6
三四郎は見舞いにいった病院で女性とすれちがう。彼女、美禰子に心をひかれ、彼は偶然の繋がりから親交を深めていく。
夕頃の教室は電気が消されうす暗い。武井たちの姿は見えない。ただ一人、拝島が文庫本を読んでいる。
頭でうごめく雑多な考えを押し出そうとしたものの、そのうごめくものに物語は侵略され、彼の頭の中の映像と本文に差ができていく。美禰子の髪は肩までに短くなり、頬に吹き出物があらわれ、彼女はあの少女に近づいていく。とたんに読んでいられなくなり、彼は本を閉じた。
窓の外を眺め、拝島は立ち上がる。教室は朱色に染められていた。校庭を越えた先、地平線は燃えるように赤く空にかけて紫色のグラデーションが描かれている。触れるものを歪ませながら太陽が沈んでいく。その光景に彼の心はふるえる。
拝島は夕陽を初めて見たような気がした。青空の美しさを写真で気づかされるように、ありふれた美しさは日常に隠されてしまうと知った。
彼の目が潤む。テレビドラマや流行の音楽をたしなみ、雑誌を手本に髪や眉を整え、変ではない服を着る。何となく勉強しそこそこの大学へ入る。それが日課で義務だった。
景色を眺める時間など無駄ととらえ、多くの偏った考え方を覚えた。瞳にこびりついた多くの汚れは洗われ、そうして彼は広い世界を目にした。
風が吹いてカーテンが膨らむ。物語に素直に心をひらき、心を動かされた少女、彼女と同じ充足感を味わおうとして本を求めたのだと拝島は気づいた。
彼女ともっと話せば良かったと彼は悔やむ。会話の続いた場面を想像して胸を弾ませる。彼女の好みの小説はなんだろう、お勧めを聞いたら答えてくれただろうか。彼は空席に少女のまぼろしを光の線で想い描く。
まぼろしの少女へ拝島は手を伸ばす。指先がふれる瞬間、陶器のような白い肌にひびが入り、彼を満たしていたものは砕けゆく。熱心に授業へと向かう瞳・友に見せた微笑み・はねた寝癖、集めてきた印象で壊れゆく少女を補修し、拝島は甘美な幻想を保とうとした。それは徒労に終わる。がらんどうになった洞窟を吹きぬけた風が彼の心を乾かしていく。
教室の扉が開く。つぎはぎだらけのいびつな幻は粉々に砕ける。拝島が後ろをふり向くと夕陽をあびた少女が立っていた。現実の渡部小夜がそこにいた。その瞬間、彼は時が止まったように感じた。
固まった時は壊される。渡部が頭を下げ、自分の席へと歩いていく。拝島は椅子に腰を下ろして本を読むふりをする。目は文字に向かいつつも他の四つの感覚はすべて隣の少女へ開かれていた。
渡部小夜と話す絶好の機会だった。頭の中で次々と彼女への質問が生まれるも、彼の口は動かない。渡部は机から出した教科書を鞄の中に入れていく。
「……小説、読まれるんですね」
渡部から言葉をかけられた。拝島はそれが幻聴のように思えた。彼は震えた声で言い返す。
「……この前の授業で、興味を持ったんだ」
自分の世界を崩壊させるがために、この感情を確かにすることを拝島は恐れた。しかし狭い教室から解き放たれた彼はこの想いを誇らしくさえ感じられた。
「そうですか。私は、本が好きだから、ちょっと嬉しいです」
彼の目は本に向かっている。文書は頭に入らない。右のページは赤く燃え、左のページは紫の影が落ちている。言葉は途切れる。運動部のかけ声が遠くから響く。
「……渡部はどんな本が好きなの?」
目にせずとも渡部の横顔を拝島は感じられた。あの泣き顔を思い描けた。でも、今求めるものは、空想のそれとは違う。
「わたしは……」
少女の声も、説明した本も、照れながら語るその表情も、彼の知らないもの。そうして、彼が欲したものだった。
拝島は自分の感情を、好きなものを知れた。それ以上に望むことはなかった。ただそれだけで進む先がひらけて見えた。
夕日が落ちていく。太陽が燃やした赤い空は紫に変わり、いずれ濃紺となる。だが、このひと時、空は暖かな橙色だった。