第二章 (1)〈動き出した歯車〉
「おはようございます」
朝、玄関を開ければ不機嫌そうな表情を作った真宵後輩が立っていた。目の下にはくっきりと隈が刻まれていて、少しでも余計なことを言おうものなら何倍にもなって跳ね返ってきそうだった。
「先輩」
「お、おう、なんだ? どうかしたのか?」
ともすればドスの利いたような真宵後輩の声に頬を引き攣らせ、一歩後ずさってしまう。
それを真宵後輩は目敏く視線を動かして捉えて眉間にある皺をさらに濃くするが、今の自分の機嫌の悪さで口を開けば心無い言葉を吐いてしまうとわかっているのか、爪先で舗装されたコンクリートを叩いて咳払いする。
「お体の方は大丈夫なのですか? 私が不甲斐ないばかりに、先輩の治療ができず昨夜は苦しくはありませんでしたか? 先輩のためと勝手に決めつけて無理をさせた屑の私が、のうのうと馴染ませるのは間違ってました。こんな私なんて存在する価値なんてありません。やはり私が付きっきりで看病すればよかったですか? それとも今日は大事をとって学校を休みますか? そうしたら私がこの身を犠牲にしてでも先輩を――」
「待て待て待て! いっぺんに喋るな!」
ほっとけばいつまでも自分を責め立て、俺を心配する気持ちを並べ立てようとする真宵後輩を、大声を発して強制的に止める。
ご近所さんたちが何事かとこっちを見ているので、愛想笑って誤魔化しておく。
「ですが……」
数秒前の不機嫌はどこに消え失せたのか、しょんぼりと俯いている。
俺は肩をすくめて嘆息すると、こっちに差し出された頭に手を乗せる。
「見ての通り大丈夫だから落ち込むなよ。な?」
「……全然大丈夫に見えないから言ってるんじゃないですか」
そう言って真宵後輩は俺の右腕に軽く触れる。
――刹那、電撃を流されたような衝撃に悲鳴を上げそうになった。
実のところ真宵後輩の見立ては合っている。剣を握って振り回していた右腕は筋肉のところどころが断裂してたし、骨なんて皹が入って一部は欠けていたのだ。大丈夫なわけがない。
俺は平気を装って右拳を握り、素早く数回振り抜いてみせる。
「昨日はブーストしたまま寝たから、まだ本調子とは言えねぇけどほとんど治ってるよ」
「じゃあどうして包帯だらけなんですか? 明らかに重傷じゃないですか」
「……見た目は治んなかったんだよ」
我ながら言い訳苦しい言い分に真宵後輩の背後に怒気が立ち込める。
「そんな怖い顔すんなよ。つうかお前のそのギャップはどうにかなんねぇのか?」
「なりません。諦めてください」
右腕の痛みを悟られないようにしながら、彼女の即答に乾いた笑いをこぼす。
普段は敬語を使うだけで先輩を敬わない真宵後輩なのだが、ある条件を満たしてスイッチが入ると途端に情緒不安定になり、恭しく世話を焼こうとしてくるようになるのだ。その条件というのが、俺が怪我をする――というものだった。
疑問で仕方がないのだが、どうしてこうなるのか真宵後輩でもわからないらしい。
一度だけ治そうと試みたものの、目の前で俺が怪我するのを黙って見ていられるわけがなかったようで、協力してくれたパーティーメンバーに生死の境をさ迷わせるだけの結果に終わった。その後に真宵後輩が治療したけど、思い出すのもおぞましい方法で九割殺しにされたメンバーは深いトラウマを植え付けられ、数ヵ月は近寄れなかったという逸話を作り上げていた。
「それで先輩、ほんとうはどうなのですか? 私が肩を貸さなければ歩けなかったのに、たかが第三段階で回復するはずがありません。私に心配かけまいと無理をしているのでしたら余計なお世話です。むしろ心配をかけてください」
「その言い方もどうかと思うんだが……」
