64死にかけの心
いつからか、夕日が差し込んでいた。
ここはフィールドオブグレースの中央、言わば戦火の真っ只中だ。
場所が場所であるため、不穏な空気は抜け切れない…はずだが、不思議と彼の周りには平穏と呼べるほどの静けさがある。
赤みがかったオレンジ色の光が彼の眼前に広がる情景をよりさみしいものにしていた。
突き立てられた剣の群れ。
転がった鎧や兜の山。
それらを彩る妙に鮮やかな赤色。
そして、遺体による死の山。
五十年前も、我々はこのような光景を作り出したのだろうか、とアランはふと考えた。
ここで日を浴びるもの達のうち、一体どれだけのものがこの温かみを感じることができているのだろう。
なくした片腕を探すもの、喉が張り裂けんばかりに誰かの名を叫ぶもの、渇ききり震え出した身体を必死に動かし水を求めるもの。
みな、一様にそのような余裕を持てはしない。
しかし、アランにはその余裕があった。
そのコートを染めるは返り血のみ。
その金色の美しい長髪を無数の赤色の斑点が乱雑に染め上げている。
そんな彼の造りものめいた顔からはいつになく表情が抜け落ちていた。
しかし、彼が意識したわけではない。
習慣なのだ。
………人を斬る場にて隙を作ってはならぬ。
それは叩き込まれた、身体の機能なのだった。
彼は飽きずに夕日を眺めながら、何かを確かめるように自らのほおに手を当てた。
そして、彼の求めたものはそこにありはしなかったようだった。
彼は肩を竦め、苦笑した。
ああ…変わってないな。
彼は諦め半分と言った様子で別段嘆くようでもなく、つぶやいた。
いや、それはつぶやくと言うには音量が少々大きすぎた。
それは、対象を必要とした会話の一部でもあったのだ。
しかし、彼の周りに立つものはない。
この半日の間に、死にすぎたのだ。
あまりの死者の数に、両軍、いや、少なくとも人・ハーフ連合軍は進軍をためらっていた。
これ以上はまずいだろう…。
そんな声が聞こえてきそうな状況だとアランは考えた。
しかし、これ以上なんて言葉を使うものではないな、と思い直す。
命は物ではないのだと。
だが、そこで彼は本当にそうなのか、と自問自答する。
断定はできない。
強いものが生き残る。
それは当たり前の摂理ではないか。
強者の前で弱者はただの獲物であり、踏み台であり、糧であるのではないのか。
戦場を眺めながらそんなことをただ、考えた。
見上げると、焼きつくように、目の裏からいつまでも離れない夕日の光は彼の目には少しまぶしかった。
彼は少しばかり顔を引きつらせた。
それでも、何かをそこに求めるように、片手を額にあて、影を作り、そのまま眺め続けた。
それから、それにしても夕日の光には妙な力があるなとアランはまたも苦笑する。
夕日に照らし出された、オレンジや赤を塗りたくられた、ベールの中にある風景を見るだけで、あまりに遠く消えかけた記憶がやけに鮮明に、それも一抹の懐かしさや寂しさを伴って、蘇るのだ。
さすがは『夕』の由来であり、『夕暮れ時』の象徴だといったところか。
アランはその力に任せ、どれくらい昔かもわからない記憶のかけらが頭の中で弾けるのを感じた。
抗うことのできない、不思議な圧力。
しかし、アランはとくにこの力を嫌っているわけではなかった、いやむしろ、力と共にやってくる憂いやら何やらといった感情を楽しみにさえしていた。
そう、彼には感情というものが、ほとんどないのだ。
笑みを心がけて見たり、誰かに突っかかって見たり、奥手な片想いの真似事をして見たり、コーヒーを飲みながらため息をついて見たり、独り言を盛大につぶやいて見たり…人間らしく、いることを心がけた。
そして、他者、それから自己にまでそれを認められることを求めた。
