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Re:氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
02〈スカーレット・レイン〉編
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序章〈嗤う悪魔〉

 

 ぴちゃり、と水を打つ音が聞こえた。

 なんでだろうと霞んだ思考のまま視線を下げれば、赤色の水溜まりに自分の顔が映っていた。

 ドレスを着たまま膝をついてしまったせいで純白が見る間に赤に染色されていく。肌に張り付いて気持ち悪い。

 つんと鼻の奥に侵入してきた鉄臭さと生臭ささが混ざり合い、腹の底から酸が込み上げてくる。我慢しきれなくなって嘔吐けば、しかし涎が垂れるだけで何も吐き出すことはなかった。

 そういえば一日中忙しくて何も口にしていなかったことを思い出した。

 今日はお金持ちが集まるパーティーに名家である白波家の長女として出席していた。大きな権力を持つ白波家のご令嬢と理由からか、宝石や金目の物で装飾した気味の悪い作り笑いを浮かべた人間から何度も言い寄られた。

 こういった催しに参加するといつもそうだった

 容姿がなまじ優れていたのも要因の一つだろう。

 父親はそれを自慢したいがためにいろいろな場所に連れ回した。普段は見向きもしないくせに、こういうときばかり優しい表情を作るのだ。

 しかしそれは自分に言い寄ってくる大人たちと同じだ。宝石類の代わりの装飾品だとしか思っていないのは、幼いながらに感じ取っていた。


「そう、だ……おとうさん……」


 しゃがれた声で呟いて、白波しらなみ華憐かれんは周囲を見渡す。

「ひっ」と喉から悲鳴がこぼれた。血溜まりに尻餅をつき、がたがたと歯をぶつけ合わせながら後ずさる。

 惨憺たる光景がそこには広がっていた。人間だったいくつもの人型があちらこちらに転がっており、そのどれもが無数の風穴が空いている。ぼこぼこと血が溢れ返り、パーティー会場を血の海に変貌させていた。

 その一つに、よく見知った顔があった。

 父親だった。

 最期の瞬間さえわかっていなかったのか、直前までの表情のまま息絶えている。


「あ……あ、あ……」


 体の震えが止まらない。口内が乾いてねばつく。

 どうして、こんなことになっているのか、わからなかった。数分前までは顔色を窺ういつも通りの下らない光景が目の前にあったというのに、気づけば屍に囲まれていた。

 噴き出す汗が目に入る。反射的に片目を閉じると、不意に意識が明滅を繰り返し始めた。幼い少女の理解で受け止めるには、その衝撃はあまりにも強烈すぎたのだ。

 だが、意識を失いかけたそのときだった。


「――ううううううううああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっ」


 地獄の底から響いてきたような雄叫びが、少女を強制的に覚醒させた。

 ハッとしてそちらを向けば、 そこには全身に返り血を浴びた何者かが天井を仰いでいた。

 おそらくは少年。年齢は十歳前後といったところか。彼が身に付けているのはブラウンのタキシードと、金属製の奇怪な仮面。目と口を三日月にくり貫かれた不気味な仮面だ。まるで悪魔が薄ら笑いを浮かべているようで、背筋を冷たい感覚が駆け抜けた。

 白の手袋を装着した少年の手中には、黒い鉄の塊が握られている。――拳銃だ。

 この悲劇を起こしたのが同年代の少年だということに、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。とてもではないが信じられない。

 だがそれ以上に、次に殺されるのは彼を目撃した自分だということに、パニックに陥った。

 もはや悲鳴すら上げられず逃げ出す。

 死にたくない。その一心だけで足を駆動させる、

 ぴたり、と雄叫びが止んだ。

 悪魔がこちらに気づいたのだ。

 建物が振動し、骨格が軋む。次いで破砕音が背後で鳴り、仮面の悪魔が頭上を飛び越えて眼前に現れた。驚くべきことに常人ならざる脚力で床を蹴り出し、距離を埋めてきたのだ。


「い……い、や……殺さ、ないで……」


 華憐はそれだけを絞りだし、膝からくずおれた。

 もう助からないのだとわかりながら命乞いをせずにはいられない。

 銃口が眉間に向けられる。銃爪に指がかけられる。あとは力を込めるだけで、少女の生涯にピリオドが打たれるだろう。

 ぎゅっと瞼を閉じ、最期の時を待った。


「だい、じょうぶか……?」


 しかしそのときは訪れない。そればかりか、誰かに心配されているではないか。

 おそるおそる片目を開けて見ると、気怠そうな雰囲気をした少年が覗き込んでいた。


「だ、だれ……?」


 華憐は目の前の少年に問いかけて、辺りを見渡す。徐々に広がっていく血溜まりと、そこに沈む人型は目を閉じる前と同じだ。

 けれど、仮面の悪魔の姿はどこにもなかった。


「おれか? おれは雪平ゆきひら双獅そうし。……あんたは?」

「白波、華憐……」

「ほぉ……キレイな名前だな」


 双獅の気怠そうな雰囲気と、仮面の悪魔から助かった安堵から、華憐は素直に名乗っていた。


「さっきの、人は……?」


 ついさっきまで異様な存在感で君臨していた仮面の悪魔。まるで最初からいなかったかのように忽然と消え失せている。

 双獅はきっと仮面の悪魔がいなくなったから出てきたのだろう。

 気怠そうに垂れ下がった眦をさらに下げ、困ったように薄く笑う。

 

「どこ、行っちまったんだろうな」


 双獅はそう言って視線を外す。

 それを追ってみると、自分よりも年下の少女が横たわっていた。

 華憐は真っ青になるが、よく見ると浅く胸が上下している。どうやら気を失っているだけのようだった。


「おれの妹なんだ」


 そう言った双獅の横顔は優しげで、ほんとうに妹のことが大切なのだとわかった。


「ひとまず、どうにかしよう。みんな、死んでる」


 双獅に言われなくてもわかっている。自分たち以外、ここにいる全員が仮面の悪魔によって殺されてしまった。下心しか持たずに言い寄ってきた大人も、自分を装飾品としか見ていなかった父親も。

 誰かが近くにいてくれるおかげで心に余裕が生まれた。

 だからこそ、ほんとうに父親が死んでしまったのだと理解した。たとえ装飾品としか見られていなくとも、わしゃわしゃと頭を撫でてくれたあの温もりは、紛れもない本物だった。


「う……うあああああぁぁぁぁぁ」


 双獅の言葉が合図だったように、可憐の泣き声がどこまでも木霊した。


 忘れたくとも忘れられない、悪夢の記憶。

 復讐の灯火は、日に日に大きく膨らんでいく。

 そして、八年後――

 

 

 

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