第三章 (1)〈猛追する過去〉
行き交う人の波をぼんやりと見つめたあと、緩慢な動作で携帯電話を取り出す。指で弾いてフリップを開けば、ディスプレイにデフォルメされた気色の悪いひよこが俺を見つめ返してきた。
つみれに携帯電話の使い方を教えてもらったときに可愛いからという理由で登録されたのだ。使うのは俺なのだしけして可愛いとは言えないだろうと思ったが、しかし文句があるわけではないので黙っておいた。
携帯電話を開くたびに気色悪いひよこにお出迎えされていちいち遠ざけてしまうのは玉に瑕かもしれない。
ディスプレイの右上に表示された時間を確認する。待ち合わせの時間までは三十分以上の余裕があった。
噴水公園のベンチに腰掛けたまま空を仰いで脱力する。
今日は日曜日だ。いつもなら家でごろごろしているのに、どうして今日はオシャレして朝っぱらから外出しなくてはならないのか。低血圧の俺に休日まで早起きを強要するおはあまりにも酷ではなかろうか。
「あー……」
ゾンビのようなしゃがれた声で呻けば、近くを通りかかった何人かがぎょっとしてこちらを見て通り過ぎていった。
ぱちんとフリップを閉じて携帯電話をしまう。
なんで俺が休日の朝っぱらから待ち合わせなんかをしているのか。
それは二日前に遡る。
***
「かしぎくん、少しいいかしら?」
二日続けてやってきた白波先輩に談笑していたクラスメートがびっくりして俺を見た。
俺といえばたったいま起床。授業中、何度も起こされたが無視していたら教師にあるまじき罵倒を金切り声で投げられたが、それも無視したらやっと構ってこなくなった。
「話があるの。ここではあれだから、ついてきてもらってもいい?」
授業を寝てサボっていたことにお咎めはないらしい。
顔を上げれば、昨日はよく眠れなかったのか目の下に大きな隈ができている白波先輩。
「……いいですよ」
ぶっきらぼうに答えて立ち上がる。そこでほっとした表情を見せたのは、昨日の生徒会室での出来事を引き摺っているからだろう。取り付く島もない拒絶のされ方をして平気とまではいかずとも躊躇いなく話しかけられるのは、今気強いというか鈍感というか。
でも俺に断るつもりはない。
むしろ放課後に俺から訪ねようかと思っていた。手間が省けたってもんだ。
教室を出て生徒会室に向かう。
終始無言だった白波先輩は、生徒会室に入った途端、ばっと頭を下げてきた。腰など九〇度に曲がっていて、予想だにしてなかった展開に目を丸くした。
「なんのつもりですか」
「昨日はごめんなさい。あなたの気持ちも考えないで、自分のことばかり言っていたわ」
そう言って一向に謝罪の姿勢を崩さない白波先輩に、こうも思いつめていたのかと後ろめたい気持ちになった。
気まずさを誤魔化そうと手持ち無沙汰な右手で頬を掻こうと持ち上げると、彼女の体が大袈裟にびくりと痙攣したように震えた。
「やめてくださいよ。俺も言いすぎましたから」
「そんなわけにはいかないわ。恩を仇で返すような真似はしたくないとい言ったのに、私はそれ以上のことをやろうとした。これは私なりのけじめよ」
「……ああもう! そのことで俺から話があるんですよッ」
肩を掴んで白波先輩の上体を強引に起こす。
「協力しますよ」
「え?」
信じられないとでも言わんばかりに白波先輩は間抜けな声を。
それに思わず舌打ちがこぼれた。
「何回も言わせないでください。協力するって言ったんですよ」
「ほ、ほんとうに? 私としてはすごくありがたいのだけれど、で、でもどうして急に」
「少し思うところがあっただけですよ」
翔無先輩にいろいろ聞いたことは黙っておく。
俺はソファに座る。白波先輩は二人分のお茶を用意して対面に腰を下ろした。昨日とまったく同じ構図だ。
