75次の戦いへ
フィールドオブグレース。
広大な灰色の砂漠の片隅、パールにほど近い場所に置かれた医療用の急ごしらえのテントの上にも月はその光を存分に分け与えていた。
金とも橙ともつかないその光に当てられたテントはお世辞にも立派とは言えない。
もともと古いものだったのか、所々天井の役目である、頑丈でなければならない布がびらびらと風に揺れ、無数に空いた穴が見たものを不安にさせた。
それでも、兵士にとって唯一気の休まる場と言ってもいいそのテントの中はスノウにとってはある意味で戦場と同じではあったものの、今は休憩だ。
運び込まれたもののほとんどの治療を終え、疲れ切った身体でテントの外に突っ立っていた。
そんな中、ついさっきまで、治療中であった友人が駆けていったあと、その女をスノウは見つけた。
「あなたは天界について何も知らないのね」
女は舌なめずりをした。
その容姿はもとより、その一つ一つの動作さえ言いつくせぬほどの美が存在した。
女が発した一言一句は誰の声よりも深く耳に刺さり、奥へ奥へと甘くとろけていく。
「てんかい?それに、あなたは…誰?」
見知らぬ者を相手にスノウは身構える。
だが、その動作はぎこちない。
すでに半分は許してしまっているのだ。
女の発する甘い甘い毒に身体も心も半分は麻痺していた。
いや、それどころか、その感覚を求めていた。
さながら中毒者のごとく。
「あらあら、神経が強いのね。大抵このぐらいの時間私といたら虜なのに」
女と対峙したスノウの身体は何かに耐えるようにプルプルと震えていた。
その膝は今にも折れそうで、その腰は今にも弾けてしまいそうで、構えた腕はすぐにでも力なく垂れ下がってしまいそうだった。
「な、何を言っているの?あなたは味方?それとも敵ですか?」
口に出す言葉もとても流暢とは言えないものとなる。
ザザザッと後ずさりかけた足が地に跡をつけた。
「まあまあ、そんなに怯えないでちょうだい。ただ、私…若くて綺麗な女の子が大好物なだけよ」
そこで、まるでくせのように女は舌なめずりをした。
長くて細い舌がその赤さを主張しながら、完璧に整った唇を濡らす。
月明かりに照らし出されたそれはあまりに扇情的で、同性であるはずのスノウまでもがその動作から目を離すことができなかった。
「それでもって、ただアイデアを提案したいだけなのよ。私は」
ふふっと女は笑う。
「好きな男を落とすためのね」
「は、はぁっ⁉なにをっ!何を言ってるんですか!意味わかりませんし…」
「隠してもだーめよー。私、こう見えて鋭いし、なにより、心の叫び、聞いちゃった」
てへっと拳を作った右手でひたいを小突いたが、その動作はあまりに外見にそぐわない。
どうしようもない違和感が彼女の『ツクッタ』という印象を加速させた。
「き、聞いちゃったって…」
顔がかぁーと熱くなって行く。
背中のほうがムズムズしてくる。
なんの根拠もない推測のはずなのに、図星だから、どんどん追い詰められて行く。
恥ずかしくて、怒鳴ってしまいたくなるが、あいにく夜のテントで騒ぐのはご法度だ。
おまけに八つ当たりする相手も今はいない。
ああ、もう…なんなの?
ここは戦場なのよ?
