第二章 (5)
家に帰ると翔無先輩と火鷹は当然のように俺の部屋にいた。
「おかえりかっしー。ずいぶん遅かったねぇ」
色気のないジャージに身を包む翔無先輩。暑苦しいマフラーにいかほどのこだわりがあるのか、それだけはそのままだった。彼女の言葉に突っ込む気力もなかった俺は適当に返事をしてベッドに力なく倒れ込む。
枕に顔をうずめると、昨晩は彼女たちが戦力していたためか、ほのかな甘い残り香が漂ってきた。アロマ効果でもあるのか気分が楽になった気がする。
枕の下に手を突っ込んで二人が何をしているのか見ると、白と黒の駒が並ぶチェス盤を挟んで向かい合っていた。
「……なに人のもん勝手に使って遊んでるんすか」
「いいじゃないか。君に言われたとおり物色はしないでおいたんだからさ、それくらいはおおめに見てもらいたいねぇ」
「……まあ、別にいいけど」
そう言うと翔無先輩は「おっ?」と予想外だと言いたげな反応を示した。
「なんだかお疲れだねぇ。華憐のところで何かあったのかい?」
「白波先輩から聞いてないんですか?」
「ああ見えて華憐は話さないことは話さないからねぇ。その様子だと何かあったのか肯定してると受け取ってもいいのかな?」
「むしろその帰りにあったことが原因なんですけどね」
隠すようなことではないので、さっきの出来事を翔無先輩に話す。
最初は茶々を入れていた翔無先輩だったが、雪平先輩が登場したあたりで不意に表情を緊張させ、俺の話に食い入っていた。いったい何が気になったのか俺の知るところではないが、話し終わったころにはいつもの飄々とした翔無先輩に戻っていた。
「んふふ、そいつは災難だったねぇ。雪平くんのシスコンっぷりは限度を超えちゃってるからねぇ。そりゃあ疲れるだろうさ。マッサージでもするかい?」
「……じゃあちょっと……やっぱいいです」
「うわぁ。ほんとに疲れてるんだねぇ」
翔無先輩が労わるように背中を撫でてくる。
「……では私がかっしーじゃんをマッサージしましょう」
制服姿の火鷹はブレザーを脱ぎ捨て、何故かスカートまで下ろしてワイシャツだけになると、うつ伏せになった俺に跨ってくる。布一枚しか隔ててない彼女の触れた部分がいやにはっきり感じられた。
「お、おい火鷹。下は脱がなくてもよかっただろ」
「……こっちのほうがそそられませんか? 裸ワイシャツみたいでしょう?」
火鷹はそう言うと背中を指圧し始めた。ほどよい強さで気持ちいいところを的確に押してくるものだから、俺の意思に反して声がこぼれた。
「んっ……どうですか? ふううぅ、んん……気持ち、いいですか?」
「今の言い方に前向きな返答をしたらマズイ気がするんだが」
「……えっちな気分になるでしょう?」
「確信犯かよ」
火鷹の艶かしい声をなるべく聞かないように指の感覚に意識を集中させる。
しばらくそうしているとだんだんと眠気がやってきた。瞼が重くなって、目を瞑ったらすぐに夢の世界に旅立ってしまうことだろう。
あといいぞ、と火鷹に告げようとするも、喘ぎ声に反して上手な彼女のマッサージをやめてほしくない気持ちもあるせいか口を開閉させることしかできない。
「かっしー、ゲームしようぜ?」
翔無先輩が好戦的に頬を吊り上げ、駒を並べ直したチェス盤を指した。
はたと眠気が和らいで、落ちかけていた意識が現実に帰ってきた。
「いいですけど、俺、そんな強くないんで」
「道具が揃ってるのにあんまりやらないのかい?」
おかしな話だねぇ、と付け足した翔無先輩は勝手に先手を奪っていた。先手でも後手でもやりようはあるからいいんだけど。
ベッドから手を伸ばして駒を動かす。
