第四章 (2)
ニーナに作戦を伝えると静かになった一画で神経を研ぎ澄ませる。
心臓の鼓動を刻む音が耳のなかで煩いほど鳴り響く。
――邪魔だ。さっさと消えろ。
やがて全身の血管が脈動するわずかな振動も感じられなくなる。まるで心臓が停止してしまったように静かな時間が流れ、聞こえてくるのは外部からの刺激のみ。
かんっ、かんっ――と、階段をブーツの底が叩いた。誰かがここまで上ってきたのだ。
「……来たか」
閉じていた瞼をゆっくり持ち上げてその方向に目線を動かした。左足で一歩踏み出して半身に構え、重心を低く落とす。右手に握った天剣は切っ先が床に接するほどに下げ、柄尻に左手を軽く重ねる。吐き出す息にも波動がこもるほど練り上げる。
俺のまとう空気にただならない印象を感じたらしいディクトリアは油断なくハルバートを肩に乗せ、地形を把握するために周囲を見渡す。
「君ひとりのようですが、あのガラクタはどこに行ったのですか?」
言いながらハルバートを握る逆の手が不自然に動く気配があった。この場所には爆発能力を発動するための媒介がない。プラスチック爆弾を振り撒いて、あるいは手中に掴んで戦いを優位に進めようとしているのだろう。
俺は素早く重心を前に傾けながら右足を歩き出すような自然さで前に踏み出して、フロアを揺るがす大音響とともに数メートルあったディクトリアとの距離をゼロに。そして体を密着するほど接近した体勢で天剣の尖端を喉元に突きつけてやる。
ディクトリアが驚愕に目を見開いた。それもそうだろう。こいつは部屋を見渡した際に俺が撒き散らした血液を目にしているはず。さっきの落下で相当なダメージを喰らったと思っているだろう。
実際ダメージは大きいしまともに気を緩めたら気絶するのは確実だ。
だからこそである。
手負いな相手ほど生き残ろうと最後の力を振り絞って抵抗してくる。本能が生き残ろうと五感に働きかけ、実力以上の力を発揮するのだ。
「ニーナを気にしてる余裕があんのかよ? お前の相手は俺だろうが。それと――」
言葉を切って気合いを迸らせる。一瞬で上段斬りのモーションに移行すると自らの目にすら閃光が奔ったと錯覚する速度で剣を繰り出す。ほぼ同時にディクトリアもハルバートの凪ぎ払いを放っていた。激突して弾き返されるのはやはり俺だけ。
だがディクトリアもただでは済んでいない。弾かれてはいないが苦悶の表情で硬直しているではないか。弾かれた刃を全身で引き戻し、次は下段から撥ね上げるように打ち込む。するとディクトリアは両手で掴んでいたハルバートから片手を外して絶妙なタイミングで一閃を回避してみせた。
黄金の軌跡が空を切る。ほんの一瞬の間で交わされた攻防は俺とディクトリアのスペックの差を再確認させるだけになったが、しかし悲観はどこにもなかった。不意を打った斬撃が躱されたことなど頭からすっかり消え去り、次の狙いをターゲットマーカーがロックオンしている。
左足を軸に靴底が激しく砂利を噛む勢いで体を回転、胴体目掛けて右手を突き出す。
「――ハアァッ!!」
ディクトリアの口から鋭い気合の咆哮が発せられた。
あろうことか片手でハルバートを刺突の軌道上に割り込ませ直撃を逃れていた。噛み合った刃が激しく摩擦し、火花を散らして鍔迫り合いの体勢になる。続いてディクトリアの苦しげな呻きが聞こえ、これがヤツの望まない展開なのだと瞬時に悟る。
さらに一歩踏み込んで体勢を立て直されないようにしながら天剣を押し込む。それだけではディクトリアを押しきるには足りないと即断した俺は肩から突撃する勢いで身を寄せた。
やっとのことで体勢を完全に崩したディクトリア。片足を浮かせて後ろに体を倒していく魔術師に、剣技の欠片もない連続攻撃を浴びせる。
しかしディクトリアはあえて踏みとどまろうとせず床に体を投げやり一撃目を避ける。続く二撃三撃目を巨体からは想像もつかない俊敏さで対応していく。攻撃と攻撃の繋ぎ目に腕だけで跳ね起きたディクトリアは即座にハルバートを構え直した――が関係ない。
気合一閃。唸りを上げて繰り出した袈裟懸けが、今宵何度目になる鍔迫り合いを演出した。
