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Re:氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
01〈勇者の帰還〉編
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序章 〈ラストオーダー〉

 

 冬道とうどうかしぎの刃は、そのとき確かに届いた。


「……わからないわね、勇者。あなたはどうして、そこまで人類にこだわるのかしら?」


 言いながら魔王の術式は次々に発動していく。

 漆黒の髪を振り乱し、その奥に宿る深紅の瞳には疑念の色がありありと浮かんでいた。

 魔王には理解できない。

 どうしようもなく愚かで救いようのない人間のため、必死になって戦う勇者。腕を切断し足の骨を粉砕し、一度は心の臓を貫いて活動の停止にまで追い込んだ。立ち向かおうと気力を奮い起こすこともできないよう、心まで折ってやった。

 だというのに勇者は目の前に立ち塞がっている。

 黄金の剣を片手に、いまたしかに魔王の障壁を打ち砕き、一閃を見舞ってきた。

 彼の旅のなかで人間の負の部分を嫌と言うほど見せつけられただろう。私利私欲のために殺し、名誉のために蹴り落とし、自分だけが助かるために他者を犠牲にする。

 この世界・・・・も彼を召喚して、強制的に命を賭けさせた。

 誰かに押し付けられただけの役目。

 魔王を滅ぼして世界を平和に導いてほしい。

 その願いを叶えたとして勇者が得るものとはなんだろうか。きっと、彼に必要のないものだろう。

 断ることもできただろう。

 しかし、勇者となった彼は最後まで戦い続けている。


「――っ!!」


 黄金の剣による一閃。

 次々に放たれた魔王の術式を根刮ぎ両断する。

 大理石の床を砕かんばかりに脚力を篭め、弓から放たれた矢を彷彿とさせる鋭い直進で、魔王との距離を瞬く間にゼロにした。

 黒雲に支配された空を突き抜けるような輝きを放つ『天剣』と呼ばれる黄金のひと振り。その正体は術式を構築する分子を一瞬で分解させる金属の塊を超高密度に圧縮したものだ。その一撃は大陸を消し飛ばす威力の術式でさえ切り裂いてみせる。

 真紅に染まった虹彩に魔王の細身の肉体を捉えた。

 爆発的に膨張した勇者の圧力に魔王が十六層にも及ぶ障壁を即時展開する。

 腰の脇から横凪ぎに駆け抜けた軌跡は、それだけで半分もの障壁を粉々に粉砕した。

 砕けた欠片が宙を舞い、天剣が発する光を反射して輝きを放っている。


「人類にこだわる? なにを勘違いしてんだ、お前」

「なんですって?」


 言いながら、天剣で残りの障壁を斬り捨てる。


「誰がいつ人類なんぞのために戦ったってんだ。俺は誰かのために戦ってんじゃねぇよ」


 左側にゆらりと重心を傾け、すぐさま右側から回り込むよう加速した。

 魔王には一瞬、勇者が消えたように見えていた。


「私を甘く見ないことね」


 厳かに呟き、死角から迫った黄金の刃をさすがの敏捷性で難なく躱す。

 足元に術式を展開して体を浮遊させると、一撃が空振りに終わって苦々しく舌を打った勇者を見下ろした。


「なら何のためにあなたは戦っているというの?」


 それは純粋な疑問だった。

 勇者は誰かのために戦っているわけではないと言った。

 それならば勇者が魔王と命懸けで戦う理由とはいったい何なのだ。

 魔王の口角が凄惨に吊り上がった。どんな理由であれ、自分を邪魔立てする存在は目障りだ。目の前に現れた者たちは、自分を殺して世界を平和にしたいなどという見え透いた建前を掲げて、しかし本心を晒すことなく命を落としていった。

 勇者も所詮、そのうちの一人だと思っていた。でも彼は自分を追い込むまでに成長した。

 訊いたのはただの好奇心でしかない。

 魔王の背中から黒を下地にした七色の魔力の塊が放出され、人型に形作っていく。

 その姿はまさしく魔神だ。


「――命ヲ奪エいきなさい


 背後の魔神はけたたましい咆哮で威嚇し半身で見上げる矮小な存在を押し潰さんと、大木ほどもある腕を振り抜き、岩石のごとき拳が落下してくる。超高密度に圧縮した金属で受け止めれば、その腕に伝わった衝撃に驚愕の相を浮かべた。

