76呪いの中で
ひどく喉が乾いていた。
どうしようもないくらいに。
ヒリヒリと焼け付いて、表と裏がくっついてしまう。
何か、飲み物が…いや、私が本当に求めているのは…。
何かを求める口はザパリと開ききっていた。
あと少しでも力を加えれば、そのまま顎が外れてしまう、そのくらいまで。
猿のように、身体が前傾姿勢をとる。
両手が力なく垂れ下がっていた。
身体が自分のものではない。
誰かに乗っ取られたような感覚。
これは…一体?
ここは…どこだ…私は…。
『人を喰べなさい』
誰かの声が耳もとにまとわりついている。
この渇きを満たすのは、人か人なのか。
人、人、人…。
探すまでもなく、見つかった。
不幸な獲物の群れ。
みな、外敵などそっちのけで疲れ切った身体を横たえ、寝息を立てている。
廃れた、ボロボロのテントのしたで。
滑稽だ。
傑作だ。
そう、思えたらどれだけいいだろう?
一歩ずつ、一歩ずつ。
エサに向かって歩いて行く。
エサ?
私は、なにを?
ザザ、ザザ…ノイズのような音が足跡にひっついて回る。
近づくたび、気は昂ぶって行く。
ああ…美味しそうだ。
?
なにが?
エサが。
エサ?
人さ。
「う、うう…」
あと少しだ。
あと少しだよ。
今の私はどんな顔をしてる?
牙を向いた肉食獣の顔だ。
とても、十代の女の子の顔じゃないよ。
でも、喰ってしまえば、君は元に戻れるんだ。
なんで…こんなことに…。
力の入らない腕で自分の身体を包み込もうとする。
無理だよ。
そんな身体じゃ歩くので精一杯さ。
死にたいの?
いや、でも…。
生きたいでしょう?
それ…は…。
じゃあ、食べなきゃ。
飢え死にする前にさ。
そして自覚しろ。
お前は…。
私は?
もう捕食者なんだよ。
身体が勝手に駆け出した。
もう我慢の限界とばかりに。
それは、でも、私の意思でもあった。
喉元まで酸っぱい液体がせり上がっている。
もう、ダメだ。
何かに搾り取られたみたいに、身体のいたるところから力が抜けかけている。
力尽きる前に…。
どうする?
力尽きる前に………。
さあ、答えてよ。
「喰うっ!!」
白い髪の少女はその整った唇を醜く開いた。
背中の翼の純白がそれとあまりに矛盾して見えた。
天使と悪魔の同衾。
白と黒の間の生き物が今、生まれたのだ。
その後方には満足げに笑う女が立っている。
何もかもを見通したような余裕たっぷりの視線を哀れな少女の背中に向けていた。
ガギリガギリと何かを噛み切っていた。
硬くて、尖っている。
一口口に挟み込むたびに、凄まじい痛みが走り、それ以上に耳にうるさい悲鳴がそれから上がる。
耳を塞ぎたくともできない。
口を止めたくとも、できない。
なら、楽しんじゃおうよ。
なんて、美味しいんだろう。
痛い、うまい、痛い、うまい。
うまいうまいうまいうまい。
いつまでだって食べられそうだ。
ゴギリゴギリ。
口の中に広がる痛みと旨味。
絶え間無く口はしから零れ落ちる赤い液体が、身につけたエプロンを濡らして行く。
赤い赤いシミが広がって行く。
ああなんて新鮮なの?
少しも黒の混じらない、鮮やかな紅さ。
アカアカアカアカアカアカアカアカアカ。
そこに、紛れ込む透明な何か。
口だけでは飽き足らず、目からも流れで始めたのか。
いや、これは血じゃない。
体液では、あるけれど、他人のじゃない。
私…私は…。
どうしてこんなことにっ!
叫びたいのに、口は咀嚼を続ける。
もう、声をあげることさえできない、捕食対象の命をすすり取り、自らの力としようとする。
弱肉強食。
ふざけないで!
ふざけないでよ!
この人は…。
男だ。
現場ににまだなれてなくて、戸惑っていた私に可愛いなあ、なんて声をかけてくれた気さくな人だ。
もう、動かない。
私は、この人を…。
喰った、喰った、喰った。
『人を喰べなさい』
女が言う。
耳元に広がった甘い声。
吐き気がする。
でも、それは嘘だ。
よだれが垂れた。
涙と血に混じり、もう、見えないけれど、やっぱり私は…美味しいと感じてしまう。
どうして、どうしてよっ!
