67借り物の力
タワーオブホワイト、頂上階。
地上二十メートルという、高さにあるそこに、展望用の窓などはあるはずもなかった。
はたからみれば、美術的という言葉を冠するに値するほどの造形美を誇る白く輝く尖塔である、このタワーオブホワイト。
だが、中身を知っているものから言わせれば、とても、タワーオブホワイトという名にすらそぐわない、地獄を体現したとさえいわれ、彼らは声を揃えて言うだろう『罪殺しの塔』と。
その中で一人カイ・ルートは戦っていた…いや…なぶられていた。
「ふむ、なぜ、そのような実力でここまで登ってこられたのか。ここにまた一つ世の不条理を感ずるぞ」
つかみあげられた右足は、ほとんど感覚がない。
あらゆる感覚が痺れきり、痛みなんてとうに忘れられてしまったかのようだった。
それから、投げ飛ばされ、叩きつけられた身体の方もほとんど右足に同じ状態だ。
ただ、冴え渡る思考回路と鮮明に現状を映し出す視覚だけが妙だった。
はっきりと映りこんだ、壁は暗い中でもわかるくらいにグロテスクな様相だ。
一体、どんな所業が幾度繰り返されたらこんな…。
ピシャリッ。
なにかが滴り落ちた。
顔に降りかかったそれは、赤々とした液体。
幸い、目にはかからなかった。
しかし、今、情報を集められる唯一の手段である視界は奪われずにすんだとはいうものの、顔に小ぶりついたその液体の正体を思えば、気は落ち込む。
その次の瞬間にわかったのは視界の急転換とともに、身体がまた投げ飛ばされことだ。
身体中を激しい振動と、鈍い重圧が襲う。
「カ…ハッ!」
かすれた、発音の不完全な言葉が肺から絞り出された。
苦しい…。
数秒も息ができなかった。
だが、こんなの、慣れっこだ。
強がりではなく、慣れた。
ここで行われていることは、数時間前と変わらないのだ。
投げ出した、足をもう一度拾い直した男の姿も、見飽きた。
日常的なデジャヴより、ずっと視覚的ダメージだけがひどい。
背の高い男だ。
片目を眼帯で隠している。
いや、もう片方も長い前髪の中にかくされているから、両目ともどのような様子かはわからない。
俺の父親と同じ、白いコートをみにまとっている。
しかし、初め、目が慣れてくるまでの間、俺の夜目の具合では、それは黒いファイアパターンの入った派手なコートに見えた。
そう、そのファイアパターンは血で出来上がったものだった。
おそらく、もう、ずいぶん古い血もある。
持ち主の身体は、死んでいたと仮定すれば、白骨化していておかしくない、そんな風だった。
だが、俺が驚いたのはそんな血の出処の話ではなく、男の悪趣味の過ぎたる度の話だ。
この男は、その悪趣味な液体からできた悪趣味な柄を、なんと、自分の手で作り出していたのだ。
なぜそんなことが言えるのか?