なんでそんなピンク色の話題を持ちこむのよ。
しかも、見ず知らずの女の人が。
「まあ、いいじゃない。図星でしょう?」
「そ、それはそうですが…………って、やっぱり、心読まれてる?もしかして、アランと同種の人?」
驚いて、聞き返すと、女は首を傾げた。
「アラン?ああ、そんな男もいたようないないような…まあ、いいわ。それで、あなたの好きなのはカイ・ルート君であってる?」
「へ、いや…その…」
あんまり率直な言い方で、頷きかけて、やめようとして、どちらか迷って…。
うぅーと考えあぐねた結果…身体中が熱くなるのを感じながら、頷いた。
「ああー。それ、まずいわよ。かなりやばいわ」
足の先から髪の先まで真っ赤になった(言い過ぎかも?)スノウに向け、女は興奮しきった声をあげる。
それから、急に醒めた目になって呟く。
「………それだけの美貌があって、なにを望むというの?」
だが、それをスノウは聞き取ることはできない。
「え、あの、今、何か言いました?」
「いいえ、なんでもないわ。それじゃあ、私が味方だということはわかってもらえたかしら」
女は聞くまでもなく知っていた。
心を読めるからというのはもちろんのことだが、読めなくとも簡単にわかることだ。
秘密を共有するということは、たとえその対象が見ず知らずのものだとしても心を許したと同じこと。
たとえ、いぶかしむ気持ちが残っていたとしても、その対象からの言葉を必ずしも無下にはできない。
「え、ええ…まあ…武装もされてないようですし…魔族の方でもないし…」
「それじゃあ、自己紹介から始めましょ」
「私はベティ、あなたは?」
「スノウ…スノウ・ラクサーヌです」
女は手を差し出した。
スノウはためらいがちに、その手を取ろうとするが、その寸前、意地悪く女は手を引いた。
「ちょ、な、なな…」
「あーら、こんなの、よくやらない?学生同士なんかで」
「こ、ここは戦場ですよっ!」
なんだか、うまく言えないモヤモヤした気持ちになって、スノウは半ば上ずった声をあげた。
女とつなぐはずだった方の手を困った表情で見つめながら。
「いいの?ここでそんな大声出しても」
対する女はシーと人差し指を整った唇の先端に当てながらいう。
それを見て、慌ててスノウは自分の口を塞いだ。
それから、けが人の方々が起き出したりしていないか、必死に首を振り回し、誰も起きてないことを確認すると、ホッと胸をなでおろし、ため息を一つ落とした。
「もうっ!スノウちゃん可愛い。うちの子になっちゃいなさい」
女はふざけて年上の面倒見がいいお姉さん、あたりが良くいいそうなセリフを口にした。
「へ?え、ええ?あの、はい?」
スノウはこの手のノリに慣れていなかった。
一気に距離を詰め、抱きつこうとしてくる女の月明かりに白く映える腕から必死になって逃げ回りながら、考える。
この人、いくつなんだろう?
見ようによっては、十代にも見えるが、かといって、二十代とも見て取れるし、下手をすれば、三十にだって見える。
もともと整いすぎた容姿のせいで、ひどく若く見えるのか、それとも、実年齢よりも年上に見えるのか?
どちらなのかさっぱりわからなかった。
ただ、言えるのはこの人以上の美人を今まで見たことがないということだけ。
「あらあら、嬉しいこといってくれるわねー!」
なんていいながら、女はごく自然に心を読んだ女はスノウに触れるか触れないかギリギリまで腕を伸ばす。
それをスルリとよけながら、スノウは不思議に思う。
この人、本気じゃない。
いつだって触れられるのに、絶対に、触れるところまでは踏み込んでこない。
これは、遠慮とかそういうものではなくて、もっと…。
「はいはい、勘が良すぎるのは悪いくせねースノウちゃん。そろそろ、真面目にお話しましょ」
女の手は止まり、スノウも習うように逃げるのをやめた。
スノウと目を正面から合わせた女の表情は真剣そのもので、それを見ているだけで、スノウはあたり一帯が静かになったような錯覚さえ覚えた。
ササーと砂が流れる音が、流れの緩やかな川のせせらぎのように聞こえてくる。
疲れ切って死んだように眠る兵士の寝息がテントの方から流れてくる。
その中には、いびきがあるものもいて、寝苦しそうに寝返りを打つ音まで聞こえてくる。
まるで、すべての音がそれぞれの役割を果たす、音楽のようにさえ感じられる、そんな不思議な静けさだ。
うるさいものも雑音もここには存在しない。
あるのは静けさと同化する、穏やかな音の群れ。
そんな中に、女が小石を放り込む。
「彼を落とすのは簡単よ」
目の前にしていながら、耳元で囁かれたように錯覚してしまうような染み入る声。
「ど、どうやって?」
秘密の共有者に対してはセキュリティーが甘い。
スノウは真剣に聞き返していた。
女は満足げな笑みに口はしを少しだけ歪めながら、答えた。
「あなたが綺麗になればいいの」
「そ、それこそ、どうやって?私…化粧とか苦手だし…」
そもそもなんで私はこんなところでそんな話をしているの?