「いいから答えてください」
急接近してくる真宵後輩。
真宵後輩の言うように昨日の俺は彼女の肩を借りてやっと歩けて、それでも足取りが覚束無い有り様だった。ブースト状態で自然治癒力を高めて体を休めても、指摘された通りほとんど回復していないし歩くのがやっとだ。
傷口も塞がったと言えば塞がってるけど、少し無理をしたらすぐに開いてしまうだろう。加えて低スペックの身体で限界を越えた動きを再現したせいで骨格にもガタが来ている。
実は今もブースト状態で、これを解いたら一歩も動けなかったりする。
しかし正直に告げたら確実にスイッチがが入るだろうし、一度入ったら俺を完治させるまで絶対に止まらないだろう。
彼女が俺に無理をしてほしくないと思っているように、俺も彼女に無理なんてしてほしくない。たぶん激痛を伴うとしても、上級の治癒術式を編めるよう波脈を抉じ開けようとするはずだ。
「大丈夫だって言ってんだろ。お前こそ目の下に隈なんか作ってどうしたんだよ」
「一晩かけて波脈を抉じ開ける作業に没頭してました」
すでに手遅れだった事実に俺は頭を抱えた。
「昨日の状態を考慮すると初級は必須、中級は大前提、上級でやっとと言うくらいでした」
「そんな酷くねぇよマジで。盲目的すぎて怖いわ」
上級治癒術式と言えば欠損部位の完全再生が可能なレベルだ。術師によって欠損部位、すなわち人体から切り離された腕なり足なりがなければ結合できないのだが、真宵後輩は生きるに最低限の状態の生き物であれば、奇跡と言うべき再生が可能なのだ。
俺のは初級があれば十分すぎる程度だったのに、上級じゃないとダメだとかどんな重傷者を想定しているのやら。
「ですので気絶してから五分刻みで起きれるよう目覚ましをセットして挑みました。結局、五回を越えたところで意識を繋ぎ止められなくなって眠ってしまいましたけど」
「莫迦かお前は!」
怒鳴られて震えた真宵後輩の肩に掴みかかる。一瞬だけ怯えたように身を竦ませるが、すぐに気丈な態度を取り繕う。
だが、今回のは見逃すには度を越えすぎていた。
「そんな無理したらお前が壊れるかもしれねぇだろうが! 少しは考えやがれ!」
「考えた末の行動です。それにデッドラインは見極めています。無理してるのは否定しませんが、先輩のような無鉄砲な無理とは違います」
「ごちゃごちゃうるせぇ! ……なあ、頼むから、そんなことしないでくれよ。俺は……」
「俺は、なんですか?」
言い淀んだ俺に続きを促すよう厳しい視線を差し向けてくる。
俺はガリガリ後頭部を掻き毟り、
「お前に俺のためだけに自分を蔑ろにしてほしくないんだよ」
「なにを自惚れてるんですか? 先輩のためだけじゃないに決まってるじゃないですか。その……あれです、魔術師を自称するイタイ人を返り討ちにするためですよ。恥ずかしい勘違いですね?」
「ああそうかよ。理由はなんでもいいけど、頼むから自分を蔑ろにするな」
語気を強くして真宵後輩に念を押す。
「……だったら先輩も、自分を大切にしてくださいよ」
「なんだって?」
ふいっとそっぽを向いた真宵後輩は小口でなにかを呟いた。あまりにも声が小さかったので訊き返してみれば、
「なんでもありません!」
当社比三割増しの真宵後輩さんの睨みをちょうだいするはめになった。
なぜだ。ただ訊き返しただけだというのに。
「学校、行きますよ」
すっかり機嫌を損ねた真宵後輩は、ずんずん歩き始めてしまった。
いや、ちょっと、すげぇ早歩きなんだけど。
俺は第一段階だったブーストを急遽第三段階まで引き上げて、体に負担がかかっていると悟られないように追い付く。
「それで昨日の自称魔術師の男のことですが、先輩はどう思いますか? あと……」