でなければ、存在理由などなくなってしまうから。
人はなぜ生きているのだろう。
と、考えたことがあった。
不意に、恐ろしくなった時があったのだ。
そう、あれはまだ、『感情があった』頃だった。
人の心の見えてしまうという不思議な力があった。
それゆえに、人々から気味悪がられた。
当時の彼は幼く、考えなしだったのだ。
他言しなければ、いくらでも隠し通すことができたであろう力の存在をあえて自分から証明してしまったのだ。
なんと愚かな、とは言うまい。
見えるというのは本当に気味の悪いことなのだ。
他人が口にする言葉。
それはたとえ親でも祖父母でも皆一様に食い違っているのだ。
そう、私が見たのは偽善と本心とが重なり合ってできた、最悪の信号。
「かわいそうだが、うちにはもう、あの子を育てる力はないよ…」
『育て甲斐ののない子だ、せっかく、衣食住を与えてきたというのに精神に異常があっただと…いらん。どこぞの山にでも捨て置いてこよう』
言葉の影に張り付いた、もう一つの信号。
それは、見るものを当惑させるほどに恐ろしく、どす黒い。
「やめ…ろ…やめてくれ…」
アランはうめいていた。
胸を抑え、仲間が死んだ時にもさして動きはしなかった顔を真っ青にしてその場にしゃがみこんだ。
ガラッと足元で鎧の群れが音をあげた。
だが、アランの耳に聞こえるのはたった一つ。
知ってしまった本性と薄っぺらい言葉の混合物だけだった。
と同時に、弱った彼の頭の中にとうの昔にシャットアウトしていた、他者の心も入り込んでくる。
『み…水を…誰かあっ!誰かいないのかよぉ…水、み、み、み…み、ず…を…』
『お、俺の…片腕がぁ…剣も盾も…ああ…これじゃなんもできねえじゃねえか…まだ、敵討ちも…し、て…ガハアっ⁉』
『はん、どこに行きやがったかと思えば、こんなところに。やっと、やっとだぞ、やっとお前のとってやったぞぉぉぉおぉ‼』
「はぁはぁ…や、やめろ…やめてくれ…」
アランは食い込むほど強く頭を手で抑え、弱々しく叫ぶ。
「いつもありがとうね…小さいのに偉いわねえ」
『ったく、この子は、いつまでたっても他の子の半分も働けないのね…ああ、使えない』
「いいか、アラン。偉くなりたければ、もっと働くこと。これに限る。いいか、そうやって俺ものし上がってきたのさ」
『我ながら悪だよなあ…奴隷なんかに偉くなるもなにもねえのによ…のし上がった?周りを蹴落としただけだ。全く、世の中どうなってやがる』
「ありがとう。俺、お前のこと、大好きだ」
『扱いやすくて助かるぜ、ほら、次も手伝ってくれよ?仕事』
「ねえねえ、アラン君。これ、教えてもらえない?私じゃいつまでたってもわかんなくて」
『ふふっ、これでアラン君と会話の機会増えるわね。ああ、それにしても、いい男…』
「ねえ、大丈夫?顔色悪いよ?そこでちょっと休んでなよ」
『早く休みなさいよ。サボったやつ報告したら、夕食の量増やしてもらえる約束なんだから』
「あ…あ…もう、もう、いいだろう…」
彼は苦しさのあまり目をぎゅうっと閉じた。
もう、なにもみるまい、という強い意志が生産されていた。
だが、目を閉じただけで逃れられるのなら苦労はない。
実際、彼には見えるだけではない。
聞こえるのだ。
そしてなにより、この呪詛は彼の内側から染み出してくる毒なのだ。
逃れようにも、すぐさま捨ててしまおうにも、彼の一部なのであった。
それも、ひどく根の深い、一部だ。
「ああ、ああ、よく帰ってきたねえ。あの嵐の中で…。さぞや寒かったろう。ささ、中に入りなさい。あったかいスープがあるぞ」
『ふざけるな!わざわざ嵐の夜に、それも足場の悪い崖に送り込んでやったのに…どうして五体満足に帰ってこられるのだ?ありえん。この、小気味の悪い、怪物がっ!』