 魔神を構築するのは魔力である。たとえ人型だろうとその事実は揺らがない。刃に触れた瞬間には消滅しているはずなのに、依然として拳は天剣と衝突して火花を散らしていた。

 よく見れば天剣の効力が効いていないわけではなかった。魔王の背中から伸びる回路パイプを通して、分解されただけの魔力を吸い取って再構成していた。

 苦悶を洩らした勇者が威力に耐えきれず地面に二本の線を刻んで後退する。

 追従して魔神の腕が迫る。今度は二つだ。

 足を地面から切り離してもう一度着地して勢いを殺しきると、迫り来る死の旋風の隙間を掻い潜って魔王の元に跳躍した。


「俺が戦う理由なんて一つしかねぇよ」


 至近距離からの嵐のような剣閃けんせんは、魔王が繰り出す術式を正確無比に切り刻む。

 空中で着流しを翻し、投擲の姿勢で天剣を逆手に構えた。


「俺のいた世界に――」


 勇者の瞳は、黒髪の少女がずっと後ろの方で何か叫んでいるのを無意識に捉えていた。


俺たちのいた世界に・・・・・・・・・帰るためだ・・・・・!」


 指先から放たれた黄金に輝く一撃は魔王を守る障壁を容易く貫き、そして――。


     ***


 意識がゆっくりと浮上してきた。


「夢か……」


 枯れた声で呟き、ベンチで変な体勢で寝ていたせいで凝り固まった体を伸ばす。ミシミシと全身の関節が悲鳴を上げ、反射的に情けなく呻いてしまった。

 ベンチから手と足をはみ出したまま脱力して、ぼんやりと空を眺める。

 すべてを包み込むように広大な青空。ぷかぷかと浮かんだ雲。どこまでも平和な風景に、あの世界での出来事は夢ではなかったのか、と疑問に思ってしまう日々が続いていた。

 平和なのは悪いことではない。

 しかし世界は争いで満ちている。

 かつての俺にはそれを終わらせるだけの力があった。争いの真っ只中に飛び込んで武力を以て無力化させるだけの力があった。

 俺に力が残っていたのなら、今この世界で起こる争いを止めることができるのではないか。そんなふうに思ってしまう。


「……なんてな」


 麗らかな日常にまだ違和感を覚えてしまい、他人に聞かせるには恥ずかしすぎることを思ってもいないのに考えてしまう。

 我ながらポエミーである。あの子に聞かれでもしたら悶絶では済まないかもしれない。

 空に浮かんだ雲は時間が過ぎていくごとに少しずつ形を変えつつも、迷うことなく一定方向へ緩やかに流れていく。そこにあって当たり前なものを改めて観察してみると、思わぬ発見があるのかもしれない。