「金髪の女だな」
言葉を受け継いで俺が締める。
脳裏にハルバートをたずさえた神父姿の男と、とっさにキャッチしたためかろうじて金髪だとわかった女がよぎった。
「いちおう考えてはみたんだけど、どう考えてもありゃあ波導じゃない。かといって事前に準備してたってわけでもなさそうだし、つまりあの爆発と糸は物理現象を無視した事象になるだろうな」
「先輩もそう思いましたか」
「でも、精霊の加護もなしにあんな超常現象を引き起こせるもんなのか?」
異世界でも精霊という規格外の存在があって初めて波導が成り立つというのに、それなしで事象を起こせるとは考えられないことだ。
「私の推測は二つです。一つが異世界に召喚されたことまでは同じですが、帰還する際にあの力がある世界に詰め込まれた可能性」
「もう一つは?」
「――私たちが知らなかっただけで元々、あの力が存在していた可能性です」
「なるほどな」
「当人たちに問い質さなければわからないことだらけですので、正否の確認もできませんけど。ですがそのうち接触してくるでしょうから、焦らずとも自ずと解答に辿り着くでしょうね」
「だってのに落ち着いてるのもどうかと思うけどな」
異世界に召喚されたことがあるだけに、元の世界に超常現象を引き起こせる奇跡があっても驚きが得られないのだ。しかも下手に最上級の天災と対峙して勝っているわけだから、あの力が強力だと思えても脅威だとは感じなかった。
あれが力の一端なのか、それとも全容なのかは定かではないが、発動する現象が爆発なら、ハルバートも届かない懐に潜り込んで剣を振り回すだけでいい。あとは俺の身体がそれについてこれるか、ということになる。
ただ、神父とは別にもう一人誰かがいた。俺としてはそっちの方が懸念すべきだ。
「ですから、まずは先輩のお体を治すのが先決ですね。……それとも私が戦いましょうか?」
「やめてくれ。つってもすぐには仕掛けてこねぇだろ」
それほど深い手傷は追わせられなかったが、せいぜい数日は安静にしなくてはならないほどのダメージは与えたはずだ。回復する手段があったらすぐにでも仕掛けてくるだろうけど、一旦退いたということは、ないという解釈でいいだろう。
なんにしても数日は平和に過ごせるはずだ。まあ、全部が推測で確証はないんだけど。
「どちらかと言えば、私が心配しているのは金髪の女の方なんですけど」
「珍しく意見が食い違うな」
「こういうとき、先輩はフラグを立てるのが上手ですからね。心配にもなります」
「は? フラグ?」
「失言です。なんでもありません。先輩はおとなしく私だけを見ててください」
なんだその誤解を招きそうな呟きは。俺以外に言ったら確実に勘違いされるだろう。
そう思っていると真宵後輩が俺を見て、救いようがないとでも言いたげに呆れぎみに嘆息した。
ぶつぶつと、どうしたら気づいてもらえるやら、なんでこういうときだけ鈍くなるんだ、と苛立たしげに呟いている。
馬鹿な。俺が鈍い? 間違いなく真宵後輩の言葉は理解できているぞ。実行しないだけで。
「おはようございます、冬道くん」
「あ? ああ、凛子ちゃ……久我先生、おはようございます」
校門に差し掛かり通り抜けようとした俺は、そばに立っていた幼女先生に挨拶を返した。
「いま凛子ちゃんって言いかけませんでしたか? 言いかけましたよね!?」
うー、と涙を溜めて睨んでらっしゃるのは我らが2―Aの担任にして新任教師の玖珂凛子先生だ。身長から声音からなにまですべてがミニマムサイズで、子供が背伸びして いるようにしか見えない。舌足らずで童顔なのもそれに一役買っているのだろう。