その柄の血のにじんだあと、そして、男の振るう力にある。
ようやく、感覚が少しだけ戻ってきた。
先ほど掴み上げられた俺の右足に
男がキツく力を込めたようだった。
痛覚のほとんどが失われた今でさえ、芯を揺さぶる刺激。
男の指が食い込むのがわかる。
ああ、男の尖った爪がグイグイと入り込んでくる。
そして、『力』が発動される。
身体中を一気に血が駆け巡る。
その一点、男の指の突き刺さった場所へと。
ドクン、ドクン、ドクドクドクドク。
嫌な音だ。
それから、この感触だけは慣れることができない。
ドクドクドクドク
あまりの痛みに、堪えきれず、声が上がる。
「あ、ああ…ああああ…ああー!!」
「ふむ、痛みは感じているな。しかし、なぜ死なない」
悲鳴をあげている間に、男がもう何度目かわからない言葉を吐いた。
それには俺も同じ見解ではあるが、答える義理も、余裕もなかった。
それから、男は急に饒舌になり、自らの力を解説しだす。
「まあ、いい。新しい実験といこうか。ふふ。せっかく、実験体にするのだから、少しぐらいの見返りをやらなくてはな。この力はな、同期のやつらの中でも群を抜いて素晴らしいわけだよ。なぜだかわかるかな?ん?」
男の指がさらに奥に入り込んでくる。
グリグリグリ。
ドクドクドドドドドドド。
「あ、ああー!あ、あああああ…あ…ああ」
「そうなんだ。私のこの力は光の新しい形と言われる、装備型というやつなのだよ。これまでの光はより新しい物をより、美しく、また、たくさん生み出すことが素晴らしいと言われてきた、言わば造形型。だが、この装備型は光による直接的な肉体変化をさす。つまり、今の私は光によって肉体を強化し続けることができる強化人間なのだよ。だが、せっかくのこの力を…」
男の腕がさらにカイの足をグイグイとひねりあげる。
凄まじい力に、骨の強度もなす術なく破れ去る。
ごきゅっ!
嫌な音がした。
「うああああああーーああああっ!あ、ああああーーー!」
「あの、パーツ・ブラッドリーの野郎がっ!『血の翼』だあ?ふざけるな。空を飛べるからなんだというのだ!どうせあの黒翼人どもの真似事だろうが!」
さらに力は容赦なく、際限なく、その火力をあげる。
もう、流石にやめて欲しい。
これ以上、痛めつけられたら…なんて…
自分がそんなことを考える人間だったらどれほど楽な展開だったろうかと思う。
しかし、残念ながら、そちらに思考は向かなかった。
痛みに歯を食いしばりつつ、頭にあったのはどうすればこの男を殺さずにこのさらに先へ進めるかということだ。
こうなってから数分のうちは、思えばその考えも甘かったのではないかとか、やはり、一人くらい殺してしまっても仕方ない…とかたくさんの考えの中で揺れ動いた意向だが、結局初めの考えに戻ったのだ。
やはり、俺は人を傷つけるには向いていない。
傷つけるより、傷つけられる方がずっとましだ。
そう、思った途端、力が湧いてくる。
だが、湧いてくるのは力でなくて、ぜひとも知恵であって欲しかった。
力なら、いくらでもあるのだから。
この男など、敵ではない。
しかし、力を使わず、戦うともなれば、ここまでコテンパンにやられてしまうのだ。
なんと、俺の非力なことか。
だが、悲観している時間はない。
こうしている間にもたくさんの人が数多の要因で、あるいは自らの意思で、戦場に向かい、そのほとんどが死に絶えようと…いや、すでに半日が経ったのだから、死に絶えていてもおかしくない。
そんなもの、と割り切ってしまえたら良かった。
ただ、楽しげなイベントだなどと噂話を聞いていられたら良かった。
でも、いま、俺はその渦中にいるのだ。
それを自覚せねばなるまい。
人々の命がこの手にかかっていて、なにより、この俺の手でなければ彼らを救うことはできないのだから。
「はぁ…ボロボロだ…な…」
口から吐き出せたのはとびきり弱った音。
頭の中で彼を呼び起こす。
力を…貸してくれ。
ふん、言ったであろう。
私の許可など必要ないと。
きっとまだ恐れているのだろう?
我らの力を。
「ああ…そうさ。まだ…怖いんだ。俺は…人殺しに…なりたいわけじゃない。ささやかな救世主になりたいだけなんだよ」
「おーい、おい、おい、おい。まだ話の途中なのだよ。わかるか?人に話を中断されるのは一番腹が立つのだ!」
男がほとんど無抵抗な俺を再びぶっ飛ばした。
無造作に引き抜かれた男の指の残したあとから、意思を揺さぶられるほどの痛みが走ったが、耐える。
ここにきて、気がついたことがある。
俺は…かなり我慢強いタイプなんだと。
「うん?待ってくれ…なぜ、立てる?これまでお前のほとんどの血を抜き取った。この吸血型の力に侵されて意識でもなんでも、とっくになくなっておかしくないんだぞ?」
驚愕した男の顔が滑稽だった。
振り乱した髪の間からついに覗けた赤色の瞳がグラグラ揺れていた。
ふむ、それは我らとて同じことだ。
己を殺人鬼にしたいものなど、そうそういない。
我らはそんな考えを持つお主にだから力を貸すと言っている。
文句があるか?我らが信用できんか?
