第一章 (3)
「あたしはもう行くけど、兄ちゃんたちも遅刻しないようにね」
「おう。わかってる」
スカートが翻り、下に穿いたスパッツが露になる。
学生鞄を片手にしたつみれは、背中に翼があるのではないかと疑ってしまう身軽さでリビングを飛び出していき、数秒としないうちに窓の外に現れる。ご近所さんたちににこやかに挨拶を飛ばし、少女の後ろ姿はあっという間に小さくなっていった。
「騒がしい妹さんですね」
真宵後輩はそう言って紅茶を啜る。つみれが用意してくれたものだ。
「ですが嫌いではありません。私たちが静かな分、彼女の騒々しさはムードメーカーとして役割を十分に果たしてくれてますから」
それで、と真宵後輩はカップを受け皿に戻して、
「私に相談――というよりは、一緒に考えてほしいことがあるんじゃないですか?」
いきなり核心を突かれて俺は面食らってしまう。
「なんでわかったんだ?」
「先輩のことならなんでもお見通しと言いたいところですが、顔に出てます。つみれさんが出ていった途端に表情を崩されたら嫌でもわかります」
俺は真宵後輩ほどのポーかフェイスではないが、あまり感情が表に出にくいタイプだ。それなのに二人っきりになってすぐこうなったのは、自分で思っていたより悩んでいたからかもしれない。
乾いた唇を湿らせようと一口だけのつもりで紅茶を嚥下するも、想像以上に体が水分を欲していたらしく、体内に染み渡っていく冷たさに歯止めが効かず、カップの底には最後の一滴も残らなかった。
表を上げ、正面に捉えた少女の顔つきは、あの頃と同じものだった。
戸外でさえずる雀をやかましく思いながら、
「こっちに帰ってきてから、一度でもいいから、力を使ったか?」
自分でも驚くほど低い声。
真宵後輩にその質問は予想の範疇だったらしく、
「どの程度で使ったのかが曖昧ですが、問わずというのなら、答えは是です」
粛々と、淡々と答えを述べた。
「その様子ですと先輩もこっちの世界でも力を使えることに気づいたみたいですね。昨日までの時点で言わなかったということは、今朝ですか?」
「ご名答。顔洗おうかと思って鏡見たら目が真っ赤になってんだ。さすがに驚いた。お前はいつ頃から知ってたんだ?」
その口ぶりからすると。気づいたのは一日二日前ではないだろう。もっと前に、それこそ異世界から帰還した直後くらいにでも真宵後輩なら気づいていてもおかしくない。
「こちらに帰ってきた次の日です。異世界での成長がすべてリセットされていましたから、当然力も使えなくなっていると思ったのですが、試しにいつものように身嗜みを整えようとして使えることに気づいたんです」
「そんなに早く気づいてたんなら教えてくれてもよかったじゃねぇか」
「もちろん考えました。ですが使えると言っても、詠唱もほとんどできませんし、まともに流せる状態ではありませんでしたから、せめて活用できるようになってからと思ってました」
瞼を閉じて、真宵後輩は続ける。
「現在、私たちの肉体は『波脈』は宿していません。これは異世界人である彼らだけに存在する気管で、私たちにそれが宿ったのはひとえに天剣と地杖が擬似的に回路を組み上げ、定着させたからにほかなりません」
「そうだな。この二つが俺たちを戦闘マシーンに改造してくれやがったんだ」
「……言い方は府に落ちませんが、まあ、そういうことです」
金の剣と銀の杖。
天剣と地杖と呼ばれたそれらが勇者の証であり、己らが選んだ人間を扱うに相応しい肉体へと改変する。勇者と言えば聞こえはいいが、結局それはただの戦闘兵器でしかない。
強靭な肉体と化物じみた身体能力を誇る魔族。それは個人で騎士として訓練を詰んだ兵士数人分にも及び、正面から立ち回ろうとすれば、ほぼ確実に必敗する存在。
それらの頂点に君臨する魔王。紡がれる祝詞ひとつで大陸を消し飛ばせる相手とさえ、人間としてギリギリのところで踏みとどまりながらも対当に渡り合える。
そして勇者は人間離れした力を振りかざし、脅威である魔族を退ける。
斬り伏せ、凪ぎ払い、消し飛ばす。
勇者というのは、結局のところ魔王と表裏一体、対となる存在などではなく、全く同一にカテゴリされる殺戮者でしかない。
それを正当化するためだけに、人々は彼らを勇者と呼ぶのだ。
