太陽
空気の動きすら感じられない静寂の中、小さな雨音だけが小刻みに響く。
擽るように中途半端な寒気が私を取り囲んで漂い、夕焼けの日は当たらず辺りは薄暗い。
しかしその何よりも静かで暗い存在、それは私である。
誰にも見えない姿。
誰にも聞こえない声。
それは「存在」が半分失われた状態を意味する。
そう、私は幽霊である。
私が死んだのは今日のような霧雨が降る秋の日だった。
父親が逃げ、母親は酒に狂い、私はいつしか学校ですら避けられるようになっていた。
いつの間にか私の居場所はどこにも無くなっていた。
差し延べられる手も、心配の眼差しも、友情も、愛も、夢も、希望も、今日も、昨日も、明日も…
私の手には何一つ残って居なかった。
必死に探して、見渡して、それでも見つからなかった。
私は気が付くとこの公園に居た。
木にロープを結びつけ、そこに首を入れた。
死にたくてたまらなかったのに、生きる理由なんてなかったのに。
感じたのは恐怖だった。
そして私は死んだ。
いや、殺したのだ。
私は私という人間を自ら殺したのである。
だから私は殺人鬼に等しい罪を持った。
その罪を神は許さなかった。
私はこの木から離れられなくなっていた。
私はどこにも行くことができない。
前にも後ろにも上にも下にも東にも西にも。
地球の周りをぐるぐる回る月のように、どこに行こうとしてもこの木が私の影を掴んで離さない。
滑稽な話だ。
消えたくて消えたくてたまらなかったのに、星が枯渇するまで消えるどころか動くことさえ許されない身になったのだから。
でも私はそれで満足だった。
私の居場所はここにある。
私がここに居ても文句を言う人など居ない。
だって私は誰にも見えないから。
私の声は誰にも聞こえないから。
私は…
「こんなところでなにしてるの?風邪引きたいの?」
少女の声が存在しないはずの私の耳を通った。
まさか私に向けたものではあるまいと私はまたたそがれる。
「ねえ、聞いてる?ねえってば。」
またもや少女の声が響いた。
見えているのか、と私は一瞬期待するが、死んでいるのだから人間には見えないはずだ。
そして私は疑問に思った。
私はなぜ、一瞬期待を覚えたのかということに。
「おーい、生きてますかー?」
少女が私の目の先で手を降る。
後ろには誰も居ないようだ。
これは逆に私以外に誰が居るというのか。
一瞬戸惑うが、勘違いだったとしても私の声は聞こえないのだ。
「あの… 私、死んでるんですけど…」
私は思いきって声を出してみた。
久しぶりに言葉を発したので声は重苦しさを感じさせるトーンであった。
少女は体をぴくりと震わせた。
「うわぁ…!?ビックリした!!いきなり話し出さないでよ…」
今、この少女は明らかに私の声に反応した。
まさかと思うが、一応聞いてみることにした。
「あなた、もしかして… 私に話しかけてたり…?」
少女は一瞬目を丸くすると、再び口を開いた。
「それ以外誰が居るのよ。アンタもしかしてイタい子?」
本当に私に対して話しかけていたらしい。
霊感の強い人というモノだろうか。
私のような地縛霊も存在するこの世界に、幽霊が見える人間の一つや二つ居たって不思議ではない。
「んなことより傘とか上着とか持ってないの?ほんとに風邪ひくよ?」
「いえ… 私は、風邪引かないので…」
私はやはり重苦しい声で答える。
私は風邪など引かない。
風邪を引けるのは生きる者だけである。
「いやどういう自信よ。あーしょうがないな。」
そう言い捨てると少女は自らのレインコートを脱ぎ、私に渡してきた。
「これでは… あなたが風邪を引いてしまいます…」
「私は長袖のパーカー着てるから大丈夫。」
「いえ… 私は本当に…」
「いいから着なさい!」
私は言葉に押され、その上着を着ることにした。
そんなもの必要ないはずなのに、久しぶりの温もりに無い心が温まる。
少女は軽く身震いさせた。
「なんかここジメジメするから別のとこ行こう。」
少女は私の触れないはずの手を自らの手で取った。
「待って下さい、私はここから…」
「離れられない」と言い切る前に、私は彼女の手に引っ張られていた。
ずっと越えられなかった木の影を、少しずつ彼女が進んでいく。
地球の周りを回る月のように離してくれなかったこの木陰が、どんどん遠のいていく。
まるで彼女が月の何倍もある地球の、そのまた何倍も大きい太陽であると主張されるように...。
そして私の足は、その地面を漂う黒いものから解放されていた。
私はもう地球の周りをぐるぐる回る月ではなくなってしまった。
そして見えたのは、眩しいほどの暖かさと光を与えてくれる太陽。
そして私は地球になった。
どうしてだろうか。
そのことに、心を溶かす程の喜びを感じているのは。
彼女の微笑みをもっと近くで見てみたいと思ってしまったのは、どうしてだろうか。
一度書いてみたかった幽霊百合です。
最初は短編にしようと思ったのですが、ゆっくり丁寧に心情の変化を書いていきたいなと思い連載にしました。最後までお付き合いして頂けると幸いです。