第一章 (1)〈失われた力〉
冬道かしぎ。それが俺の名前である。
今年で高校二年生に進級した十六歳。
趣味などは特になく、苦手な科目は多かれど得意な科目はない。 あえて特筆するならば掃除だけが得意で、家事や洗濯、経済管理までやってくれる妹に代わって、現在二人暮らしの自宅を隅々まで綺麗にしている。
中肉中背。ありふれた特徴なのだが、友人曰く「お前の目付きは鋭すぎて、見られるだけで逃げ出したくなる」らしい。現に何度か不良に睨んでんじゃねぇと威嚇され撃退したことがある。
そんな俺が何の因果か、当時中学校を卒業したばかりの真宵後輩と共に異世界に召喚された。
春休み半ば頃のことだった。
召喚された直後のことは混乱のあまりほとんど覚えていない。
なにせ何の前触れもなく、何の接点もなかった俺たちが、気づけば見知らぬ場所にいたのだから混乱の一つや二つは安い。五つや六つくらいは特売で店前に置いとけば即座に完売だ。
淡い光に包まれたかと思えば次の瞬間には、景色ががらりと変わっていた。
全体的に硬質な部屋作り。きらびやかな内装は、ぱっと見ただけでどういった人種のために成されたのか嫌でも理解させられた。背後には数人がかりでやっと動かせそうなほど巨大な扉があり、その始まりからは真紅の絨毯が一直線に伸びている。
両側には騎士鎧をまとう兵士が一直線に並び、目を白黒させる俺たちに視線を注いでいた。
目の前には呼吸を忘れてしまうほどの絶世の美女が両手の指を絡ませ、上気した頬、潤んだ瞳で立っていた。
その人が俺たちを召喚した人物であり、ヴォツルタインと呼ばれる王国の皇女だったのである。
正直なところわけがわからなかった。謎の光に包まれたら異世界なのだ。こんな状況をすんなり理解しろと言うのが無理な注文だ。
しかしその状況下で、俺と共に召喚された少女は皇女に説明を求めた。
言わずもがな真宵後輩である。
簡単かつ明確に説明すれば『魔王を斃してもらうために召喚した』だ。
皇女が結論を弾き出すまで長々と能書きを語ってくれたが、俺の耳には入らなかった。平和な世界で暮らす高校生と中学生の二人で、魔王を斃せなどと言われたのだ。
しかも魔王を斃さないことには元の世界に帰れないとまで言われた。
いくつもの部族の精鋭部隊が挑み、一度として手傷も負わせられない相手を戦い方もわからない素人になぜ命運を託すようなことをするのか。
呆然と立ち尽くし、何も考えられなくなった。もしかしたらこれは夢で、目が覚めればいつも通りの日常に戻っているのではと、実際は現実だと理解しているのにそれを受け入れないよう、必死に自分にそう言い聞かせた。
真宵後輩も普段は感情を表に出さないのに、そのときだけは怒りを剥き出しに皇女に掴みかかっていったのは、今でも忘れられない思い出である。
あなた方は選ばれた勇者なのだ。
そう言われたってどうしろというのだろう。
しかし俺たちは、その可能性を明確に示してしまった。
魔王だけが使える術式『魔導』を打破できる武器である『天剣』と『地杖』を使いこなした。こなしてしまったのだ。
ただがむしゃらに、自分の身を守るために剣と杖を手にしたその瞬間に、俺たちは魔王を唯一斃せる存在となった。
最初は魔王を斃して生きて帰れるとは思ってもいなかった。けれど今こうして生きているのが、魔王を斃して異世界から帰還したことの証明となっている。
それを最後に剣を手にしていない。この平和な世界で、剣を抜く機会なんてもうないのだと思う。
あのときは剣なんていらない。元の世界に帰れるだけでいいと思っていたのに、今となってはそれが寂しいとすら感じるようになっていた。たった数日握っていないだけでこんなふうに思えてしまうのは、きっとまんざらでもなかったのだろう。
五年間、俺は剣を手にして戦ってきた。