「いや、十分だ」
俺はまだ橋を渡りきれていなかったのかもしれない。
最後の最後で足場の危険を思い出し、自分が可愛くなったのかもしれない。
だが、今度こそ、本当に、渡り切った。
いや、違うな。
橋の向こうから手を差し伸べられたのだ。
臆病な俺を見兼ねて、五十年前の英雄はわざわざこの矮小な存在に手を貸してくれるというのだ。
「ありがたすぎて、涙が出るよ。英雄さん」
英雄ではないと言っている。
だが、お前は英雄になれるよ。
「ばか、あんた本当にばかだよ」
「何を言っている?答えになっていないぞ、少年。気でも狂ったか?そういえば、初めは背中におかしな羽なんぞをくっつけていたし、一体、お前は…」
「悪いけど、種明かしはまた来週ってことで、ダメか?」
適当に軽口を叩いておいた。
そして、頭でイメージする。
以前に感じたイメージ…まるで他人に全神経を乗っ取られたかのような感覚…のその逆だ。
対象の力を体内に、自分から引き入れる。
力を吸引するのだ。
イメージはすぐに固まった。
当然だ。
散々やってきたのだから。
ただ、その分わかっていなければいけない点もある。
この力は強大すぎるのだ。
全く、尊敬する。
英雄さんはこれを自分で作り上げてしまったのだ。
見えざる手でそれをつかみ上げる。
その、あまりに大きな力の塊を。
持ったイメージだけで、圧倒される。
触れたイメージだけで、力が体の中に流れ込んできたような気までした。
その重みに、震えた。
それから、それを震えたままの手を喉元まで持ってくる。
そして、一思いに飲み込んだ。
「うおっ⁉な、なんだ!何が起こってる!」
俺の身体が光を放つ。
その光量は『光』など目じゃないほど、眩しく、美しい。
目を焼かれるような光の中に、男の滑稽な顔が浮かんだ。
そして、俺の身体は…みなぎっていた。
振り上げた右腕のなんと軽いことか。
光はすぐに収まったが、身体は様々な色に輝き続けた。
そして、これまでの自分の愚かさに気がついた。
「一ヶ月やってきて、なんで今更怖がってたんだろうな」
「お、おい…一体、なにを…」
後ずさる男。
ずるりずるりと足を引きずる音が、妙に響く。
先ほどまでとのえらい違いに、俺は驚きを通り越して呆れていた。
へっぴり腰のまま逃げる気まんまんの男に先ほどまで痛めつけられていたかと思うと、本当におかしくて、思わず大声をあげて笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
逃げてくれれば、一番いい。
「ああ、これね」
すっかり回復してしまった身体に、紫電に包まれながら光を放つ身体に、自分でさえ驚きながら言葉を探す。
「まあ、あんたのそれが吸血型って言うなら、俺のはさしずめ…」
薄闇の中で異様なまでの存在感を見せる光に包まれた手をビシッと男に向ける。
「英雄型てとこか…なっ!」
ここで、駆け出すふりをする。
思い切り、一歩を踏み出し、タイミング良く大きな音を立てるため、足裏を地面へ叩きつけるようにする。
読み通り、男は一目散に逃げ出した。
それも、俺の狙いを知ってか知らずか、きっちり、奥への道を開けるように、廊下の彼方へ消えて行った。
「ふう…」
せっかくのお披露目がまさか脅しで終わるとはな…。
英雄の声がした。
「おいおい、あんた、戦闘用に開発したんじゃないんだろ?この術式」
はあ…お主は馬鹿なのか?そいつは一応装備型だ。もちろん、戦闘も視野にいれて開発したさ。身体が軽いだろう?その上、『速い』はずだ。