人々にはコインみたいに裏と表がある。
ただし、そこには色があるのだ。
コインとは違う、真っ白な面と真っ黒な面。
それを、人々はうまい具合に使い分けている。
あるときは表だけを、ある時は裏返したまま。
またある時は、そのどちらともつかない角度で他の人々へと対応する。
人々は他人の表の面を見ている時、親切だとかいい人だとかを感じ、他人が裏っ返しの方を見せている時は意地悪だとか悪人だと感じるのだ。
そして、うまくそのどちらともつかない角度を保っている人を見ると、ああ、芯の通った人だとかしっかりしていると称するのだ。
みな、一様に知らない。
そのどちらが本質なのかを。
また、皆がみな、他人や自分を理解できていると錯覚している。
他人の本質なんて、そもそも自らの本質すら、わかるわけがないのだ。
いい人、悪い人、中ぐらいな人の三種類に人を分けられるはずなど、あるわけがない。
どんなにいい人だって目の前で肉親を殺されれば、復讐の念を抱くだろう。
どれだけ悪い人だからって、生まれながらに悪に染まっている訳もない。
人は、環境によって、親によって、決まるのだ。
それも、いい人、悪い人なんてそんな言葉では言い尽くせない複雑な心情を抱えて生きているのだ。
見てきたから、彼にはわかる。
だから、彼は一様に人々を責められないことも、悪い人などいないことはわかっていた、だが、わかっていても、許せないことはある。
体に受けた傷ならいい。
しかし、心の傷は治らないのだ。
現にこうして彼は苦しんでいた。
人間不信、軽薄になった感情、そして、蘇る記憶の痛みに。
「いたい…いたい…いたい、いた、い」
彼はこんなことを求めていたわけではなかった。
一体、誰が戦場のさみしい風景を眺めながら、消えない古傷を思い出したがるだろうか。
彼が求めていたのはもっと違うものだった。
小さい頃の、まだ、何も見えていなかった時の、両親が生きていた時の思い出。
自分の中で唯一、感情があったと言い切れるその時代を、ただ、寂しげな夕日の中に見つけたかっただけなのだった。
それなのに、帰ってきたのは、最も忌むべき呪詛だった。
ただの一つも救いのない、白く塗りたくられた偽物の言葉とオブラートにくるんでもなお滲み出すようなあの黒い本音とのコントラスト。
ああ、記憶よ消えされ、ああ、記憶よ消えされ。
それゆえに、彼が思いついた計画。
それは、『あの者』を利用すること。
そう、今まさに、使命とやらに駆られただ人々のために走っているであろう、青年をうまく利用するのだ。
この呪縛から逃れるために。
いや、人々を本当の意味で解放するために。
しかし、少しばかり気が進まないところもあった。
それはアランがその青年を嫌いではないから。
その理由は単純だった。
彼には裏表がほとんどない、それだけのことだ。
あの、おぞましい言葉のサンドイッチは彼からは作られない。
彼の心は無垢で、純粋だ。
それゆえに、逃げる時も立ち向かう時も彼は本音をぶちまける。
人々が何が何でも隠したいような感情を自分からばらまき、照れ笑いをしながら、それでも前に進んでいく。
そんな彼を嫌いになるものなどいるはずがなかった。
共にいるだけで、清々しい風が体を駆け巡るかのような快感があった。
だからこそ、そんな彼を裏切ることにさしものアランも両親の呵責というものを覚えたのかもしれなかった。
いや、それどころか、そんな彼なら自分の思い描くものよりもさらによい世界へと作り変えることができるのではないか?とさえかんがえていたのかもしれない。
だが、彼の結論は違った。
やはり、彼は過去のしがらみから逃げ出すことはできなかったのだ。