なんてことはない。ただチェスには少し思い入れがあるだけだ。
異世界ではほとんど娯楽と呼べるようなことがなかった。いや、異世界の彼らにすれば十分に娯楽は充実していたのだろうが、現代人である俺たちには暇つぶしにもならなかったのだ。
書物でもあればまだ別だったが、あちらは文明の進みが遅い。波導というなまじ便利な力があるだけに現代のような進化に対する姿勢が低いのだ。よって書物はいちいち値段が高くつき、貸出ともなれば王宮や中央都市などに行かねばならない。
俺はそうしてまで読みたいわけではないし、面倒なことを真宵後輩がするわけがない。
しかしそれでは野営などで火の番をしたときがあまりにも暇だということで、真宵後輩がチェス盤と駒を手作りして、その相手に俺を選んだのである。
ちなみに戦績は全敗。あんな一手目からチェックメイトまでを完璧に掌握されれば勝てるわけがない。
「華憐に『組織』に入るよう言われたんだろう?」
唐突に翔無先輩が呟く。
「やっぱり知ってたんですね」
「勘違いしないでもらいたいんだけど、盗み聞きしたとかではないよ? 単純に君と二人きりで話すと告げられたときに予想がついただけさ」
「……ふうん」
疑わしいが、嘘をついているようには見えない。
時折こぼれる火鷹の声と、駒が盤上を叩く軽快音が部屋にこだまする。
「聞いてるからわかると思うけど、華憐はある能力者を追ってる。最近になってようやくその能力者の痕跡を見つけたんだよ」
「それで? 見つけたからって俺には関係ないでしょう」
「そうだねぇ。だけどいちおう君にも聞いておいてほしいんだよ――チェック」
「…………」
したり顔の翔無先輩のチェックをあっさり外す。
「つうかわかってるなら協力してやりゃあいいでしょう」
「華憐はボクやキョウちゃんが知ってるってことを知らないからねぇ。あえて言わないようにしてるみたいだし、正面から協力したいとも言いにくいんだよ」
キョウちゃん? ――ああ、火鷹のことか。火鷹鏡だからキョウってなんとも安直な。
「先輩はなんで知ってるんだよ」
「もちろん調べたからだよ」
「そうじゃなくて、なんで白波先輩に言われたことでもないのに知ってるんだってことだよ。調べるにしたって事前に知らなきゃ調べられんでしょう」
「ああ、そゆこと」
軽く頷いた翔無先輩は盤上に視線を落としたまま、
「華憐は能力者じゃないからねぇ。華憐には悪いけど、彼女を預かる側としては知っておかないといけなかったんだよ」
「白波先輩が能力者じゃない? 預かる? 何言ってんだ……?」
「んふふ、混乱してるねぇ」
愉快そうにする翔無先輩。そりゃあ混乱だってするだろう。
「ちょっと待てよ。『組織』って能力者しか所属できないんだろ? なんで超能力を持たない白波先輩が?」
「執念だよ」
翔無先輩は淡白に言う。
「華憐はそいつに復讐したい――その気持ちだけで『組織』を突き止め、所属するまでに至ったんだよ」
「……それ、俺は聞かないほうがいいんじゃないですか。白波先輩には言いましたけど、協力するつもりなんてありませんよ。ましてや復讐に手を貸せなんて馬鹿げてる」
――そんなことしたって、何の意味もないというのに。
「そうかもしれないけど、君には知っていてもらいたいんだよ」
「……わかりましたよ」
翔無先輩に真っ直ぐ見つめられ、これは拒否はできないのだと早々に諦めた。
「八年前、ある豪邸でパーティーが催されてねぇ。当時はかなりの名家だった白波家も当然招待されたんだよ。もちろん白波家の長女である華憐もその場に出席した」
「…………」