「ん、言われてみれば確かに。いや、イメトレしかしなかったからな…これは、反則だよ。本当に」
まあ、反則でなければならなかった事態だったからな。少しでも弱点を残せば、交渉は成立しなかった。
「終戦の誓い…ね。あんたの性格からすりゃきつかっただろうな」
やむを得んとはいえ、世界を騙したわけだからな。今だに、自分が正しいことをしたのかはわからない。多数を救うために、少数を犠牲にし、理想を追おうとしたばかりに、出さなくても良かった犠牲を払った…。
「ああ、確かにあんたの考えは極端かもしれないし、理想を追い過ぎかもしれない。けど、俺は気に入ってるよ。俺もそう考えるだろうからな」
ふん、自分の半分も生きていない若造に共感を持たれるとはな。
「まあ、いいじゃねえか。あんたはもう死んだ身だろ。身分的には生きてる俺の方が上なんだから…なんて言ったりして」
いや、待て、その考え方も極端だぞ……。カイ、気づいているか?
「もちろんだ」
声を潜める。
楽しいおしゃべりもここまでだ。
いや、もともと楽しくなんてないが、とりあえず、
「まあ、そううまくはいかないってことだな」
俺は男の逃げて行った方へ向き直る。
「出て来なよ。ストーカーとか、趣味悪いんじゃないかな」
「へ、へへ…よく気がついたな」
答えた粘つくような声は案の定あの男のものだった。
ただ、どういうわけか、声の出処だけが特定できない。
「逃げ腰だった…ていうか逃げ出した奴がよくもまあ偉そうな口を」
挑発。
隠れ続けていられても、精神的に計画の邪魔であるし、あとで奇襲でもされれば、物理的に邪魔だ。
「ふん、逃げたわけではない!」
男は強がっている。
どうせ、悪役の典型パターン、逃げたと見せかけて不意打ち、で決まりだろうが。
だが、妙にその声色は安定していた。
やはり、先ほどの態度は動揺していただけだったのか?
「そんなに、強がらなくても…」
「まあ、いい。私がなぜ装備型の中でも最強と謳われたのか、今からお前に見せてやる」
男の目は見えないが、今、光が差し込んでいたとすれば、ギラリと鈍く光っていただろう。
そして、そいつは半眼になり、冷静にその像の中に俺を落とし込んでいるだろう。
それが、その想像ができてしまったことが、意味するものは、男の自信だ。
それも、根も葉もない、陳腐な妄想から生まれたものでなく、緻密に計算され尽くした計画の正確さからくる、確信だ。
タッタッタッタ。
男の走る音だけが、響く。
すっかり、闇に慣れた俺の視界にはまだ男の姿映らなかった。
一体、どこに?
音だけは、近い、近い、近すぎて…。
だが、見回してもどこにもいない。
上だ!
英雄が言うが早いか、俺はとっさに身を翻し、十分に距離をとってから、見上げた。
奴は…立っていた。
天井に、なんの苦もないと言った様子で、ただ、たっていた。
その姿の異様さに、少し、ばかり、精神を乱される。
髪の壁が重力に負け、ようやく、お出ましになった男の片目が俺の身体の放ち続ける紫電の光に当てられて、ぎらりと光った。
嫌な色だ。
血のような赤色はタワーオブホワイトにお似合いの汚れた輝きを持っていた。
そして、男は、降り立った。
「ふふ。不意打ちなどで終わらせてしまったら、さっきのが嘘となってしまいそうだからな…」
その姿は本当に、余裕と自信に満ちている。
それでいて、それらは必要な容量を越えず、隙をうかがわせない。
俺は何かを見落としているのか?