「ただし条件があります。協力するのはそれを飲んでからです」
「私の身体かしら?」
「……帰んぞてめぇ」
そう言って立ち上がろうとすると、白波先輩は打って変わって慌てた様子で「冗談よ、冗談だからッ」と必死になって俺を引き止めてくる。
次はないぞとじろりと一瞥すると、白波先輩は勢いよく首を縦に何回も振った。
こほんと咳払いを挟み、今さら取り繕う体裁などないだろうが、しかし真面目な表情を作られると雰囲気が引き締まった。
「それで条件というのは何かしら? 私にできることであれば全力で応えましょう」
「じゃあまず一つ。俺が関わることでニーナたちに及ぶだろう危害を食い止めること」
「約束しましょう。『組織』が全力を持って彼女たちを守るわ」
……まあ、いまいち信用ならないが、それを言っていたら始まらないか。
気を取り直して二つ目といこう。二本目の指を立てる。
「次に俺たちの情報を秘匿してほしい」
「……? どうしてそんなことを?」
「ディクトリアと戦ったとき、あいつは俺のことを簡単に調べ上げていた。戦いは刃を交える前から始まってる。こいつは一つ目をより確実なものとするためにそうしてほしいんだ」
「……なるほど。だけど……」
白波先輩は膝の上で拳を握り、言いにくそうに唇を噛み締めている。
これについては何となく通らないとは思っていた。
「今のあなたは監視対象よ。その要請はおそらく通らないと思うわ」
「だろうな。わかっちゃあいたさ」
そもそも『組織』連中は俺を殺すか使い潰すかの二択しか用意していない。仲間になれないなら殺す。仲間にならない、ともすれば敵となる可能性のある人間から情報を秘匿してくれと言われたところで素直に答えるわけがない。
そもそも現段階の措置でさえ白波先輩たちが説得してくれたおかげだ。これ以上の無理は言えない。
「ならとりあえずはニーナ立ちの安全を保証してくれればいい。そうしたら先輩を手伝ますよ」
「……いろいろと言ってしまって今さらなのだけれど、ほんとうにいいの? 私のやろうとしているのはただの人殺しよ?」
「やめられるならとっくにやめてんでしょう。それができなかったから、こうして俺に頼んだんでしょうが」
復讐なんてやってもろくなことにならないのは、元復讐者である俺が身を持って体験している。だが、復讐はそんな言葉云々では止められない。どす黒い感情は、憎き相手を葬り去るまで消えることはない。
「そうね。私は絶対にあの男を許さない。地の果てまで追いかけてでも、どんな手段を使っても殺すわ」
「で、そいつはどんなヤツなんだよ?」
翔無先輩から特徴は聞いたが、正直誰かを特定する決定打にはなりえない。なにせタキシードに金属製の仮面があればいいのだから。痕跡を見つけたと言っていたが詳細は聞いていないし、手伝うにしても情報は必要だ。
だが、白波先輩の語ったものは翔無先輩の言っていたことと大差はなかった。
ブラウンのタキシードに金属製の仮面をつけた白波先輩と同年代の男。拳銃を使って糸からそれに類した能力だろうが、詳細は全くの不明。
「ごめんなさい。これくらいしか覚えていなくて。そのときの記憶って思い出そうとすると……」
白波先輩が突然頭を抱えて蹲った。テーブルの上の湯呑が倒れて中身がこぼれ出す。噛み締めた唇から苦痛を堪える吐息が洩れる。
「お、おい、白波先輩」
予想外の反応に声が裏返る。
「ご、ごめんなさい。私のことなのに……」
「いいから別に。それより動かないでください」
ハンカチを取り出してこぼれたお茶を拭く。まさかこんなところでつみれに口煩く持つよう言われたのが役に立つとは思わなかった。
「雪平先輩は覚えてないんですか。あの人も一緒だったんでしょう?」
「あいつが覚えているわけがないわ。双獅だって家族を、殺されたのに――ッ」