アランはカイへの好意、信頼感、期待感、希望的観測といったすべての気持ちを捨て去って言った。
しかし、カイ。
それじゃあ足りませんよ。
本物の痛みは許す、許さないではありません。
抗い難い痛み、立ち向かうことさえ許されない痛みは人々の理性を簡単に吹き飛ばし、盲目の狂者へと変えてしまう劇薬なのです。
その劇薬の前ではただの一人もまともではいられないのです。
「は…は…ははっ!…はははは…」
人々に裏表なんてあるから、こんなことになったのですよ。
どんっ!、と鎧ばかり転がった足場を強く蹴りつけた。
細かな金属片と少し赤に染まった砂が同時に舞い上がる。
砂はもうもうと舞い上がったまま、少しばかり宙を漂った。
それはさながら、彼の青みがかった瞳にかかり続ける霧のようであった。
晴れることも、吹き飛ばされることもなく、ただ、視界を塞ぎ、彼を言いようもない不安の海に陥れるもの。
しかし、砂はすぐに重力に負け、地に帰る。
彼だって昔は思っていた。
どんな霧も同じようにいつかは晴れ、どんな目隠しも取り払われる時がくると。
でも、いつまで待ってもそんな時はこない。
だったら、迎えに行こう。
自分の手で掴み出すのだ。
霧の晴れたその先を。
砂煙の降り、夕日も地平線の向こうへとかえっていった戦場で、彼は高笑いした。
「あはっ、あはっ…あはははははっ!壊してあげますよ、この世界と一緒に。そんなにこの世界がお好きなら、ですが」
彼は膝を伸ばし、突き立てられた、自らの得物に手を伸ばす。
それから、とうの昔に見えなくなった瞳で夕日の代わりに浮かんだ月を眺めあげる。
戦場というあまりに多くのものが失われ、欠けてしまった場において、皮肉にもこの控えめな光を放つ天体だけはただの一箇所もかけることなく、満たされていた。
夜空からこぼれ落ちた光は哀れな残骸を無表情に照らし出した。
もとより光に感情なんてない。
私の心とおんなじだ。
どこか、欠けている。
他者からは満たされ、完成されているように見えたとしても、その中身まではわからない。
それが、我々という生き物ではないか。
彼の得物の刀身にはべったりとその他者の血がついている。
その持ち主はおそらく、皆死んだ。
アランは得物を振りかぶった。
ヒュンという風を切る音とともに、もうそれらはそこから失われていた。
その程度だ。
と彼は思った。
今の我々にはその程度の価値しかないと。
だが、彼が成そうとしている計画に成功すれば、その価値はぐんと高まるはずだ。
だから、いくら死んだって構わない。
世界を変えるためだ。
むしろ、喜べ。
私はどんな犠牲も厭わない。
例え、それが友だとしても。
相応の代価である。
彼がすっかり汚れの落ちた刀を鞘にしまい込み、顔を前に向けると、一人の女が立っていた。
「あなた、いいわね。すごくいいわよ。その背中の翼」
女が恍惚といった様子で話し出す。
気がつくと、女はアランの背後に立っていて、その背に生えた、小さな翼にふれていた。
「なっ⁉」
アランは驚きを隠せずにいた。
それも、アランは背後をとられたことに驚かされたわけではない。
この距離まで近づいてもなお、女の心が読めていなかったことにあった。
「こんなことが…?」
驚きを隠せないアランの前で女は
「あるのよね。だから、面白いんじゃないのこんな世の中でも」
さして考えるべき話ではないとばかりにヒラヒラと片手を振る。
「…ふぅ…。まあでも、あなたがそんなに気に入らないっていうなら、別に壊しちゃってもいいのよ」
女がベラベラと喋る。
淀みなく、余裕たっぷりに。
まさか、鞘にしまったとはいえ、刀に気づかぬはずもなかろう。
だが、それに怖じけづく様子もなかった。
