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世界史の授業ではフランス革命について教えていた。小太りの中年教師がナポレオンについて語っている。
「この時、ベートーベンが交響曲三番を……」
受験の役に立たない文系の授業へ興味をもてず、拝島は教師の早口を聞き流していた。
拝島は渡部を見ていた。彼女は熱心に耳をかたむけノートをつづる。少女のはねた後ろ髪が彼の目に入る。その部分だけが切り離され、拝島の頭に焼きつく。
昼食はいつも男四人で机をならべて食べた。拝島は上段におかず、下段に白米をつめた弁当箱をひらく。隣の武井は総菜パンをかじりながらテレビドラマについて語っている。
拝島は渡部を見ていた。彼女は地味な女子同士で教室のはじに集り、小さな弁当箱に向かっている。友人と言葉を交わし、目を細めてほんわかとした笑みを浮かべる。
五感は自分の外を感じさせるため内へと続く洞窟だった。香りが料理の味を変えるように、その穴は内側でつながっている。渡部の微笑みは洪水のように拝島へと流れ込み、他の感覚から彼女以外の全てを追い出していく。そして拝島へと向かう他者からの視線を遮断した。
生物の授業は神経について教えていた。受験に使う理系の教科にも関わらず、拝島の目は黒板と窓側を行き来している。
拝島は渡部を見ていた。彼女はノートも取らずにうつらうつらしている。少女に気づかれないと安心して拝島はその横顔を観察した。
親子の顔を見くらべて血のつながりを確めるように、彼は今の渡部と夕暮れの少女を重ねる。あの一瞬、彼の胸は落雷したかのように打ちのめされた。その感覚が再び訪れるのを彼は熱望していた。
渡部が顔を上げる。拝島は目をそらし、窓の外を見るふりをした。彼女の視線を肌で感じて恥ずかしくなった。盗み見がバレて気持ち悪く思われないか不安がった。やせ気味の教師は変わらず交感神経について語っている。
彼女の瞳から逃げる理由がないと拝島は気がついた。初めから外の風景を眺めていて、彼女が勘違いしているように思い始めた。渡部の顔を見返してやろう。地味な女子に逃げ腰になる理由なんてない。そう自分を奮い立たせた。
緊張してる間にさびついてしまった首をゆっくりと動かし、渡部を瞳に写す。拝島は勘違いに気づいて耳を赤くした。ペンを下唇に当て、彼女はうたた寝していた。あたふたした自分が馬鹿に思えた。その一方で、彼女が自分を見てくれないのが、少し残念だった。
ある時、なぜこれほど彼女のことを考えているのか彼は自分に尋ねた。読書して人前で泣くことが信じられず、そんな性格を探るため、疑問を晴らすため観察している。彼はそう順序だてて言い訳めいた答えを出した。渡部小夜という少女が自分の中でクラスのカーストから解放された存在になっていることを彼はある恐れから認められないでいた。
拝島は毎日、彼女をみた。海岸ぞいできれいな貝がらを拾い集めて箱にしまう子供のように、自分にとっての宝物を密かにたくわえ続けた。