あり得ない力で、頭蓋を噛み砕く。
なんで、私…だって…。
ただ、ただ、ただ…。
女の目の前で、白い髪の少女は貪るようにそれを喰っていた。
血とよだれと涙を垂れ流しっぱなしで、他人の目も気にせず、ただ喰らう。
ああ、他人がこれをするとこんなにもひどい光景に映るのかと女はさして深く考える風でもなく思う。
愚かだ。
単純な感想だった。
己の愚かさは知っているつもりだ。
しかして、やはり他人の愚かさと言うのは余計にひどく目に焼きつく。
今、少女の中ではおそらく、二つの思いが入り混じっている。
私が、あの子の想い人への気持ちにつけこんで、呪いをかけたのだから。
簡単な話。
その想いを切り捨てて、呪いに打ち勝つか、想いを捨てず、呪いの意のままに動くか。
どちらかだ。
女の計画からすれば、さして、必要はない、この行為になぜここまでいれこむのかといえば、知りたかった節があったからだ。
心を読む力があるにしろ、他人の心を余すところなく見通すと言うのは難しい。
事実、強い想いにかられている人間からはその強すぎる想いが他の想いを差し置いて、前に出てくるため、他の想いを知ることはかなり困難になる。
この力は要するに不完全なもので、他人の心と言っても所詮、感情の動きや最新の思考の中身くらいしか掴むことはできないのだ。
だからこそ、女は試した。
少女の強い想いが、見えたから。
敵、と言う以前に、一人の観察対象として、彼女の思いの強さが知りたかった。
私は染まってしまったけれど、染まらないものからすれば、人を喰うと言うことの重みはとてもではないが、背負うことのできる類のものではない。
あまりに重すぎて、瞬間に投げ出してしまうか、あるいはその重みにあえて潰してもらうしか、自分を守る手段はない、はずだ。
それなのに、今、女は信じられないものを見ている。
彼女は本物だ。
なぜ、彼女をあそこまでさせるのだろう?
耳障りな音が聞こえてくる。
ゴギリゴギリ。
ああ、嫌な音。
でも、避けられない音。
少女は耳を塞ぐこともできず、口を止めることもできず、捨てることのできない強すぎた想いに縛られて、血の雨を降らす。
ああ、哀れな少女。
誰よりもお人好しで、情が深いのに。
彼女は自分の存在価値そのものを壊そうとしている。
ゴギリゴギリ。
ああ、なんていい音。
私はこの音が本当は心地いい。
いつまでも聞いていたい。
ねえ、神よ。
あの子と私、似てると思わない?
誰もいなくなったテントに、一人立つ、白髪の少女。
月明かりに照らし出されたその姿はどこまでも、赤に染められていた。
鮮やかに、赤黒く。
それは、穢れだった。
あまりに純粋な、穢れだった。
取り払うことの出来はしない、穢れだった。
けれど、それは、少女の想いの証だった。
傍ですべてを見た女は少女のことをもう笑うことはできなかった。
むしろ、罪悪感という、およそ女とは結びつかない感情に縛られかけていた。
私には、できない。
呪いをかけられた者が誰かに呪いをかけた。
化け物が同じ境遇の化け物を作り出した。
ああ、私はなんてことを…。
軽はずみだった。
今更何を…。
二人の女がせめぎ合う。
認められたかった、捨てられたくなかった私、非情な神になりかけた私。
どっちが、本物?
女は頭を抱えた。
都合のいいことを今更考えるな。
幾人のものを手にかけた?
何年、世界を捻じ曲げてきた?
たった一人のためにその信念を捻じ曲げるのか?
信念とはなんだよ。
信念って、私は、ただ、神の…。
その神の手を噛んだのは、お前だ。
違う、私は…そう、捨てられたのよっ!だからっ!復讐してやるのっ!そう、決めてきた…のに、なによ、これっ!なんなのよっ!
そして、最後に私と同じ顔をした女は叫ぶ。
天界!すべてお見通しつもりかっ!
ふざけないで…私は、なんのために…。
決まってるじゃない。
わかってたことでしょう?
悲劇のヒロインぶって、世界を壊し続けたあなたは…。
ただの…
ただの?