白波先輩はテーブルに拳を叩きつけた。まだ冷めていないお茶が飛沫となって顔にぶつかりイラっとしてしまう。だが、白波先輩は直接触れてしまったせいで相当熱かったらしく、悲鳴を上げて飛び上がっていた。
だから動くなって言ったのに、と内心で呆れ返った。
ようやく落ち着いてくれた白波先輩。熱いお茶で冷静になるとは変な話だ。
「さっきからごめんなさい……ってもう三回目ね」
「別にいいですよ。それで俺はどうすりゃあいいんですか?」
「もう少し情報を集めて、手筈が整ったらそのときに協力してもらうわ。……ところでかしぎくん、あなたに折り入って頼みがあるのだけれど、いいかしら?」
「……まだ何かあるんですか」
目を細めて探るようにするが、しかし俺の態度に反して白波先輩は恥ずかしそうに頬を染めて、言いにくそうに身をよじっていた。
直前までの空気との違いように俺は首を傾げる。
「ちょっと……私の恋人に、なってほしいのだけれど」
「断る」
「真顔で即答しないでくれる!? それとその言い方やめてちょうだいトラウマになってるのよッ」
涙目になる白波先輩をほっといて俺は不機嫌に鼻を鳴らす。
なんで好きでもないどころか、出会って間もない相手とちょっとなどと軽い感覚で恋人にならねばならんのだ。復讐に加担するのはギリギリ許容できても、そんなふざけた頼みを聞いてやる筋合いはない。
白波先輩は複雑な表情を浮かべる。
「最初に言っておくけれど、ほんとうの恋人になってと言ってるわけではないのよ。ただちょっとフリをしてほしいってだけ」
「なんでそんなことする必要あるんすか。関係ないでしょうに」
俺が刺々しく言えば白波先輩は困ったように頬を掻く。
「実は、ストーカーにつきまとわれていて」
「先輩人気ありますもんね」
皮肉でそう言ってやればしっかりと通じたようで、小さく頬を膨らませながら「うるさいわね」と顔を背けた。その年不相応な仕草にギャップを感じて可愛らしく見えた。
「なに見てるのよ、ばーか」
「いや、先輩って可愛いなって思って」
「あなたねぇ……」
白波先輩が非難するような目つきで俺を見てくる。
「まあいいわ。……それで、いいのかしら?」
「断るって言ったじゃないですか。そういうのは雪平先輩にでも頼んでください」
あなたの執事になるはずだった人でしょう、と言いかけてギリギリ飲み込む。この話題は口にするべきではあるまい。
「だめよ。私と双獅は同じ家に住んでいるのよ。最初は恋人なのかとか変な勘繰りをされたけれど、そうではないと公言してしまっているし、何よりも、今さら肯定したところで誰も信用してくれないほどには私たちの関係は完成してしまってるわ」
「ふうん。雪平先輩と同居してたんですね」
「そこに食いつかないでちょうだい」
ぴしゃりと言われて肩をすくめる。
「だったらほかのヤツに頼めばいいんじゃないですか?」
「……あなた、さっき言ったじゃない。私が人気だって」
「まあ、言いましたけど」
それがどうしたってんだよ。
もう考えるのが面倒だったので白波先輩に自分で言うよう目で訴える。
白波先輩はこれみろがしに嘆息して、
「私とまともに会話してくれる男の子って双獅とあなたくらいしかいないのよ」
「あー、そういうこと」
真宵後輩とおなじなのだろう。男連中は白波先輩を神聖視しており、話しかけられただけで舞い上がってしまうのだろう。
それでいくらフリでも恋人になってくれ、なんて言われたら、どんな騒ぎになるかわかったものではない。発狂する人間だっているかもしれないのだ。
もしも承諾してしまったら俺に被害がある気がしてならなかった。
「だめ、かしら……?」
「……はぁ」
ここで折れてしまうのが、俺の弱いところかもしれない。