そんな疑惑ばかりが胸中を泳ぐ。
そんな俺に構わず、男は身構えた。
「さあ、今度こそ、始めようか」
男の口端がニッと。
釣り上がる。
なぜだか、鮮明に見えた、気がした。
ダッ。
男との間合いは数メートル。
数時間前、この間合いで俺はたったの数秒で男に組み伏せられ、あの妙な力の毒牙にかかってしまったのだ。
だが、こちらとて、同じ轍は踏むものか。
男の足が動いたが早いか、俺は逆に距離を詰める。
男の動きは速い。
そこに、俺の速度をぶつければ、不意がつける、はずだ。
「なに…⁉」
それから、驚愕。
俺の足を踏み出したはずの、その瞬間、もう、間合いはゼロになっていた。
何が起こっている?
そして、俺は、考える間もなく、男に思い切り鳩尾を打たれた。
防御も何もできやしなかった。
俺にできたことは、吹き飛ばされるさなか、視界に映り込んだ男の嬉しそうな顔を眺めていることだけ。
何かがおかしい。
男の動きが速すぎる…⁉
待てまだ次が来るぞ!
警告。
だが、その時点でまだ俺は着地できていなかった。
数メートルじゃ済まないほどの距離を、驚くほど長い時間を使って吹き飛ばされていたのだ。
馬鹿者、翼を使え。
そ、そうだ…翼…。
「白翼、展開」
背中に不思議な違和感、とともに、身体が動かせるようになる。
落ち着け。
冷静になれ。
俺は英雄の力を借り受けているのだ。
負けるはずがない。
だが、どうやら手加減できるレベルではないらしい。
男の速さは…異常だ。
「ぐうっ!」
一瞬の飛行状態の間に、背筋へ凄まじい衝撃が走った。
「捕まえたぞ。どうした?その力とやらを使わないのか?」
翼を掴まれていた。
背後を取られ、しっかりとその両手に翼が握られている。
もしや、ばれたのか。
「そういや、この翼をさっきもしまっていたな。こんな便利なものがあるのに、どうしてわざわざしまいこむ必要があるのか?ここは翼が邪魔になるような狭い場所じゃない。むしろ、翼をつかったほうが有利に運ぶだろう。それなのに、お前はそれをしまいこんだ。それは、本人の意思で使いたくないものであるか、もしくは使えば、副作用でもあるのか、それとも…最大の弱点だったり…なんてな」
確信のこもった声とともに男の腕の中に引き寄せられた。
あまりに力強い腕。
まだ、翼が掴まれている。
これでは、収納ができない。
息の詰まるような、痛みと共に、不安が胸をよぎる。
ここから抜け出す手段が…ない。
すごい力だった。
これも吸血型ってやつの力なのか。
それとも…?
「まあ、いい。とりあえず…こうしてみればすぐにわかるだろ」
それから、すぐに、
ブチッ…
嫌な音。
しかし、そんなものに意識を向けることなどできなかった。
「う、ぎゃああああああああああ!!!」
身を貫くは、生きてきた中で感じ得なかったほどの衝撃、苦痛。
神経という神経が一つも余さず痛覚を訴えている。
身体がガクガク震え、目の前が真っ白になる。
そうなったかと思うと、すぐさま新たな痛覚に意識を呼び覚まされる。
身体中の血という血が背中へ、翼の断面へ注がれていた。
断面?
そう、断面…翼が…もぎ取られていた。
「いいねえ。久しぶりに聞いたよ。そんな生々しくて悲痛な叫び声。しかし、まあ、断末魔にはまだまだ足りないな」
狂ってやがる。
本当に…ああ、しかし、あの男のあの速さはなんだ?
常人とか超人とかとうに越しちまってる。
この力を借りてさえも手の届かない場所にいるような怪物が、世の中にはまだいたというのか?