俺は獰猛に口角を吊り上げ、
「ニーナはガラクタなんかじゃねぇよ。お前よりよっぽど人間らしい――!」
波動が封入された刀身が不規則なエネルギーの塊へと変貌を遂げる。触れたそばから悉くを熔解してしまいそうな熱量に眼球の水分が弾けとび、目を開けていることが苦痛に思えてくる。
ぶつかり合っていたハルバートの刃に天剣の刀身が埋まっていく。半ばほど斬り進めてディクトリアがバックアップで仕切り直そうとするが、俺はほぼ同時に天剣を属性石に戻した。
ディクトリアの胸ぐらを掴み上げ足を払い、腰から回すようにして巨体を背中から地面に叩きつけた。衝撃で魔術師の口から肺から押し出された空気がこぼれる。それに混じって温かい血の飛沫が俺の頬を濡らす。
再度右手に黄金の剣を召喚。決着をつけるべく虚ろにこちらを見るディクトリアに躊躇なく切っ先を突き立てようと逆手に構えるも、かつて見たことがないほど獰猛極まりない眼光が鋭く俺を射抜いていく。
「くっ……!」
床を転がってすんでのところで避け、ハルバートを振り回して体を起こしたディクトリアは法衣をはためかせ大きく後ろに跳躍した。
「逃がさねぇよッ!!」
絶叫じみた咆哮を迸らせ地面を蹴る。
「私が逃げるとでも思っているのですか?」
ディクトリアの頬に不敵な笑みが浮かんだ。ヤツは自分の能力がよほど恵まれていると思っているらしく、発動させようとするたびに嘲笑が作られている。おそらく本人は無意識なのだろう。
思い返してみればディクトリアは超能力が秘匿された世界を変えるために事を起こそうとしている。それは自分が特別であることを知らしめたいだけなのではないだろうか。
ほんとうに下らない。
そんなことのためにニーナをガラクタと呼んで虐げ、何も知らない民間人を犠牲にしようとしている。どこにでも自分を持ち上げるために他人を蹴落とす人種がいるのは異世界での旅を通じて重々承知しているが、かといって許容することは断じて許されない。
かしゃん、と柄を握る力が強まった。
ディクトリアはすでに爆発の種を撒いている。あとは能力を発動させるだけで紅蓮に包まれるだろう。射し込む月明かりはお互いの位置をかろうじて認識できる程度で、ヤツが放った小型のプラスチック爆弾を一つ残らず見つけ出すのは困難を極める。
なら――。
薄緑色の光芒が刃に沿って縁取っていく。
そして俺は超加速する。
速度を殺しきれず床に二本の焦げ跡を刻んでディクトリアの背後を奪った直後に、俺がいた場所をいくつもの爆発が重なるように発生した。天井が爆風でさらに破壊され瓦礫となって降り注ぎ、壁や床にも亀裂を走らせていく。
俺はそれらに目も向けず。
風系統波導・無詠唱第四節――、
「『嵐刃』ッ!!」
単純に放たれた刀刃を持ち前の反射速度でディクトリアは躱す。切っ先が触れる一センチほど手前で見切ったことが当て付けになるとでも思ったらしく勝ち誇った表情を差し向けているが、俺の冷ややかな眼差しにこれまでと違うと感じたようだった。
だが、気づいたときにはもう遅い。
刃が連れた鎌鼬がディクトリアの全身を切り刻んでいた。血飛沫が舞い、魔術師の法衣を鮮血で染め上げた。
無詠唱波導はその名の通り祝詞を必要としない術式だ。
風系統波導・無詠唱第四節『嵐刃』
刀身に鎌鼬を纏わせることで攻撃範囲を広げる技だ。祝詞を精霊に捧げていないためか威力も低く、攻撃範囲が広がるといってもせいぜい数十センチ程度でしかない。決定打というよりも敵を切り崩す動作接近戦で好んで使われる技だ。
俺も『嵐刃』で隙を作り波導を打ち込むパターンを愛用していた。
しかし今の俺は波導を唱えることができない。決定打を欠いているのだ。このまま無詠唱を多用しても、ただでさえ低威力である以上、どうやってもジリ貧なのは目に見えている。
全身を切り刻んだといってもどれも浅く大したダメージではない。無視しようと思えばできる程度、言ってしまえば瞬間的な驚きはあっても持続性はない程度だ。
とはいえ、俺の役目はディクトリアを戦闘不能にすることではない。大振りで隙の大きい、まともにやろうとすればカウンター必至の一撃を確実に叩き込むために、それ以上の隙を作ることだ。