「その会場に、その能力者がいきなり乱入してきたんだよ。目的はまったくの不明。いきなり現れて所持していた拳銃でそこにいた人間を、射殺した」
いつの間にか駒を動かす手を止めていた翔無先輩の言葉が、しんとした空間に広がる。
マッサージを中断した火鷹が俺の横に座し、俺も姿勢を正して続きを待つ。
「生き残ったのは華憐と雪平くん、あとはさっき君が会った雪平くんの妹さんの三人だけ」
「雪平先輩もそこにいたのか」
「彼は招待されたんじゃなくて使用人として働いてたみたいだよ」
八年前と言うと雪平先輩は十歳くらいだろう。それなのにすでに使用人として働いていたとはどういうことだろうか。
俺が疑問に思っていると、それを見透かしたように翔無先輩が補足する。
「彼の家系はだいだい白波家に仕えてるみたいでねぇ。この事件がなかったら華憐はお嬢様として、雪平くんは執事として別の学校に入学してただろうさ」
なるほど、と合点がいった。
それならば不思議ではない。この近くにも外界と完全に繋がりを絶った、箱庭とも言うべきお嬢様学校がある。あそこでは使用人を一人だけ連れて行けるから、雪平先輩はそのために教育されていたのだろう。
今となってはすべてが無意味。むしろあの怠惰の塊のような人が誰かの世話をできるとは思えなかった。
「惨憺たる光景を作り出した能力者は当時で華憐と同い年くらい。ブラウンのタキシードを着ていたから参加者である可能性が高いけど、生き残りが華憐と雪平兄妹だけで、おまけに顔は金属製の仮面で隠してたっていうからねぇ。手がかりは皆無に等しかった」
「だけど、そいつがここにいた痕跡を見つけたんだろ?」
俺が問えば、翔無先輩は「まあね」と短く答える。
「近いうちに能力者が誰か特定できるだろう。そうしたら、華憐は間違いなくそいつに復讐しようとする。だけど華憐は能力者じゃないんだ」
「返り討ちに遭うのは目に見えてる」
「わかってるなら助けてほしいんだけどねぇ」
翔無先輩は重苦しい話は終わりだと告げるように、駒を力強く盤上に叩きつける。
「正直、かっしーに協力してもらいたかったよ。たぶんボクたちじゃあ歯が立たない。ディクトリア=レグルドを打倒したほどの実力者がいてくれたらって、華憐も考えたんだろうねぇ」
「……………」
乞うような眼差しの翔無先輩。まさか同情を買うためだけに今の話をしたのだろうか。
ありえない。冗談はよしてもらいたい。
今さらそんなものを聞かされたところで俺の心が動くはずがない。異世界で経験してきたのは何も魔王退治だけではない。たくさんの人々の想い、慟哭、怨念、そして復讐者の末路を目に焼き付けてきた俺に、その程度の境遇に同情しろというのは難しい注文だ。
だから俺の答えは、すでに決まっている。
「まっ、無理には頼まないさ。華憐はどうかわからないけど、ボクからはもうこの話を切り出すことはないよ。ただ知っておいてもらいたかっただけだからねぇ」
翔無先輩は手にしていた駒を盤上に落とす。
ゆるやかに落下した駒は、覆らない戦場を壊すかのように、ほかの駒を巻き込んで盤上に倒れ込んだ。
「こいつはボクたちの問題だ。ただお願いがあるんだ」
「……なんですか?」
「華憐が仕掛ける前にボクたちはそいつを叩くつもりだよ。負けるつもりはさらさらないけれど、もしものときは華憐を止めてほしいんだ」
もしものとき――それはおそらく、自分が死したときのことを言っているのだろう。
「なんで俺なんですか?」
「力があるからだよ」
翔無先輩は一瞬の間も置かずに答える。
「君は華憐を守れる力がある。だから、もしものときは頼むよ」
そう言って翔無先輩は悔しそうに笑った。




