5進行
「だいぶ濡れちゃった。」
長く冷たい雨は厚いコートを簡単に通り抜けて、その身体を濡らしていた。
女はため息を一つ着くと、雨が予測できたらいいのになんて考えながら、第七ブロックの通学区画をゆったりと歩く。
静かな通りには街路樹が規則的に並べられ、そこに恵みの雨が降り注いでいた。
女にとっては水溜りがそこかしこに出来上がり、歩きづらいことこの上ない。
「ハワードがあんなところにいなければね…こんなに厄介なことにならないのに…。」
彼女はそうつぶやくと、青く長い髪をかきあげた。
「でも、大丈夫よハワード。どこにいたって私が連れ戻すんだから。」
女は誰かに言い聞かせるように言う。
女の隣には誰もいないし、その近くに誰もいやしない。
ただ、赤いコートに包まれた、青い髪が特徴のスレンダーな女がいるだけであった。
女の独り言。
その声は不気味なまでに通りに響き渡る。
だが、通りを歩くものはない。
雨が降った日に誰がわざわざこんな小さな道を通るのだろう?
それゆえに、女は明らかにこの場所で異質な存在であり、同時に、どうあってもそれを指摘されようがない状況下にあった。
つまり、この状況は潜入成功を意味する。
今のところ、先ほどの男のような輩はまだ現れていないし、警備のものも見受けられない。
今がチャンスなのだ。
でも、女はあえて急いだり、歩を早めたりはしない。
それはビル墓場という警備の穴をつけたため、予想よりだいぶ早く着いたからである。
それに、大掛かりなことになりすぎれば任務失敗につながってしまうけれど、さっきの男程度の人間ならばいい暇つぶしになる。
見つかりづらい場所を、見つかりやすい格好でゆっくりと歩くのだ。
そのほうがおもしろいから。
「さっそく一匹釣れたかしら?」
女の前方から傘を刺した中年の男が一人、歩いてくる。
上等そうな黒いスーツのお腹のあたりがこんもりと山になっている冴えない風体のおとこだった。
男は女をもう目と鼻の先に見える位置にいるのに、女に少しも関心を寄せていなかった。
というよりも、何もみようとしていない、いや、見えていない目をしていた。
女の頭の中ではこういう男は早死にすると相場が決まっていた。
どうして一人で雨に濡れて歩く女に一声もかけることができないのか?
女は気遣いのない男が嫌いであった。
もちろん、突然馴れ馴れしく話しかけてくるチャラチャラした男も同じだが。
「そこのあなた。少しだけ私を傘にいれてもらえないかしら?」
女はすかさず声をかけた。
それは男がほとんど女とすれ違ったところのことで、ちょうど不意をつくかたちとなった。
男は驚いたように女に向き直ると、
「あはあ…これは申し訳ない…少しボーッとしていたようです…昨日、妻が亡くなったもので…。」
と言った。
「すみません…お気遣いできずに…どうぞ、お使い下さい。」
と続けると傘を女の方へ差し出した。
彼の動きに何の迷いもなく、自分が濡れるのを全く気にしていないようだった。
「いや、あの…いいんです…私、雨に濡れるの好きですから。」
なんだか調子が狂ってしまった女は途切れ途切れに言葉を連ねる。
自分がどんな言葉をはいたかもわからなかった。
それから、この男は例外だと、女の頭の中の相場が初めて塗り替えられた。
こういう男を手にかけるというのはとても気の進まないことだ。
女はこの男を退屈しのぎのオモチャにするのを諦める。
そして、まだ、傘を差し出し続ける中年紳士に対して少しの好感を覚えた。
なるほど、人にもこんなにまともな者がいるのだと。
けれど、あくまで例外がいるだけで、女の認識は何も変わらない。
人とは憎むべき存在で、人などというものは取るに足らないものだということだ。
今さらその認識が塗り替えられることはない。
女にとって人はいくら殴っても、殺しても、なんの罪悪感も感じることのない存在だった。
「私もですよ。実はちょうど雨に濡れたい気分になりまして。」
男のスーツの袖口に雨粒がまんべんなく飾られる、まるでビーズのように。
だけれど、それが形を持っていられるのは一瞬だけ。
形を失ったそれは黒をさらに黒く塗り潰していく。
男はなおも譲らなかったのだ。
差し出された手は諦める様子を見せない。
女は、男の行動の一つ一つが、自らの認識を少しずつ歪ませようとしているのに、恐れを抱いた。
「やめてよ!私は、私は…」
女は取り乱し、男の差し出した傘を手で払い落としていた。
広がったままの傘が水溜りの中にドシャッと大きな音をたてて転がる。
すると、男は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ、優しげな顔で女の目を見つめる。
ただただ優しい顔で。
「すみません、お気に触ってしまったようですね…では私は失礼します。どうやらお力になれないようですので…」
男はあまりに優しすぎる捨てゼリフを吐き、そのまま女の横をすり抜けるように通りを歩いて行く。
何故か傘を刺さずにだ。
まだこの期に及んで女に気を遣っているのかもしれなかった。
女は男の後ろ姿を後悔に近い感情を抱きながら見送った。
「残念ね…あなたのような人ばかりだったなら…なんて、考えは甘いのよ。」
雨がピシャピシャと音を立てる。
女の熱を冷ますように降り続く雨、女の足元の水溜りをはねて、靴を濡らした。
女の身体にこもった熱を冷ますのに、雨だけでは役不足だった。
女は男から目を離すと、複雑な気分のまま、目的地へと足を踏み出す。
女の頭の中ではもう暇つぶしなんていう考えは消えて、ただ、静かにことを終えるのを望んでいた。
「人なんて…人なんて…」
いつの間にか女はまた独り言を吐いていた。
だけれど、その感情を分かつものはいない。
この通りにも、この国にも…。
「私の理解者は一人だけなんだから…。」
女は意識するでもなく走り出した。
理解者が欲しい。
何もかもわかってくれる、包み込んで温めてくれるような、そんな理解者が。
ハワードだけがわかってくれた。
ハワードだけが理解してくれる。
早く彼に会わなくちゃならない。
すぐに女は国立パルディア学院の裏門へと辿り着いた。
その門は女より頭二つ分くらい大きくて、アーチ型をした、鉄製のものだった。
横幅は女が五人並んでもまだ余裕があるくらいのもので、アーチ状になった、上枠に槍のデザインが施されている。
女はその門を難なくくぐり抜け、任務決行へと移行する。
「ハワード、今会いにいくから。」