しかし帰ってきてみればたった数時間の出来事でしかなかった。さらに生き残るために鍛えた肉体も、死にかけた怪我の傷跡も、五年間で成長した身長も、還ってきたら元通りになってた。
夢だったのか――としばらく呆然とした。
あれだけ壮大な旅が夢の出来事だったというのか、と。
だが拳のなかには、あれが現実だったと証明するもの。五年間を共にした天剣が握られていた。
やはり夢ではなかったのだ。
こうして元勇者となった俺は、平和な日常を送っている。
***
中庭から玄関に繋がる通路を早足で通過し、当然のように一階の教室に歩を進めようとして踏みとどまる。今日から二年生だ。生徒のほとんどが登校し終えた教室に間違って入ろうものなら、後輩たちに語り継がれる黒歴史になりかねない。
一年エリアの一歩手前で浮かせた足を、軸足を九〇度回転させてから床につけ、二階へ続く階段を昇る。中庭でのんびりしていたからだろう。廊下には誰もおらず、教室内の話し声が廊下にまで届いていた。
一歩踏みしめるごとに校舎の床に塗られたワックスが鳴る。煩わしく思いながら掲示板に張り出されたクラス分けを確認する。
右側の列から順次目線を走らせていき、数少ない友人の何人かを見つけた。
俺の名前はどこか――なんて思っているうちにあっさりと『冬道かしぎ』五文字が見つかった。
「……2―Aか」
誰に言うでもなく呟いて、廊下の一番奥にある我がクラスに進行を開始する。
実を言うと玄関に近いEクラスがよかったのだが、まあ、それでも数十歩と違わない距離だ。どうせ階段を上り下りするのだから、近かろうが遠かろうが大差はない。
教室のドアの上に取り付けられたプレートが2―Aであることを目視すると、がらりとドアをスライドさせる。すると目の前に広がる風景。学年が上がってクラス替えが行われても、部活やその他の付き合いがあるからか、はたまたコミュニケーション能力が高いのか、すでに複数のグループが入り乱れていた。
黒板にはさっそく落書きが描かれていて、妙な画力に感心しつつ席順表の前に立った。頭文字が『と』である俺は、五十音順で席が並べられているとどうしても中心寄りになる。
かろうじて真ん中の列より左側に俺の席があり、幸いなことに最後尾に位置していた。
机の周りに集まって通行の邪魔をするクラスメートを避けて自分の席に向かい、椅子を引いて腰を下ろすと、頬杖をついて大きく息を吐いた。
「朝から辛気くせぇぞ冬道!」
「ごっ……」
「あり?」
背後からの強襲に額を机に強打した。背中には柔らかい物体が押し付けられているというのに、それを帳消しにするだけの痛みがある。
クラスが強打の音で一瞬だけ静まり返るも、去年からクラスメートだった連中はいつものことだと自分の会話に戻り、今年から一緒になったヤツらはそんな態度で大体を察したらしく、俺を意識下から外していた。
「……おいコラ。重いんだよ、さっさと退け」
抱きついてきたそいつは言葉に含まれた怒りの色をを鋭敏に察知すると、しかし焦らすようにのそのそとゆっくりとした動作で離れた。
体を起こしてヒリヒリと痛む額を擦る。ぶつけた部分がやや膨らんでたん瘤になっていた。
半分だけ振り返り、腕を頭の後ろに組んで無意識に豊満な胸を強調させる女子生徒を、恨みもたっぷり篭めて睨み付ける。
「なんだ? そんなにあたしの胸がよかったのか?」
てんで検討違いなことをしたり顔で言われ、青筋が浮かび上がった気がした。
「脂肪の塊がいいわけあるか。寝言は寝てから言いやがれ。重いんだよ」
「うわ、女の子に向かって重いとか言うなよなー。間違ってもあたし以外には言うんじゃねぇぞ?」
人差し指を立て、たしなめるように言う。
「お前にはいいのかよ」
訊ねてみるものの、俺に目の前の女を女扱いするつもりはない。
彼女も俺のそんな内心を見透かしたように、
「今さらあたしに女の子云々が通用するとでも?」