「ああ……やはり君の力は素晴らしい。今のは風の能力ですか?」
撃剣の音を響かせながらディクトリアは恍惚とした色が濃く映った声で語りかけてくる。『嵐刃』の間合いをたった一度で見切ったらしく、鎌鼬に巻き込まれないよう位置を変えながら的確に俺の斬撃を捌いていく。
俺の斬撃と寸分と違わない真反対の軌道をぶつけ合わせ弾き返すその戦闘センスには舌を巻くしかない。ハルバートを操る手腕には老練さが滲み、長いときを重ねて積み上げてきた実力なのだと改めて実感させられた。
「実力も申し分ない。かしぎくん、君はそちら側にいるべき器ではありません。私の元で世界を変える――いいや、上に立とうではありませんか! 弱者ではなく、我々のような強者こそが世界を統べるべきなのですよ!」
不意に横殴りの暴力が脇腹を襲った。とても踏ん張りきれる衝撃ではない。
膝から力が抜けて横に体が傾いていく。バランスを崩して攻撃が中断され、剣に注いでいた波動が行き場を失って反動として跳ね返ってきた。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に視界の半分が欠け落ちた。
どろりと気持ちの悪い感触が左側を覆っている。おそらく顔面左側の波脈の一部が破裂、皮膚の内側を食い破って血液が溢れ返ったのだ。痛みはないが、もしかすれば眼球が弾け飛んでいるかもしれない。波脈は毛細血管よりも細かく枝分かれし、神経や眼球にまで走っている。
波脈は時間が経てば再生しても眼球はそうではないのだ。できれば無事であることを祈りつつ、右目でディクトリアを見上げる。
「へえ、弱者ではなく強者が世界を統べる――ねぇ」
「その通りです!! だから君も」
「――だったらさ」
ディクトリアの言葉を遮ると、穏やかな表情で言ってやる。
「俺より弱いお前が俺の上に立つのはおかしいんじゃねぇか?」
時が止まったと思わせる静寂が両者の間に落ちた。喜悦に満ちていた魔術師の表情が凍りつき、片手で持ち上げるには重量がありすぎるハルバートも、床につくギリギリのラインでぴたりと静止している。
「私の聞き間違いでしょうか。かしぎくん、君は今、私が君に劣っていると――そう言ったのですか?」
「ああ、それで合ってるぜ。聞こえてんのにわざわざ聞き返すなよ」
淡々と言葉を繰り返してやる。
するとディクトリアの表情から喜悦が消え去り、憎悪と憤怒に溢れ返った。
「よくも吠えたものですね! 地に膝をつき、私を見上げている貴様が私を弱者と言うか。滑稽ですね。滑稽すぎて笑えませんよ、それは」
激昂するディクトリアの重低音に左目がズキズキと痛みだす。心なしか流れる血の量も増えたように感じられ、鬱陶しいそれを袖で拭い払う。
「この私を弱者と宣ったのことを後悔するがいい冬道かしぎィィィッ!! 我が断罪の斧を以て、貴様を葬り去ってくれるッ!!」
俺を両断するべくディクトリアはハルバートを両手で構え振り上げた。
ディクトリアはほんとうに己に武器の特性と戦い方を熟知していた。重量イコール威力に換算されるハルバートはさらにイコールで速度低下に繋がっている。加えて近距離から中距離が攻撃範囲であるため、剣やナイフとは相性が悪い。
だからこれまで、ここぞというとき以外は大振りすることは一切なく、爆発による牽制を用いて自分に有利な状況を作り出していた。おかげで俺はズタボロにされて膝をつくはめになった。
しかしディクトリアには欠点がある。予想外の事態になると硬直してしまうことと、怒りの感情の抑制ができないことだ。さっきの俺の煽りに大袈裟な反応を示したのがその証拠だ。ディクトリアはよほど自尊心が高いらしく自分を格下に見られるのを嫌う傾向がある。
ディクトリアのなかで俺は一定の評価はあるが、いつでも屠れる取るに足らない認識のはず。そんな相手に弱者などと言われては我慢などできないだろう。
ハルバートの刃が刻々と近づいてくる。
早鐘のように鳴る心臓を抑えつつ、ハルバートを引き付ける。
――ここだッ!!