「大丈夫。化粧なんて必要ないわ。現に私だってノーメイクだし」
女はさらりといってのけた言葉がスノウの目を見開かせた。
「!?」
「あ、あなた、疑ってるわね。でも、本当よ。なんなら水をかけてもらっても構わない」
女は余裕たっぷりにそれだけいうと、さらにスノウとの距離を詰める。
もう、顔がひっついてしまうのではないかと錯覚してしまうようなそんな距離まで。
「で、でも…そんな…」
スノウは半信半疑とはいえ、近づいた女の迫力に押され始めていた。
あらかじめ引かれていたレールに少しずつ少しずつ、方向を捻じ曲げられる感覚。
でも、それは疑いさえ捨ててしまえばむしろ気分のいいもので、スノウの頭の中で女の人間的なカテゴリーが『秘密の共有者』から『協力者』へと変換されて行く。
「私の今から言うことをすれば、あなたも美しくなるわ、どう?話を聞いて見る気になった?」
「………」
あと少し。
女は舌舐めずりをした。
あと、一押し。
「イエスか?ノーか?」
ずいっと女とスノウの距離感はゼロとなった。
女の吐く息がスノウのまつげに降りかかる。
くすぐったそうにスノウは顔を沈めようとするが、それを女は許さない。
さあ、さあ、さあ。
「イエス」
スノウはついに頷いた。
女は破顔した。
恋心ほど取り入りやすいものはないんじゃないかしら。
たいそうな手駒を手に入れた女は思う。
見てなさい。
神よ。
天界よ。
あなたがたの計画、徹底的に潰してあげる。
不死者を送り込んでいい気になってるかもしれないけれど、彼らの心は不死ではない。
その上、その孤独ゆえに、脆い。
混沌の魔女よろしく、掻き乱してやる。
それが、私の復讐。
やがて、女の目の前でスノウの背からばさりと大きな大きな翼が現れる。
人間が作り出した伝説や神話の天使のごとく、白く輝くまばゆいまでの美しい翼。
月明かりを受けて、その美しさは上乗せされた。
名画の中よりそのまま抜き出してきたようなその優美さにほれぼれしながら女はポツリとつぶやいた。
「ふたーつ」
そして、俯いたスノウの耳元へ顔を寄せ、言った。
ザザーと砂の音がする。
さっきより強い風が吹いていた。
まるで、女の口にせんとする言葉をかき消そうとしているかのようにさえ思えた。
だが、囁かれた言葉はやはり、甘い響きと共に、スノウの中へとしみこんでいく。
「本当に簡単なことよ」
誰かの寝息。
さざ波のような砂の音。
降り注いだ月明かり。
「人を喰べなさい」
少女は首を振り、女はくつくつと笑う。
月に向かい、いるのかもいないのかもわからない相手に向け、笑う。
どうだ。
参ったか。
そう、言わんばかりに。
「まだまだこれからが楽しいところよ」
そろそろ、戦争が終わる。
物資の供給のない魔人族にそもそも勝てる見込みなどなかった。
これで新たな展開が生まれる。
魔人VS人とハーフ連合軍
共通の敵がいなくなれば、新たな戦いが幕を開ける。
ああ、なんて哀れな。
ああ、なんて滑稽な。
不完全な世界だろうか。