「何度も言いますが、今の私たちに異世界での経験がない以上、波脈も存在しません」
真宵後輩の声が、脱線していた思考を元の路線に切り替えてくれた。
「ですが召喚される前と後では唯一、違う点があります。私たちの関係とかではなく、物理的なものとしての違いです。わかりますよね?」
「馬鹿にするなよ。天剣と地杖だろ」
さすがです、と真宵後輩は頷く。
くすんで淀みきった伝説の宝具。これらだけが、異世界に召喚された物的な証だ。
「今でこそ本来の力を失っていますが、この二つは元々、異世界にいるはずの私たちを見つけ出し、聖女に居場所を伝えるだけの奇跡を内包しています。そしてまた、私たちに戦うための力や身体を与えたのもこれらでした」
「つまりあれか。俺たちが天剣と地杖を持ち帰ってきたせいで、この体も徐々に戦う力が備わってきてるってことか?」
「憶測ですが、可能性としては濃厚だと思います」
「考えられない話じゃないしな」
虹彩が真紅になるのは、身体を急激に作り替えられたゆえに副作用だ。
今朝にそれが現れたのも、おそらくは帰還してからの二週間、天剣を肌身離さず持ち歩いていたため、ゆっくりと進行していた変化が顕著になったからだろう。
「ですがまあ、なぜ使えるのかはどうでもいいんです。その事実が厳然として目の前にあるのですから、いかにして制御するかが重要になります。使う機会はないでしょうけど、使えて困るものではありませんし」
「あったらあったで面白そうではあるけどな。……ん? 制御する?」
「はい。今の未完成のまま以前と同じように『波動』を流すのは、無理やり抉じ開けようとするようなものですから、かなりの激痛を伴います」
「ほうほう」
「ゆっくりと馴染ませつつ、多くを流せるようにしなければなりません。一度だけ失敗して大変なことに……って先輩? どうかしたんですか?」
静かに目を伏せる俺に真宵後輩が問いかけてくる。
「真宵後輩は俺がそれに行き着くとは思わなかったのかな?」
若干の怒りで口調がおかしくなっている。口角がひくひくと痙攣して、わかりやすく怒っているのをアピールする。
真宵後輩は首を斜めに傾ぐと、
「思ってましたけど」
「確信犯かっ!」
俺はテーブルを叩いて椅子を鳴らして立ち上がる。
いつか力が使えることに行き着いたとわかっていたのなら、突然のことに混乱して加減など考えないで流すのも予想できていたはずだ。そして激痛に苛まされるのだってわかっていただろう。
しかし真宵後輩は張り詰めた空気を弛緩させることなく、座るよう無言で訴えてくる。
「私の場合、元が術師なので波動の流し方は十分に熟知していますが、先輩は前衛――剣士だったわけですから、苦手とは言いませんけれど、術式に関しては専攻外でしょう?」
後ろに倒してしまった椅子を起こして再び腰を据える。
「なので気づいたとき、事前に痛みがあると知らないまま強引に回路を開いてしまえばいいと思ったんです。痛みがあると知っているとどうしても大胆にいけませんから。おそらく今ですと、以前までとはいかずとも、強化くらいはできるようになってるはずです」
「……身体強化Ⅰ」
半信半疑で、戦うときの準備として必須だった身体強化、そのなかでもっともランクの低い強化を肉体に施す。これは今朝にやろうとした、波動を球状に収束させるよりも難度は高く、循環させるエネルギー量は数倍に及ぶ。
もしもを考えて右腕だけの強化にする。全身に行き渡らせて今朝の激痛に襲われでもすれば、しばらくは身動きできないと思ったからだ。
チクリと注射針に刺されたような痛みが顔をしかめるも、逆に言えばその程度の痛みしかなかった。
ブーストを解除して、腕の調子に違和感がないのを確かめる。
「どうですか?」
「問題ないな。でもたぶんⅠ以降は無理だと思う」
「でしょうね。ゆっくり拡張する私でも低級術式を練り上げるのが精一杯ですし、強引に抉じ開けた先輩では、それくらいが妥当です。早急に戦う力を取り戻す必要などないのですから、ブーストだけでもありがたいと思うべきです。……ちなみに、頭の強化はできませんよ?」
「余計なお世話だ」
案に俺の成績が悪いことを指摘してくるので、突き放すようにぶっきらぼうに言ってどっかと椅子に座り直す。