 ゆったりと流れていく雲を目で追っていると、視界が純白の布地に覆い隠された。


「こんなところで何をしているのですか、先輩?」


 次いで鈴を転がしたような涼しげな少女の声音。

 さっきのポエムを聞かれなくてよかったと安堵を覚えつつ、視界いっぱいに広がる純白の正体に気づいた俺はこっそりと目を閉じ、


「……お前、その位置からだと丸見えだぞ。もしかして狙ってんのか?」


 俺が指摘してやると、彼女は慌てた様子で下がる気配がした。

 もう目の前に絶景が広がっていないことに、指摘しておきながら若干の後悔を覚えた。骨が軋むのを耳にしながら上半身を起こして座り直す。


「……見ましたね?」


 横顔に視線を感じてそちらに顔を向ければ、少女が桃色のプリーツスカートの裾を目一杯伸ばし、無表情ながら頬をほんのり薔薇色にして恥ずかしそうに俺を睨んでいた。


「あんなアングルだったら見たくなくても見えちまうだろ。むしろ見せてたんじゃないのか?」


 意地悪い笑みを浮かべて嗜虐的に煽ってやる。


「そんなわけないでしょう。なんですか、あたかも私が見せたような言い方をして。先輩が覗いただけじゃないですか。いやらしいですね」


 しかし少女は侮蔑するような眼差しで反撃してきた。

 思わぬ一撃に言い淀んだ俺はそっぽを向きながら、


「……別にお前の下着なんて見飽きてんだよ。今さらいやらしいもクソもあるか」


 精一杯の反論を繰り出すも、自分でも苦し紛れの一言とわかっているだけに強気には出られない。


「勝手に人の下着を見たあげく見飽きたとか言わないでください」

「いや、だってあんなヒラヒラした服装で激しく動き回ってたら見えるじゃねぇか」

「それ以前に後衛である私が動き回ることが間違ってます」


 ぷっくりと頬を膨らませて隣に座ってくる。上目遣いに見上げる切れ長の双眸、微かに漂ってくる甘い香りに感じたのは、性的な興奮よりもとてつもない安心感だった。

 藍霧あいぎり真宵まよいというのが彼女の名前だ。

 艶やかな黒髪を頭の脇で一つに結い、それが動きに合わせてさらさらと流れる。パーツの一つ一つが彼女のために作られ配置されたような精巧で綺麗な顔立ち。細身で華奢な身体だが、儚げな印象からはかけ離れている冷たい刃のようだった。

 彼女の首元には杖を模した銀色の首飾りが下がり、光を浴びて輝いている。


「なんで後衛である私が前に出なくてはならないのですか。先輩がしっかり動いてくれれば、あんなことにならなかったでしょう」

「悪かったよ。でも、ちゃんとお前のこと守ってやっただろ?」

「むっ。それは、そうですけど……」


 歯切れ悪く言葉を途切れさせたのは、俺が言ったことに身に覚えがあったからだろう。唇を尖らせて真宵後輩は言葉の槍をしまう。

 嘆息して肩を落としながら、


「ところで、先輩はこんなところで何をしているのですか? これから入学式ですよ?」


 あからさまな話題転換だったが、蒸し返すような話題ではないので望み通り流すことにした。

 真宵後輩の言う通り、今日は俺たちの学舎である私立桃園高校の入学式である。彼女もそのうちの一人だ。


「それを言うなら真宵後輩もだろ。たしかお前、新入生代表の答辞とかあるんじゃなかったか?」


 隣に座る無表情を貫く少女は入試試験をトップの成績で合格したため、入学式で新入生を代表して答辞を行うと聞いている。進級しただけでクラス以外環境が特に変わることのない二・三年生とは違いもろもろの説明があるので、今日はてっきり壇に上がる真宵後輩の姿を目にするだけで直接は会えない思っていた。

 今も本当なら教師や生徒会長らと段取りを行っているはずなのだが、どうしてか真宵後輩は俺の隣を陣取ってのんびりとしている。


「わざわざ準備するまでもありません。心配なのでしたら、ここで答辞の内容を一言一句間違えずに述べてみましょうか?」

「……それは楽しみにとっとくよ」


 ただでさえ校長の長々しい催眠音波や堅苦しい雰囲気が苦手なのに、せっかく休んでいるときに聞きたくもない。


「遠慮しなくてもいいんですよ? ……あ、そうです。しっかり暗記できているか先輩が確かめてください。本番で間違えては赤面ものですので」

「いま『あ』って言ったよな? 完全に思いつきで言ったよな?」

「そんなことありません」


 目を真っ直ぐに見られて言い切られるとそうなのかと、つい納得させられそうになるが、俺は真宵後輩がそんな凡ミスするとは思わない。さらに間違ったからといって赤面するような可愛らしさなんて欠片も持ち合わせてないことを知っている。誤魔化そうとしても無意味だ。


「そもそも答辞の言葉なんてわかんねぇよ」

「構いませんよ。先輩は大人しく聞いてくれるだけでいいんです」

「断る」

「ではそれを断ります」

「……これ以上は無駄に繰り返すだけだから打ち止めにするぞ。あと聞かねぇからな」


 相変わらず無表情だが声の弾み具合や楽しそうな雰囲気からして、俺がからかわれているのは明らかだった。言い返してやろうにも真宵後輩の舌鋒には敵う気がしない。口を開けば途方もない毒を孕んだ言葉を浴びせられるのは向こうで・・・・散々経験している。引き際は心得ていた。

 クスクスと上品に口元を隠す少女を横目で見やる。

 私立桃園高校の制服は、紺色のブレザーで胸や腰付近にあるポケットを金色に近い黄色で縁取りされている。男子は灰色のズボンを、女子は桃色のプリーツスカートを着用している。ブレザーの襟には桜の花弁をイメージした校章が取り付けられていた。

