今まで何度も経験してきた事だ。
ならばこうなるに決まっているのに。
結局私はいつも一人だ。
異質な存在はどの時代も孤立する。
日菜は足を震わせている。
ここまで怖がらせてしまった。
私はやはり「生きる」に少しでも触れることは出来ないのか。
私は目を一度閉じる。
本来そこに無い筈の瞼の裏側に日菜が映る。
そこに映る彼女の虚像は、他の人と同じように矛先のような視線を向けていた。
再び目を開くと、日菜がこちらに倒れ込むように近づいてきていた。
動揺する私の頬を日菜の両手が包んだ。
「日菜さん…!?」
私は突然のことに動揺し声が裏返った。
「触れるよ。私はあんたのこと、触れるよ。」
日菜は真剣で、真っ直ぐで、それでいて柔らかを感じさせる目で私をじっと見つめながら言った。
たったそれだけの言葉だ。
私を叱るようで、励ますようでもあるそのたった一言が、私の身体を包み込んだ。
地面にぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。
それが夕立ではなく、私の顔から垂れ落ちたものだと理解するまでには数秒の時間がかかった。
もう存在しないと思っていた水滴。
痛みと苦しみでしか流したことの無い水滴。
静寂の中、日菜が口を開いた。
「うち、来る…?」
彼女の足は、まだ小刻みに震えていた。