そんなことを考えた時、ふわっと身体が急に軽くなったような感覚があった。
それから、ひどく憤った声が頭を内側から叩く。
なにを人のせいにしている。お主がまだ我の力を使いこなせていないだけだ。その上、勝手に絶望などするな。これから、もっと容赦ない怪物と渡り合うことになるのだぞ。
は、はい。
そのあまりの怒り具合に俺は思わず敬語を使っていた。
それはもう…顔が真っ赤というか、全身から赤いオーラが…って、あれ?
なぜ、俺は英雄と対峙している?
というか、そもそも俺は翼をもがれて…ああ、思いだしただけでいたい、いたい、いたい。
だが、思い出しただけでとはどういうことだ?
もしかして俺はあのまま…一思いに殺されて?
ああ、なるほど、だからトランスで魂だけ呼び寄せてあったロイ・ハワードと対峙していられるわけか。
そういえば、背景も真っ白だし、うん、ここはきっといわゆる…天国って奴かあ…俺もついに死…って、えええええええええええ!!!???
まてまてまて、うるさい奴だな、お主は。我の声が聞こえなかったか?絶望するなと言ったではないか。
へ?………あ、ああ、そんなこともありましたっけ。
ふむ、わかれば良い。して、お主が天国だとか言ったここはいわゆる中間世界だ。死後の世界と現世の境目なのだよ。
え、じゃあ、俺は死んだんじゃなくて、死にかけてる…と?
いや、そうじゃない。
じゃあ、ここへは一体どうやって?
そうだな、まず、お主の力について補足が必要だな。
その、トランスはなにも、我ら霊魂とその力をその身に宿すだけのことを指すのではない。いわゆる、霊魂と干渉を可能とする力のことをいうのだ。
?そうなると、どうなるわけで?
つまり、お主は、可能な限りの霊魂と会話することも、力を借りることもできるようになったということだ。
なった?
そう、文献上ではそう記されていたのを見たことがあってな。
今はこの世に存在しないものだよ。以前、あれはもう五十年も昔の話になるかな。マドゥの城下町の古本屋で見つけたのだが…。
昔話はいい。
それで?
ああ、まあ、簡潔にいうと、お主はよほど才能があるのか知らんが、トランスという能力の第二段階までこられたということだ。第一段階はその身に霊魂を一つ引き入れることを可能にした状態。そして、第二段階はこの中間世界を作り出し、霊との交信を行える状態を指す。
え、じゃあ、俺はテレポートでもしたんですか?そんなことが可能なら…
残念だがそう、甘くないのが世の中の常だ。ここはあくまでお主の意識の中で作られた、霊魂の仮宿だ。現世のお主は今もなぶられている。
うわあ…そ、それってつまり…。
大丈夫だ戻った瞬間にこちらから干渉してやる。今みたいにな。
今みたいに?それに干渉するって一体?
なぜかはわからんが、過去にあったように、我にはお主を使役する権利があるらしいのだ。それで、お主に与えられた我の力を我自身の意思で使用することも可能となっている。
過去にあったって、どういうことです?
あの、学校でのことだ。もう、一ヶ月は前の話になるがな…。
一ヶ月前…学校…スノウ・ラクサーヌ、ロイ・ハワード…トランス…使役。
キーワードだけが浮かんでいた。
だが、それら自体の意味はわからない。
ただ、大切だということだけ…。
わからない、わからない、俺は何かを見落としてるんじゃないのか?
まあ、いい。とにかく、落ち着け。とりあえず、今回はこちらから力を貸しておくが、次はないと思っておけ。いいな?
は、はあ…。
そうして俺は、突き落とされるようにその意識の園から振り落とされた。
気がつくと、男の姿は目の前になかった。
翼の痛みもすっかりなくなっていた。
一応、背中を撫で回して見たところ、存在が確認できたので、安心していいだろう。
気を張っていたのか、急に力が抜けて、無意識に座り込んでいた。
「なんとか…なったのか…」
ホッと胸を撫で下ろす。
そんな時、目に入った影。
ああ、なるほどね。
逃がしてはくれたけど、このくらい自分の手で終わらせなさいよっていうあれか。
頭がひどく冷静になっていた。
今なら、昔読んだ怖い昔話にも動揺しないような気が…昔読んだ?それってどういう?