とんでもなく醜くて、幼稚な、エゴの塊。
あなたは神の怒りに便乗しただけ。
自分の救いだけを求めて神に信仰を捧げたふりをしただけの存在。
初めから…
そう、初めから…
すべて私の誤ちから始まったのだから。
認めてしまってから、女は気がつく。
呪いを、止めなくては…。
呪い…を…。
その時、ふっと湧いて出た男が一人。
艶やかな金髪に青空を思わせる碧眼。
ツクリモノめいたその顔。
アラン…と、言ったか。
その表情は能面のようになにも表さない。
あるのは恐ろしいまでの静けさだけ。
お前は、一体…。
初めから、そのつもりだったのか?
そこまで思った途端、男はニヤリと笑う。
どこまでが本物か。
どこまでが偽物か。
そんな話ではなかったのだ。
私はこの男一人例にとったとて、なにも理解していなかった。
なにもない、と彼は言った。
すべてを失ったと、この男は言った。
記憶の中の誰かのせいで。
だが、そんなのはおかしい。
感情を消すことなど、ありえない。
こいつは…違っていたのだ。
まさか、正面から騙くらかしにきたのか。
男が整いすぎた唇を開く。
「こんばんはベティさん。今晩の月は綺麗ですね」
彼は笑う。
やはり、違う。
さっきとは、違う。
どこに、問題があった?
でも、もう、いいだろう?
解放してもらえるんだ。
この、呪いから。
抜け出せるんだ。
この、無駄に長い生命から。
「あなたは致命的な勘違いをしていましたよ。ベティさん」
男は一人で語り出す。
「この千年もの間、天界がただじっと待っているなんてこと、あると思いますか?」
ないですよねえと男は一人で頷いた。
何の感情も浮かばない顔で、たんたんと語っていくその姿は、以前女とあった時とはまるで違っていた。
やられた。
そう、思う。
以前にも記憶のズレを使われ、見事にネロに騙された女だったが、今回もしてやられた。
気づくべきだった。
とっくに心が壊れてしまってもおかしくないまでの過去を持っているくせに、感情を失ったと嘆き出す男。
そのくせ、女に対して惚れたような態度を見せた。
それから、そんな不自然な態度を取られたくせに、女本人が違和感を覚えなかった事実。
それらすべてが明らかな違和感。
なんだよ。
神、あんたはめられてるんじゃない?
ベティは純粋に、数百年ぶりに神を心配した。
「どちらが先に壊れるか、やって見ますか?」
男はこの後に及んで表情を作らない。
まるで、そう、本当に、インプットされたプログラム通りに動くロボットのように、ひどく無表情で、それに並ぶくらいの棒読みだった。
神の怒り、呪い、堕天、戦乱。
一体、なにを天界は求めているのだ?
わからない。
そもそもこんなことを考えること自体、身の程知らずにもほどがある。
ああ、私はどこへゆく?
普通の人間で、良かったとは、言わない。
でも、あんな境遇に、あんな容姿に生まれなかったら、それもありかもしれないと、憂う。
くそ、これじゃあまるでこれから私が…。
「そうです、あなたを消しにやってきました。あなたは力を持ち過ぎた。一歩間違えれば、神の領域に踏み込むほどに」
「その神に最も近しい存在を消そうとするお前は一体、何者のつもりなの?」
「名乗るほどのものでもありません。それに、あなたにはあまり情報を与えすぎない方がいいと上からも伝えられていますので」
そこで男はようやく表情を作り出す。
といっても、わずかに、ほんのすこしだけ、唇の端を持ち上げただけだが。
「だって、あなたは人を喰う力だけではない。ひとを呪う力まで神から吸い取った泥棒猫なんですからね、って、これだと使い方違いますかね?」
ぬかりない。
さすが、天界だ。
だが、では、どうして?
ふざけるな!
この世界をなんだと思ってる?
神を、なんだと…。
あ…れ…?
おかしい。
そうだ。
神は数多の神たちの中でも最高の位を持つ創造神だ、だから、一刻も早く、天界に帰したいんじゃないのか?
それじゃあ、どうしてこんな行程を踏む必要がある?
千年も、待たせる必要が?
ない。
じゃあ、この茶番は一体なんのために?
いや、これが茶番でないとしたら、天界は…なにを…わからない。
だが、その思考自体が、よもや天界の意図なのかもしれない。
地上において絶対の力を持つ、私を、混乱させ、困惑させ、あわよくば、成敗する。
そのための力がようやく整って、今、下準備の時間稼ぎを行いたいのかも?
どの論も正しいように思えてくる。
逆にどの論なら天界が天界たるその存在目的を保てるのか?
いや、そもそも天界とはなんだ?
女は他の命を天界による創造物と割り切って呪いの苦しみを軽減させてきたくせに、今更、思い返す羽目になる。
すべての根本、神とは、天界とは、なんであるのか?