 身長や胸の発育が遅くて小柄なことを除けば、どこからどう見ても普通の女子高校生だ。

 少なくとも、異世界に召喚されて、魔王を倒した勇者の・・・・・・・・・片割れには・・・・・、見えなかった。


「暇、ですね」


 真宵後輩は唐突にそんなことを呟く。


「そうだな。暇だ。ほんとに暇で退屈であくびが出ちまうよ」


 首をコキコキと鳴らして言葉を絞り出した。

 暇、という言い方が正しいなら、俺たちは物凄く暇だ。

 これが当たり前だった頃は平和な日常に退屈を感じたりしなかった。

 だがこの当たり前が当たり前ではない光景を目にして、俺たちがいかに恵まれた環境で育ってきたのか実感せずにはいられなかった。飢餓で苦しむこともない。学がないからと命懸けで戦い、少ない金銭をやりくりすることもない。

 毎日を無駄に過ごしても親の庇護下で安定した暮らしを送れる。俺たちが当然のように受け取っている日常は、あちらの住人・・・・・・にとって贅沢な幸せだろう。

 弱肉強食の世界。その世界を生き抜いた俺たちは、平和な日常をありがたく思う反面で抱かずにはいられない感情があった。

 それをあえて言葉にするなら『暇』の一言に落ち着いた。


「なんだか未だに実感がありません。帰ってきた実感が」

「奇遇だな。俺もそんな気がしてたよ。まだ夢でも見てんじゃねぇかと思う」

「ですが私たちは帰ってきたんです」

「ああ、そうだな」


 俺は相槌を打ちながら首肯する。

 そう、俺たちは確かに帰ってきたのだ。五年間に及ぶ激闘の果てに、あるべき場所に。


「どうして私たちだったのでしょうね」

「さあな。案外、ただの偶然で選ばれたってだけで意味なんてなかったんじゃないか?」


 しかしその偶然があったからこそ、俺と真宵後輩は出会うことができた。

 この先、同じ学校の生徒なのだから、俺たちはそれなりに接点を持つことになったかもしれない。逆に一切関わることなく、平行に並ぶ直線のようにお互いに名前さえ知ることがなかったかもしれない。


「きっと全部が全部、偶然だったのかもな」

「偶然、ですか?」

「そう、偶然だ。俺とお前が人間で、この場所で出会えたくらいのな。そんな確率の偶然が、俺たちを巻き込んだ」


 だからこそ出会えた。出会うことができた。生涯を共にするだろう最高のパートナーに。

 お互いを知らなかった俺たちが背中を合わせて戦い、ときには意見や感情をぶつけ、手を取り合って一つの目的のために奔走するようになったそんな全てが、 ただの偶然の産物だ。


「だとしたら私はその偶然に感謝したいと思います」

「これまた奇遇だな。俺もこの偶然には迷惑しかかけられてねぇけど、たった一つだけ感謝してもしきれねぇことがある」


 俺と真宵後輩は顔を見合わせると、


「お前と出会えた」

「先輩に出会うことができました」


 ぷっ、と噴き出すとお互いに小さく笑った。俺も真宵後輩も大口を開けて笑うタイプではないので控えめだけど、これでもおかしくて腹が捩れてしまいそうなのだ。

 俺と真宵後輩は異世界に召喚された。

 苦しく辛い旅で、よかった試しなんてなかったけれど、真宵後輩と出会えたことだけは感謝せずにはいられない。

 真宵後輩も俺と同じ気持ちでいてくれたのが嬉しかった。

 ひとしきり笑い終えて横目で真宵後輩を見れば、俺とは反対側に顔を背けて肩を震わせていた。よく見れば耳や首元までが真っ赤に茹で上がっていた。おそらく柄にもないことを勢いだけで口走ってしまったのが今さら恥ずかしくなったのだろう。