「なにが、なんとかなったのか?」
男の声。
状況はイマイチつかみきれていないが、男はやはり健在らしい。
その声色もさして、俺が中間世界とやらに行く前と変わらないし。
そうだな。
もう、迷ってちゃいけない。
俺はこの力を使いこなす。
そして、一刻も早く、戦争を終わらせる。
「悪いな、ここからが本気モードだ」
口がほころぶ。
自然にこぼれた笑みは何を意味するのか自分でもわからない。
でも、きっと、人は自由が好きなのだ。
あれもダメ、これもダメではなく、のびのびと、自由に、与えられた力を発揮したいものなのだと思う。
「そうか。まあ、いい。これで出し惜しみなしと行こうか」
男が駆けてくる。
今度はもう、見誤ったりしない。
そして、むしろ、避けたりこちらから動く必要はない。
こちらの間合いに引き入れ、一気にかたをつける。
それは、ほんの数秒の出来事だった。
男は瞬く間に俺の間合いまで入り込み、電光石火を体現する速さと勢いで、あの血で黒ずんだ悪魔のような指先を突き出してくる。
俺はそれをすんでのところでかわす。
「なっ…⁉…まだだっ!」
一瞬の驚愕、だが、すぐに立て直し、もう一撃。
しかし、その時点でもう、俺は見切ってしまった。
どうやら、この紫電の鎧は反応速度まであげてしまうようだった。
男の突きがどこからどうきても、綺麗に交わすことができる。
ほんの数ミリ横へ流すだけで、それはかすりすらしなかった。
自分の鮮やかな動きに、俺は驚いていた。
これが、英雄の力か…。
戦いの中で考え事など、危険だとか異常だとか言うのはわかるが、本当にそれだけの余裕ができてしまうのだ。
もはや、物足りなささえ感じる。
でも、しょせんこれは俺の力じゃないんだ…。
借り物をひけらかしているだけに過ぎないのだ。
そう思った瞬間、思ってしまった瞬間、少しだけ隙ができてしまった。
男の指が、俺の首元をかすめる。
「っ⁉」
それから、勝ち誇ったような顔と声。
「ふん、防戦一方かと思ったが、ついに集中力を切らしたか」
そうして、少しの動揺と痛みに揺れた俺の体の中央に、男の突きが迫ってくる。
終わる。
このままでは俺の人生が終わってしまう。
そんなことを考えた。
さっきまでの余裕はどこへ行った?
笑えるな。
たくさんの自分の声。
そして、なぜかその中に一つ、小声で、でもしっかりとつぶやかれた声が耳にまとわりついた。
スノウ・ラクサーヌっ!
誰かの名前か。
わからない。
でも、ここで死んでしまってはいけない。
そんな気が一気にました。
なぜ、こんな男なんかに、俺が、俺が、俺が、殺されなければならない?
俺が生きていた方がずっと…
思いっきり、やっちまえよ。
嫌な声がした。
自分の声じゃないみたいにしゃがれて、ねじ曲がったような声。
でも、今だけは俺も賛成だった。
それに、忘れていた。
一発かすったくらいでなんだ。
これまで散々受け止めたではないか。
今になって、何を気にしてる?
迫っていた男の手を横からひっつかんだ。
力のこもった手のひらで男の手首を締め上げる。
そして、ただ目を見開いている男の溝うちに、硬めた鉄拳を思い切り叩き込んだ。
ズパァーーーン!