自信たっぷり様子で言い切りやがった。
「いや、通用するも何もお前、しっかり女の子だろうが」
ただまあ、女扱いするつもりはなくとも、背中に押し当てられて様々な形に変形する胸やら爽やかでスッキリとした甘い匂いには、否が応にも『女の子』なのだと思い知らされる。
男勝りの性格で剛胆で大胆な彼女は柊詩織と言い、俺の数少ない友人の一人だった。
薄めの茶髪を後頭部の高めの位置でちょんまげのように結い、それが尻尾のように肩甲骨の間で揺れている。切れ長の目は俺とは違って格好いい造りで、サバサバした言動とも相まって男子からだけでなく女子からの人気も高い。
運動神経・学力もトップクラスで、正直、俺が何故こいつと友人の関係になれたのか未だ不思議でならなかった。
「おっ? あたしのこと女の子って思ってくれてんのか?」
にんまりとして、柊は俺の肩を肘で何度も突っついてくる。すげーうざい。
「お前の一部だけな。つーか抱きつくなって言ってんだろ。何回言えばわかんだよ」
「いいじゃねぇか。スキンシップだよ、スキンシップ。冬道だってあたしのお胸様を堪能できるんだから役得だろ? これだけは自信あんだぜ?」
柊はそう言って自分で胸を両脇から挟むようにして掴み、寄せて上げて目の前に突き出してくる。
制服に巨乳と認められて乳袋を発生させる柊の胸は確かに魅力的だ。壮観ではあるし、背中越しにも張りと弾力があるのが十分に伝わってくる。
だが、それとこれとでは話が別だった。
「馬鹿なことやってんじゃねぇよ。鬱陶しいだけだからさっさと引っ込めろ。もぐぞ」
「もぐ!? ……ったく、わかったよ。久しぶりに会ったのに冬道ってば全然変わってないな」
「お前も全然変わってねぇと思うけど」
「そこは可愛くなったとか言っておくもんだろ」
「お世辞は言わない主義なんだ」
手を振って執拗に絡んでくる柊を追い払う。埃を払う仕草に似て嫌だったのか、顔を露骨にしかめて俺の手を掴んで机に固定した。
無言で何事かと問いかけてみる。無言で首を横に振られた。
なんだろう。こいつは俺に何を伝えようとしているんだ。……よくわからんが、とりあえず手は解放してもらえたのでよしとしよう。
「冬道、お前さ、そんなんじゃ女の子にモテねぇぞ?」
「別に構わん。好きでもない相手に好かれたって嬉しくもなんともねぇよ」
「うわぁ……」
可哀想な人を見る目で俺を見る柊。
じろりと一瞥すれば、胸の前で手を振ってなんでもないことをアピールされた。
俺はこの持論が独りよがりなものだと理解しているし、痛い考え方だとも思っている。しかし、だからといって訂正しようとは思わない。浅く広く友好を深めたところで、長い目で見れば無きに等しい関係になるからだ。
ならば少なくても信頼の置ける友人が何人かいてくれれば、それだけで十分だと言える。
柊のように上手く関係性を保てるならその限りではないだろうが、俺にはそんなふうに立ち回れる自信はなかった。
「でもまあ、あれだ」
柊は指をもじもじと絡ませ、視線が忙しなく宙をさ迷っている。心なしか頬も赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
「誰もいなかったら、あたしが……その、もらってやってもいい……かな?」
「熱でもあるんじゃないか? 今日は入学式だけの午前カリキュラムだから、早退しても大丈夫じゃねぇかな。早く病院いって診てもらえ」
「あれ? あたし今、けっこードキドキなセリフ言ったよな?」
自分が文字通り赤面するほど大胆な告白をしたのに、その相手に素面で、しかも体調を心配された柊は表情を一転させて首を傾げていた。
「言う相手を間違えたな。俺には通用しねぇよ」
「お前のほかに言う相手がいねぇんだから仕方ねぇだろ?」
柊は拗ねたように唇を尖らせる。