氷系統波導・無詠唱第二節――、
「『氷絶』ッ!!」
ドクン、と心臓が脈打つように鼓動した天剣の切っ先から氷が現れる。それは見る間に刀身を走り鍔を伝い、柄を飲み込んで一回り大きな剣の形になる。
「――ぜああああぁぁッ!!」
犬歯を剥き出しに絶叫して腰の脇から一気に天剣を抜刀する。踏み込んだ一歩が床を蹴り砕く。 閃光と錯覚させるほどの速度を以て天剣を振り抜き――衝突。ビル全体が軋んだ音を立て、建物の骨格に耐えきれなくなったように大量の窓ガラスが砕けちり、破片の雨をばら蒔いた。
「な……馬鹿な……っ!?」
ハルバートの刃が衝突に耐えきれず、木っ端微塵に砕け散った。
絶句するディクトリアに俺は追撃を仕掛ける。
天剣を勢いのまま投げ捨て、両手を重ね合わせ鳩尾に掌底を突き刺す。ディクトリアの巨体がほんのわずかだが打ち上がり、遅滞なく膝で顎を蹴りあげた。
息をつく暇など与えない。爪先や膝、肘から拳をでたらめに叩き込み、どんどんと上空に押し上げる。
「さっきニーナがどこに行ったか訊いたよなァ!? 答えてやるよッ!!」
言葉と同時に最後の押し上げ。蹴り抜いた俺は重力に従って落下しながら、苦痛と憤怒でぐちゃぐちゃになった表情で睨み付けてくるディクトリアの背後を指差してやる。
「――お前の真後ろだよ」
月を背景に、体を捻ってシルバーフレームの左脚を垂直に振り上げたニーナが現れた。
作戦とは言ったが大した内容ではない。俺がディクトリアの隙を作り、決定打を欠いた俺に代わってニーナがとどめを刺すだけの単純なものだ。
義足だけでも超人的な破壊力を秘めた一撃。そこに薬莢を爆発させた推進力をも上乗せされれば、ハルバートという盾を失ったディクトリアには防ぐ手段はない。しかも空中ではどう足掻いても回避は不可能だ。
ジェット機のエンジンにも似た炸裂音が轟く。
黄金色の空薬莢が義足から射出される。踵が橙色の火を噴いた。
「いっけええええぇぇッ!! ニーナッ!!」
極限まで絞られた弓から矢が放たれたような裂脚がディクトリアに突き立てられる。ディクトリアは腕を交差させて防御の姿勢を作るが、そんな苦し紛れは通用しない。一秒としないうちに弾かれ、爪先が腹部に突き刺さった。
「やああああああああぁぁぁ――ッ!!」
炸裂音が連続して響いた。火薬の強い臭いが鼻孔に届き、三つの空薬莢が連なって脚部から飛び出す。一つでも恐るべき攻撃力が三つも重ねがけられ、それは対戦車ライフルの銃弾ですら粉砕するだけの威力になっている。
ニーナの爪先はディクトリアの体内器官の悉くを潰し、口から滝のように血を吐き出している。ディクトリアの体は凄まじい速度で床を貫通、一枚では到底勢いを削げず二枚三枚と階層をぶち抜いて落下していき、かろうじて見えたのは五階層まで。
しかし開いた奈落に続く道からは、床を砕く音が続いていた。
俺はいったんそこから意識を外すと、蹴りの威力に振り回されて空中で駒のように踊るニーナを抱えて着地する。
「おにい、さん……どう、なりましたか……?」
不安そうにするニーナと一緒に穴を見下ろす。
いつの間のか辺りは静寂に包まれていた。
目を凝らしてみるが、さすがにどうなったかまではわからない。張り詰めた緊張感を解かないまま油断なく深淵を覗き、十秒、二十秒と息苦しい時間が流れる。
敵は沈黙したまま動く気配はない。
ゆっくりと息を吐くと、ニーナを抱えてその場にへたれこんだ。
「お、終わった……みたいだな」
俺の呟きを聞いたニーナがほっと胸を撫で下ろした。
緊張の糸が切れたらしく、腕のなかの小さな少女が体重を預けて寄りかかってくる。義足からは薬莢の連続点火で硝煙が立ち上っていた。
「よく頑張ったな。偉いぞ」
ごわごわになった髪を撫でながら言う。
「おにい、さんと……一緒、でしたので……」
疲弊の色を隠せないニーナ。あれだけ激しい戦闘を繰り広げたのだ。いくら機鎧人であっても、それ以前にニーナは年端もいかない少女である。これでもまだマシな方だろう。
できれば休ませたいところだが、一人で残していくわけにもいかない。
俺はもはや感覚のない足に鞭を打って、ニーナを抱えたまま立ち上がる。
「どこに、行くんですか……?」
戸惑うニーナが問いかけてくる。
「教会だ。お前の友達を助けにいくぞ」