すごい音がした。
遅れて、男の声にもならない声が上がる。
「が⁉…はっ!」
腕の至るところでわかる何かが壊れる感触。
望みとはかけ離れた、動機と行動。
その事実を強調していた。
だが、構わず振り切る。
「うおぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
男の身体が、まず、くの字に曲がり、後方へと吹き飛ぶ。
それから数秒間、男は宙を舞った。
数十m後方の壁へとぶち当たり、グシャリピシャリという嫌な音とともに、ズルズルと壁を滑り、地にふした。
そして、痙攣し、動かなくなった。
様々な汚物でいっぱいになった男の姿は、俺のしてしまったことの大きさを表しているようにみえた。
「見ろ、お前はこんなにひどいことをしたんだ、本当の悪人は誰だと思う?お前だよ。この、偽善者が」
そんな声が今にも男の口から漏れ出す、そんな気がしていた。
俺は…俺は…なんてことを…。
動かなくなった男の身体から、目が離せない。
この人殺し。
お前がやったんだ。
お前が悪いんだ。
全部お前が…。
どうせやるなら初めから思い切りやれば良かったのに。
偽善者、偽善者偽善者、偽善者偽善者。
頭が壊れそうだった。
精神のたがが外れかけ、目の前が真っ白になる。
そして、俺は壊れ…
その時、英雄が声をあげる。
ふん、ずいぶん派手な演出だが、まあ、合格点と言うところだな。
「だって、俺…」
人殺しになったって?なんだ、自分のしたことにもっと自信を持て。
「はい?」
だから、お主の思い過ごしだ。奴は生きてる。すんでのところでお前の抑制がかかっていたからな。あとすこしでも解放していたら、まずかったかもしれないが、うまくやったな。
「ど、どうも…って、でも、俺は思い切りやったつもりで…」
自分の男を殴りつけた方の腕を見る。
あの感触。
だが、それよりも、酔っているようなあの時の自分の心の方がよほど嫌だった。
無意識に抑えていたんだろうさ。それに、思いつめるな。お主はその衝動に負けた自分しか見れなかっただけであって、意識の底にはそれに打ち勝ったものもいたということだ。心はそう簡単に自己主管できるものでもなく、だからこそ、勝手に心の動きを測定することもできないのだからな。だから、結果を見ろ。お主は勝ったのだよ。あの男にも、自分の暴力衝動にもな。
「でも、借り物の力だし…」
おいおい、わかっていないな。その紫電の鎧はいくらトランスの作用が働いたとしても、並のものでは扱うことは不可能なものなのだぞ?
「は、はあ…」
いいか、借り物などと考えるな。それはお主の力だ。お主の意思で使役し、お主の実力で勝利した。それが結果だ。わかったか?
「………はい」
流れで頷くしかなかったが、それでいいのかはまだわからない。でも、俺は殺さなかった。結果としては万々歳だ。
わかったなら先を急げ。さっきから、嫌な予感がする。
「霊魂に予感なんてあるのか?」
気が軽くなったのか、自然とでてきた軽口。
でも、帰ってきたのはひどく真面目なものだった。
ある。おそらく、生きていた時よりずっと正確なのがな。
俺はその波動を受け、気を引きしめて先へ続く通路に向き直る。
天井にぶら下がった大量の鎖、滴り落ちる新旧バラバラの血液、そして、立ち並ぶ、大罪人の檻のむれ。
それらすべてが改めて、前向きな気分を侵害してくる。
この先に一体何があるというのか?
わからない。
恐い
恐い
恐い
だけど、何が待っていたとしても目的は変わらない。
さあ、行こうか。
彼の声。
「そうだな、あと一息だ」
俺の声。
踏み出した一歩は軽いようで重たい。
いろんなものが乗りかかっているから。
でも、きっと、なんとかして見せる。
そんな前向きな気分を持ち続けることだけはうまくいった。
その時の俺はまさか、そんなことが起こり得ているとは思いもしなかった。
ただ、まっすぐ求めていれば、いつかはたどり着けると思っていた。
道には障害や落とし穴がたくさんあって、そもそもゴールすら幻かもしれないのに、俺はどこかで信じ切っていたのだ。
最後には必ずうまくいく、と。