ものの見事に女は混乱する。
イレギュラーにイレギュラーが重なり、手にとったはずの駒は手のひらを返した。
千年もの間、思考回路をフル稼働させてきた女にしても奇想天外、そんな、奇策。
いや、そもそもそれが策なのかどうかすらわからない。
しかし、もし、それをなにか目的に達するための策としたなら、それは本当にうまくいった。
思考の海に溺れた女はその場にへたり込み、頭を抱えた。
この、千年の間、誰よりも強く、気高く、美しくあったように見せかけてきた醜く、穢れた弱り切った女は神より他のものの前で初めて崩れ落ちた。
女が持ち合わせていなかったはずの、恐怖がようやくもたげたのだ。
呪いにかかった頃からすっかり忘れていた。
わからないという感覚。
どこにだっていられる。
何だってわかっている。
だから、対策を組み上げれば問題なかった。
これまでは、だが。
「あ、あんたは…」
「私?」
「あ、あんたは…一体…」
「そうですね、私は…あなたと同じ、一介のツクリモノですよ」
男は刃渡り何メートルかわからない長刀を手にとった。
月光が彩るその刀身は銀とも金ともつかない、何ともきらびやかなものだ。
それは、やがて振り上げられた。
「あなたの役目は終わりです」
そして、無情に、無表情に無感動にただ、そうされるべくであったかのように、振り下ろされた。
「この刀は…まあ、刀っていう形態をとっている神器なんですが、名を呪奪と申します」
噴き上がる血飛沫の中で、金髪碧眼の男は斬った対象にも、斬りとばされた女の腕にも目もくれず、たんたんと語る。
「その名のとおり呪いを奪い去ります。つまり、今のあなたはこの困惑した世界が生まれる前の原初の人へと戻ったわけですよ。特別な力もなく、翼もない、男と女とにしか分別されない、本物の人にね」
男の目の前にしゅうしゅうと傷とは無関係にあがる煙は男の視界を曇らせる。
それは、少しずつ、少しずつ、剥がれ落ちていくメッキ。
女を、あたかも生物の王たるにふさわしいもののように見せかけていた、厚化粧。
それが今、目にいたい、夜に映える灰色の煙となって、夜空へと消えていく。
もとあった場所に帰って行くのか?
煙が一通り上がり続けたあとに残った場所にはかつての面影をカケラも残そうとしない、女がいた。
いや、それは本当に、つい先ほどまでの彼女とは比べるべくもなく同じなはずの存在であるのに、表裏、逆転。
シワしかない、シワだけで構成された、肉塊。
それ以外でも、それ以下でもない生物と呼べるのかもわからないものがそこにいた。
「みーっつ」
例によってあの棒読みで捨て台詞のようでもなく、つぶやくように言った男の表情は、やはり、すべての色が抜け落ちたような無表情だった。
もう、その目は哀れな少女を追っていた。
そして、彼女もまた、血濡れた顔を、穢れ切った身体を、アランの方へ向けていた。
「お久しぶりです…いや、この場合、はじめましての方がいいんでしょうかね?スノウさん」
二人は向かい合う。
新たなエサを見つけた捕食者と断ち切るべき呪いを見つけた救済者。
そして、双方が同時に駆け出した。
彼女はなにゆえに抗うことをやめず、彼はなにゆえにそれを断ち切らんとするのだろうか?
波乱の原因、要因、根源であるところの魔女がいなくなったところで、その影響はすぐには消えないらしい。
戦争は終わらず、仲間同士は争い、事態は刻一刻と誰かの想定が、計画が、予測が崩れて行く。
そんなあまりに危険で不安定な、世界で、月だけが完成され、洗練されたその球形を闇に消えた日からの光を受け、輝いていた。
いい月だなあ。
男はやはり何かが欠落した無表情のまま、それを振り切る。
それの名は呪奪。
呪いを喰らいとる妖刀である。
そして、忌むべき人喰いの呪いは少女の金切り声と共にこの世を去った。
金髪碧眼の男は倒れこむ女の方へ見向きもせずに踏み出す。
その背には、肩甲骨の間から生えた白く大きな翼と、その少し下に小さな黒い羽が覗いていた。
まるで、天使と悪魔が混在するかのように違和感のある容姿。
善と悪、光と闇、創造と破壊。
決して合わさることのない、二つの要素ががっちりと手を組み、何かを企てているようにさえ見えた。
天界、それは一体、どんな場所だというのだろうか?