そんなときだった。教室の一角でどよめきが起こった。一台の携帯電話を男子のほとんどが詰め寄るように覗き込んでる。
「なんだあれ?」
よく見れば男子だけでなく、女子も何人か混じっていた。何がそんなに彼らの興奮を掻き立てるのか、スゴいやら可愛いやらと貧困なポキャブラリーで思い思いにもて囃している。
俺はそれを訝しげに眺めて呟く。
「あー、冬道は遅れてきたから知らねぇんだったな」
「なにがあったんだ?」
どうやら柊は事情を知っているようで、呆れたような不審物を見るような目でクラスメートを見ている。あのやり取りも一回目ではないようだ。
「新入生にすげー可愛い女の子がいたんだとさ」
「可愛い女の子? そんなの毎年のことだろ。なにを騒ぐ必要があるんだか」
私立桃園高校には魔法でもかけられているのか、総じて美少女と呼ばれる女の子が入学してくる。
俺たちの世代では柊と、ほかのクラスに何人かいる。加えて言うなら美少女とまでいかずとも、それなりに綺麗所が揃っていて、さらに何かしら特技を持っているものだから、メディアやエンターテイメント関連の人間の密かな穴場となっていた。
「そりゃあフツーに可愛いだけだったら騒がねぇよ。あいつらの目もかなり肥えてるだろうし」
だろうな、と適当に相槌を打つ。
同学年だけでなく上級生にも美人が揃っている。それらを見続けてきた連中にすれば、今さらそこそこの美少女が入学しても反応を示さないだろう。……そこそこの美少女ってのも妙な表現だけれど。
「つうことは、あいつらを唸らせるほどの後輩が入学してきたってことか」
「そういうこと。えーと、名前なんてったかな……あ、あい、あいかわ? ちげぇな。あい…」
柊は眉間に皺を刻んで唸っている。
しかし俺には誰を指し示しているのかわかったので、平坦な口調のまま、
「藍霧真宵か?」
つい先ほどわかれたばかりの少女の名前を口にした。
「そうそう、そいつだよ! ……ってあれ? 冬道、知ってたのかよ」
「まあな」
それだけの容姿となれば思い当たるのは一人しかいない。真宵後輩のルックスなら注目されても当然だろう。
「冬道もちゃっかり狙ってんのかよー」
ぶうたれる柊は不満げだった。
「狙うってなんだよ」
訊いてみたものの、まあ、そのままの意味だろう。
冬道『も』の言い方からして、すでに何人か真宵後輩にアタックするつもりらしい。
「なんだも何もそういうことだよ。ちぇ、見た目がいいって理不尽だぜ」
「だったらお前も立派に理不尽の塊だろ」
「へ?」
反射的に本音をぶちまけると、柊が驚いて勢いよく顔をあげた。まるで信じられない光景を見たように目を丸くして、口をポカンと開けて間抜け面を作っている。
なんだこの反応は?
俺が疑問を心のなかで呟いていると、柊が表情を元に戻し、
「え……えっ? あ、あたしって冬道にそんなふうに見てもらえてたのか?」
しかし頬を薔薇色に染め、真っ直ぐ顔を向ける俺と視線がぶつかると、弾かれたようにそっぽを向いてさらに色を濃くしていく。
なるほど――と一人で納得している間にも柊は恥ずかしさが限界に近づいているらしく、頭のてっぺんから湯気の幻覚が見えそうなほど真っ赤になっていた。まだ春になったばかりで涼しいのに、柊の周りだけはせっかちな夏が到来したかのようだった。
自分からふざけて言うのはよくても、他人に素直に褒められるのには馴れていないらしい。
俺が無言でいるのも拍車をかけているのか、もはや顔どころか体ごと背いていた。
なんとも言えない空気でしばらくしていると、ぽわぽわした雰囲気の担任が教室に入ってきて、入学式のため講堂に移動する旨を簡単に説明してくれた。
柊は助かったとばかりに俺から離れると、ほかのグループに突撃していった。
まさか柊にあんな弱点があるとは。
この日、入学式が終わってからも柊は俺と目を合わせることはなかった。