第二章 (2)
「朝からおもしれぇことしてんなぁ冬道は」
「他人事だと思って……」
今日も朝一番に抱きついて来ようとした柊だったが、俺の怪我を見て自重してくれたらしい。飛び付く姿勢を途中で解いて、前の席に座って女の子にあるまじきにやけ面を晒していた。
「つかなんで重傷?」
「いろいろあったんだよ。あんま訊かないでくれ」
「……その怪我、もしかして結構ヤバめなのか?」
心配する言葉とは裏腹に触ろうとする柊をしっしと追い払う。
唇を尖らせて不満を訴える態度に、俺は当然だろと鼻を鳴らす。
「大したこと……は、あるな。だから触ろうとすんじゃねぇ。マジで痛いんだよ」
ほんとうは体を動かすのも億劫で学校を休もうと考えたくらいだ。真宵後輩に余計な心配と負担をかけまいと無理に登校したけど、それが裏目にでた感は正直否めない。
「そんなので飯とか食えんの?」
「あー……まあ、食えんこともねぇけど……」
腕を動かすだけならまだしも、箸を操る繊細な指使いはかなり難しい。
朝はつみれに我が儘言ってトーストを中心とした、そこまで指を使わないメニューにしてもらった。嬉しそうに終始笑顔だったのは疑問だが、とにかくそれで凌いだ次第である。
「でも辛いんだろ? 指先まで包帯ぐるぐるだしさ。だ、だからさ……」
不意に柊の頬に朱が差した。
「あ、あたしが食べさせてやろうか?」
「はぁ?」
柊のわけのわからない提案に素で疑問を返すと、急にわたわたと慌て始めた。
「ほ、ほら! 友達が困ってたら助けるのが友情ってやつだろ? この場合は冬道が箸使えねぇからあたしが食べさせてやるってだけで、た、他意はねぇんだからな。勘違いすんじゃねぇぞ!」
「キレられても困るんだが」
「誰もキレてねぇし! いっつもこんな調子だし! それよかどうなんだよ! あたしに食べさせてもらいてぇのかもらいたくねぇのか!?」
いや、だからキレてんだろ。俺は内心でそうごちりながら、急接近してきた柊の顔面を反射的に左手でキャッチする。
「まずは落ち着いてくんねぇかな。そもそも使えねぇわけじゃないし、昼休みは真宵後輩に呼び出し喰らってるからどっちにしろやらねぇよ」
もがもがと苦しそうにする柊を解放しながらそう言う。
すると露骨に態度を一転させた。
「……そう言ってあいつにやってもらうんじゃねぇのか?」
「だから箸使えるって言ってんだろ。つうかなんで不機嫌になってんだよ」
「なってねぇよバーカ」
柊の機嫌の上下に呆れ果て頬杖をつく。
異世界でもどこでも、たまに見せる女の子のこの反応だけはまったく理解できない。なにか気分を悪くするようなこと言っただろうか? ……言ってないけどやってたか。顔面を鷲掴みにしてたし。
「そもそも冬道ってあいつとどんな関係なんだよ」
真宵後輩をやけに目の敵にする柊に疑問を抱きながら唸る。
俺と真宵後輩の関係か。
まさか一緒に異世界を救った勇者だ、と言ったところで信じてもらえるわけがない。これは断言できる。かといって柊を満足させられるような理由がほかにあるかと言えば、答えはノーだ。
異世界に召喚されなければ真宵後輩とこうして会話をするどころか、まともに顔を会わせることだってしなかっただろう。
天文学的な偶然が俺たちを巡り会わせてくれた。
だからやはり異世界に召喚されたというしかないのだが、それだと最初に戻ってしまう。
しばらく頭を捻り続け、やがて思考するのが面倒になった俺は、
「なんだっていいだろ。少なくともお前が邪推してるような仲じゃねぇよ」
適当にお茶を濁すことにした。それでも嘘は言っていない。大方、俺と真宵後輩が恋仲だと思っているのだろう。
しかし異世界でほとんどの時間を共に過ごした俺たちの関係はどちらかと言えば家族のそれに近い。俺が真宵後輩に好意を抱いているのは事実だが、しかし恋人同士になりたいかと訊かれれば即答はできなかった。
「ふうん。……なら、いいんだけどさ」
疑わしそうに目を細めつつも落ち着いてくれた柊は表情を一転させると、
「ところでさ冬道、いま結構話題になってんだけど知ってるか?」
背凭れを抱いて椅子を前後に揺さぶりながら訊いてきた。切り替えの早さには舌を巻くしかない。
俺はやや唖然としたあと気を取り直して、
「なんだよ話題になってるって。真宵後輩のことか?」
「んーん。あ、もちろんそれもあんだけど、あたしが言いたいのはそっちじゃねぇんだなぁ、これが」
「もったいぶらねぇで早く言え」