「ねぇ、先輩」


 頬の赤らみが引かないまま真宵後輩は俺を呼ぶ。


「どうした?」

「いいえ、なんでもないです」

「変なやつだな」


 機嫌よく鼻を鳴らした真宵後輩に首を傾げ、相変わらずどのタイミングで機嫌が良くなったり悪くなったりするのかわからないな、と聞こえないよう言葉を口のなかで転がす。

 真宵後輩も何か小さく呟いていたが、俺と同じように相手に向けたものではない。

 チラチラと俺を盗み見していることから、俺についての内容であるのは容易に想像がついた。


「向こうの皆はどうしてるでしょうか?」


 それは俺たちと共に魔王の旅をしてくれた三人を指しているのだろう。


「俺やお前がいなくても平常運転だろ。チトルは女の尻追っかけて、リーンは女のファンに追いかけられて、エーシェは教会とかで子供の世話でもしてるだろうさ」


 かつての仲間の姿を思い出して苦笑する。


「……半数ほどまともではないのですが、もしかして私たちもそのように見えてたのでしょうか?」

「否定できないのが悲しいところだな。いや、俺はまともだったけど」

「なんで自分だけ逃れようとするんですか? 先輩の方が変でした。私の方がまともでした」

「そういうやつに限って自分はまともって言うよな」

「先輩も言ってましたけど。……ああ、最初からまともではないと教えてくれてたんですか。すみません、気づけませんでした」

「…………」

「…………」


 俺たちは無言で火花を散らし、自分たちがまともだったと主張する。毒を撒き散らす真宵後輩に比べたら俺なんて全然マシだったはずだ。個性的なパーティーのまとめ役だったのだから。……いや、もしかして変人をまとめられる変人だと思われてたのか?

 そういえば宿を提供してくれた人とかの哀れみに満ちた目がずっと疑問だったけど、まさかこんな真実が含まれていたのか。

 なんだか急に頭が痛くなってきた。

 知りたくもなかった真実に頭を抱えて嘆いていると、真宵後輩がぽんぽんと頭を撫でてくれる。


「いい子いい子です、先輩」


 微妙な気遣いに余計へこみそうになったが、可愛い後輩にみっともない姿を見せ続けるのも先輩の沽券に関わると判断して平静を装って上体を起こす。

 すると思いのほか彼女の顔が近く、具体的には吐息をくすぐったく感じるほどの距離にあり、予測してない事態に直面した俺は体勢をそのままに硬直してしまった。

 白い素肌。ほどよく湿った唇。漂ってくる甘い匂い。視線をわずかに下げた先にある、制服を内側から押し上げるわずかな胸の膨らみ。

 無意識にごくりと生唾を飲み下していた。

 ……これは、やばい。


「どうしたのですか?」


 はっとして我に帰った俺は自然に体を離して背凭れに体重を預ける。


「……ったく、無防備すぎんだよ」

「何か言いましたか?」


 俺の顔を下から覗き込んでくる真宵後輩に、


「なんでもねぇよ」


 ぶっきらぼうにそう返しておく。


「やっぱり一番まともではないのは先輩ですよ。こんな可愛い後輩と二人っきりなのに全然手を出そうとしないのですから。男としてどうなんですか?」

「……うるせぇな」


 こっちは必死に我慢してんだよ――と面と向かって言えたらどれだけ楽だったか。

 わだかまるモヤモヤを溜め息と一緒に盛大に吐き出す。


「ついこの前の出来事なのに、こうやって平穏に過ごしてると遠い昔みたいに思えるな」


 たった一週間前までは異世界で戦いに明け暮れる毎日で、一刻も早く帰りたいと思っていたのに、いざ戻ってくるとあっちの生活が懐かしくてたまらなかった。


「そうですね」


 一陣の風が俺たちの間を駆け抜けていく。

 あれは確かに現実だった。俺たちは異世界に召喚され、勇者として魔王を倒したのだ。

 もう二度とあの世界に戻ることはないだろう。

 魔王は倒され、世界は平和になったのだ。あとは彼らの役目だ。

 そして俺たちは、俺たちの日常を謳歌するべきなのだ。


「そこの二人! そこで何をしているの! さっさと自分たちの教室に戻りなさい!」


 中庭の入り口付近にて眥を吊り上げて叫ぶ上級生の姿があった。この時間帯に通るということは入学式の段取りを進めるために集まった生徒会関係の人間なのだろう。

 真宵後輩がいるのを見るや、ずんずんと詰め寄ってきて高圧的な態度で見下している。強気な性格なのだろうことは一見しただけで判断がついたが、このままだと真宵後輩の毒舌に心を折られかねない。


「すみません。すぐに戻ります。……真宵後輩もまたあとでな」


 ぽん、と頭を軽く叩くと、一礼してから踵を返す。

 しかし上級生を庇う義理はないので面倒事になる前に脱出する。


「さて」


 まずは教室に足を運ぼうか。

 次第に遠くなる彼女たちの喧騒を聞きながら、中庭をあとにした。



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