これで成人していると言われても信じられない幼女先生は、昨日の自己紹介からクラスをほんわかさせて心を鷲掴 みにし『凛子ちゃん』と呼ばれるまでになっていた。
そんな幼女先生は必死に背伸びして、せめて少しでも身長の差を埋めようとしている。それがまた微笑ましくて、ついつい頭を撫でたくなった。
「まったくみんなは先生のことを子供扱いしすぎなんです。冬道くんもどうせ先生のことを――ってなんですかその怪我!?」
「いででででで!! ちょ、触んな!!」
右腕が包帯まみれになっていたのを目敏く発見した幼女先生は、油断していたせいもあるだろうが、目にも留まらない早さで近づいてきたかと思えば、怪我だと自分で言ったにも関わらず勢いよく掴んできた。
さすがに我慢できず、振り払って幼女先生を引き離した。
そして、背後で殺気が溢れ返ったのを明確に感じ取ってしまった。
錆びれた歯車のようなぎこちない動作で振り返れば、 碧の瞳を妖しく光らせる阿修羅が降臨していた。
「やはり無理してたんですね、先輩?」
「い、いやぁ……」
「人に無理をするなと言ったくせに、自分が無理をするとはどういう了見ですか?」
ちょうど登校してくる時間らしく、玄関前である意味修羅場を繰り広げる俺たちを、生徒たちが奇異な眼差しで見てくる。分類すれば俺への負の感情と、真宵後輩への崇拝になるのだが、幸か不幸かと問われれば速攻で不幸だと叫びたくなる状況だった。
真宵後輩が少しでも周囲の空気を読んで行動してくれるならまだマシだっただろう。しかし真宵後輩は眼中にない相手や自分の風評を、良し悪しに関わらず不快に思う性格ゆえに、欠片ほども気にすることなく詰め寄ってくる。
逃がさないようにするためなのか、右腕をガッチリと掴まれた。
「さっき自分で言いましたよね? 先輩のためを思って自分を蔑ろにしてほしくないって。だったら先輩が私に頼らないで無理しているのは、先輩自身を蔑ろにしていると言わないのですか? そうやって私が強引に波脈を抉じ開けて苦しまないように配慮してくれたのでしょうけど、こちらにしてみれば、そうするまでに信頼されてないのだと受け取れるんですよ? 先輩がそう思っていなくても、私はそう感じて心配になるんです。先輩は他人には言うくせに、自分で言ったことを自分できてないんですからほんとうに救いようがありませんよね。頭のなか、カステラでも詰まってるんじゃないですか? 誰かに分け与えるつもりなんですか気持ち悪い」
「あ、藍霧ちゃん? 先生、なんのことかわからないですけど、冬道くんも怪我してますし……」
「部外者は黙っててください」
あえなく撃墜された幼女先生が四つん這いになって落ち込んでいた。
その姿に苦笑する間もなく、真宵後輩の口撃は続く。
「この際だから言わせてもらいますけど、先輩のそういうところだけはずっと大嫌いでした。先輩が私を心配してくれてるように、私が先輩を心配しているのだとどうして気づけないんですか? バカなんですか死にたいんですか? 申し訳ありませんが死なせませんよ。私の目の届かないところに行ったら先輩、なにをしでかすかわかったものではありませんから。先輩はずっとずっと、私のそばにいなくてはならないんです。――わかりましたか!?」
「あ、ああ。……なんか、悪かったです、はい」
「わかってくれればいいんです。それと昼休み、屋上に来てください」
久しぶりに喰らった口撃に頭を垂れる俺を放置して、真宵後輩は靴を履き替えて廊下の奥に消えてしまった。床にラブレターらしき便箋が何枚も落ちたのに、一瞥もくれないのを見るに、ずいぶんご立腹のようで――いいや、それは通常運行か。
俺はズキズキと痛む腕をさすり、未だ落ち込む幼女先生の脇を抜けて教室に歩を進めた。