「元のスペックに戻るまでどれくらいかかるかわかりませんけど、焦らずにいきましょう。もう私たちは、誰かに戦うことを強制されているわけではないのですから」
自分にも言い聞かせるよう呟く真宵後輩に同意する。
「そうだな。お前はもう、戦わなくてもいいんだ」
伸ばした手は彼女の髪に触れる直前にびくりと大きく震えて動きを停止するも、それを見かねた真宵後輩が自分から頭を差し出してくる。上目使いにこちらを見上げる様子は、意気地無しと言われているようでいい気分ではなかったものの、事実なだけに言い返せない。
咳払いを挟んでなかったことにすると、指先に絡まる真宵後輩の髪を弄り、そして頭を撫でる。
「…………」
俺はあの世界に思いを馳せる。
当時、中学生を卒業したばかりの少女が見知らぬ世界に拉致監禁され、果てにはそこの権力者を失墜してくれ――させろと命令された。そこには高校生の少年もいたが、彼女の深い闇色の瞳には写っていなかっただろう。混乱して、状況を把握することも忘れて、ただただ恐怖を払い除けようと叫び散らす愚か者になど、頼れなかっただろう。
しかし少女に困惑も混乱もあった。恐怖だってあった。
周りにいるのは敵か味方かもわからない、威圧感を放ち見定めてくる甲冑兵士。
目の前には一国の元首である皇女。
聡明な少女は、明らかに逸脱した状況下に置かれながら、冷静に立場の把握に勤めた。
そして命の奪い合いを強いられていることの激昂した。
どうして他所の問題に自分たちを巻き込んだのだ。自分たちしかそれを解決できないからと理由付けすれば、命を勝手に賭皿に乗せてもいいと思っているのか。
少女は皇女に掴みかかった。
皇女はなすがままにされる。
これで貴女の気が晴れるのなら、いくらでも恨み言を受け止めてやると、皇女は言った。
やがて戦わずして元の世界に帰るすべがないことを知った少女は、そこに身を投じたのだ。
俺が守るなんて格好よく決められればよかったが、少女の実力は少年を凌駕していた。どちらかと言うと守られる場面が多かった。
「とりあえずⅠ以外は使わないようにしてください。まだそこまで波動を流せないはずですので、無理に行いますと身体が持たないと思います」
「ちょっと待て」
聞き捨てならない言葉に、俺は真宵後輩の頭から手を退かす。
「もし俺がⅡとか使ってたらどうするつもりだったんだ?」
真宵後輩はしばし無言を貫くと、観念したように肩を落とした。
言わずともわかる。
こいつ、そこまで考えてなかったのかよ
紅茶の残り香と一緒に空気を吸い込みながら、無謀と無茶と無知の三拍子が思い出され、改めて高校生・冬道かしぎの肉体の脆さを実感するのだった。
***
異世界に剣や魔王があれば、なくてはならないのが『魔法』の概念だろう。現代科学では到達し得ない奇跡を言葉だけで引き起こすそれらは、異世界ではうまい具合に日常に溶け込んでいる。
しかし俺たちが召喚された世界には魔法は存在せず、代わりに『波導』と呼ばれる術式があった。魔法は万能なイメージがあり、聞かされた当初は同じものではないのかと質問をぶつけてみたところ、波導はそこまで融通の利く代物ではなかった。
現代人の俺たちにすれば、それでも驚きに大差はなかった。
波導とは人間には言うに及ばず、有機物だろうが無機物だろうが、大気中だろうが水中だろうが、構成する組織として必ず含んでいるエネルギーである『波動』を形にして練り上げることで発動する奇跡だ。奇跡を形にする作業として精霊に祝詞を捧げて力を借り、波動を注ぎ込むことで、現象として発現させられるのである。
だが、そのためには『波脈』と呼ばれる波動を流す器官が必要になる。毛細血管よりも細かく分裂した回路が全身の隅々にまで根を張り、それを介して初めて波動が使えるのだ。
異世界人である彼らには遺伝的素質で、受精して人間として形作られるときに形成されるため、波導とは誰にでも使えるものとして伝わっている。
しかしながら俺と真宵後輩には、そんな無用な器官はない。なのに波動を使えるのは、天剣と地杖に選ばれたからだった。
それを手にした瞬間、俺たちは一度死んだ。
その後に勇者としての身体で再構成されたのだ。
これが勇者誕生の、実に面白味のない真実である。