得意気に指を振って語る柊の態度にこめかみがピクッとしてしまった俺は、冷水を浴びせるかのようなそっけない口調で続きを催促していた。
直後にやってしまったかと罪悪感が込み上げてくるも、顔を上げれば当の柊は「ノリ悪いなー」と不満そうにするだけで気分を害した様子はなかった。
昔ながらの男友達のような気軽さで笑ってさえいる。
柊は立てた指を引っ込め、背凭れの上に自分の腕を枕代わりにして頭を置く。
「なんでもうちのクラスに転校生が来るらしいんだよ」
「転校生?」
「凛子ちゃんがポロってこぼしてたんだってさ。職員室に転校生っぽいヤツが入ってくのも見たって言うし。しかも驚くのはそこだけじゃねぇんだよ」
「へぇ。ほかになんかあんのかよ」
「おう。なんと! その転校生って外国人みてぇなんだよ!」
柊の口から飛び出した聞き捨てならない言葉に俺はつい身を乗り出していた。
「ほんとうなのか、それ」
「え、あ、う、うん。見たヤツはそう言ってたけど……」
しどろもどろに答えた柊から離れるとどっかと座り直して腕を組む。
昨晩に俺たちを襲ったディクトリア=レグルド――魔術師を名乗る男は、それ以前に何者かと戦闘を繰り広げていた。俺が受け止めた少女がそうなのだろう。暗がりで顔の造形までは見られなかったが、あの少女が金髪だったことはよく覚えていた。
金髪の少女と金髪の転校生。
この二つを繋げるのは髪の色しかないが、これらを偶然で片付けるのは不自然に思える。
だとすれば、転校してくる――いや、話によれば職員室に入っていったとのことだから、転校してきたのはと言うべきだろう。とにかく、ここを訪れたのは俺たちに接触するためだろうか。
「おーい冬道? どうかしたのか?」
「……いいや、なんでもない」
昨日は聞きたいことが山ほどあったというのに気づけば姿をくらませていた。
意地でも探し出して話を聞き出してやろうと思っていたのだが、向こうから近づいてきてくれるとは好都合だ。探す手間が省けた。
「もしかして冬道も楽しみだったりするのか?」
「まあ、ある意味そうかもしれないな」
ディクトリアの接触は近くないと俺は予想していたが、真宵後輩はそれよりも金髪の少女を警戒すべきだと言っていたが、まさかほんとうにそうなるとは思いもしなかった。
もし戦闘になるのならかなりマズイが、しかしそれ以上に心が踊っていた。
こちらの世界に帰ってきてからずっと抱き続けてきた渇き。それを潤すに足りる存在が迫ってくる感覚に全身の血液がたぎるような昂揚感すらあった。
がらりと教室のドアがスライドして、陰鬱な雰囲気の幼女先生が入ってきた。
「はいはい皆さん、席についてくださいねー」
幼女先生が教壇から顔を出し、談笑を続けるクラスメートを見渡して言う。
柊も椅子から立ち上がって手を振り、自分の席に戻っていく。
全員が自分の席に着地したのを確認した幼女先生が、今朝のやり取りでのし掛かったであろう疲れを表に出すことなく元気に挨拶をする。
「今日は皆さん転校生を紹介したいと思います。では、入ってきてくださーい」
幼女先生の前フリを受けて教室に入ってきた転校生に、クラスの空気が一瞬にして壮絶な緊張感に支配された。呼吸することさえ忘れたような静寂が教室を包み、一人の少女にここにいる全員の視線が集中した。
金色の髪と碧色の切れ長の双眸。日本人離れした端整な容姿。桃園高校の制服の内側から盛り上がった二つの丘。プリーツスカートから伸びるしなやかな脚。
そして何より彼女を彼女たらしめるような他者を寄せつけない圧倒的な存在感が、生きている世界がお前らとは違うのだと明確に語っていた。
少女は教室に何気ない仕草で視線を巡らせる。
廊下側から窓側へ。
そして俺と目があった瞬間、わずかに彼女の表情が歪んだ。
「アウル=ウィリアムズです。母の都合でイギリスからやって来ました。まだまだ日本には不馴れでわからないことが多いですが、皆さんよろしくお願いします」
そう言ってお辞儀したアウルに圧倒されながら、まばらな拍手がぽつぽつとこぼれる。
アウルはそれらに涼しげな微笑を浮かべる。
しかし視線だけは俺に鋭く注がれ、射抜かんばかりに凝視している。
その後、少しだけ雰囲気を崩したアウルに転校生ならではの質問タイムが開かれた。
最初は控えめだったクラスの連中も話してみれば案外社交的だったアウルに打ち解け始めたらしく、どんどんと盛り上がりを見せていた。
俺はそれには加わらず、ひとまず騒ぎが沈静するまで机に突っ伏して待つことにした。