「でもね、残念。あなた、かぶっちゃったのよ。だから、あなたが勝ったら、私がその望み、叶えてあげる。ただし、あなたが負けたら…そうね。このフィールドオブグレースの灰にでもなってもらおうかしらね」
アランは身体が震え出すのが、わかった。
心が死にかけている彼にでも、身体の方は反応する余地があった。
これは、恐怖だ。
この女の圧倒的な気配に、全身が震え上がっているのだ。
ただの一般人と変わらぬ、紫の布地に赤紫色の花を咲かせた上品な着物に身を包んだ、女。
ただ、その顔の造りだけは形容し難く整っていた。
少なくとも、彼の生きてきた中でここまでの美しい女にであったことはない。
しかし、そのあまりに美しく完成された造形は見るものに畏怖の念や劣等感を否応無く振りまく。
だが、そんなことはどうでも良かった。
ただ、消えかけた感情さえも呼び起こしてしまった、美しい女はアランを一瞬で虜にしてしまったのだ。
これまでただ一人として惚れさせられたことのなかった彼の心をこの女は一瞬にして。
「わ、私の名前は…あ、アランと申します。…あなた…のお、お名前は?」
女の前ではアランも初心な男の子と大差なかった。
口に出そうとした言葉はもどかしく、上手く舌が回らない。
彼はひどく困惑していたが、同時に、とにかく、言葉を連ねなければ女が何処かへ行ってしまうのではないかと焦ってもいた。
「あらあら、まあまあ。私の名前はベティよ。まあ、私は以前からあなたを知っているけれど…あなたからすると初対面なのね」
「ベティさん…とお呼びさせていただいても差し支えございませんでしょうか?」
彼は考えうる中で最も丁寧な言葉を発したが、もはやそれらが正しいかさえわからぬほど心は乱されていた。
あの恐ろしい過去から、なくしてしまっていた激しい感情の炎を持て余しているのかもしれなかった。
「ええ…それにしても、可愛いわね。あなた。まるで昔のネロみたい…あの時はリリアちゃんも一緒だったっけ…まあ、あの子はもう関係ないけれど」
「……ネロ?リリア?」
彼はなぜだか、ネロという名から嫉妬のような、羨望のような変な気分を味わった。
それに、なぜ、ここでリリアという名が出てくるのかわからなかった。
だが、そんな彼に構うことなく、芝居がかった動作を交えながら、女は言葉を続けた。
「もう、そんな目で見ないでちょうだい。どちらにしても、また、会うことになるから。まあ、あなたが勝ったら、だけれど」
それから、女は少しばかり寂しげにアランを見やると、細く艶っぽい白色の腕を天に掲げると、一振り。
気がつくと、もう、そこに女の姿はなかった。
彼はこれまでにない切ない気分に襲われたが、目的だけははっきりしていた。
やはり、『あの者』と自分は争わなくてはならない、と。
「…ベティさん…」
もう一度だけ、立ち去った女の名を口にしてみた。
体験したこともないほどに酸っぱい味が口の中に広がって、思わず彼は顔をしかめた。
ああ、生きている。
私はここに存在している。
彼はようやく取り戻すことができたのだ。
心を。
あの女が何者なのか?
なにゆえ、彼を圧倒することかできたのか?
そんなことは関係ない。
アランは…女を、誰よりも何よりも、愛するだろう。
その美貌ゆえでもなんでもなく、ただ、女を愛するだろう。
それは、彼の理想、彼の考えからは離反した感情かもしれない。
しかし、彼の瞳はもうずっと盲目だった。
どこで道順を間違えようと、彼にはそれに気づくことはできない。
そして、これから先も視えることはないだろう。
たとえ、親友を殺してしまったとしても。
たとえ、かつての仲間を裏切ることになったとしても。
風が吹いた。
それは、しかして、自然のものではなかった。
勢いよくアランの金髪を揺らしたそれは敵軍の到来を告げるものだった。
彼は渋い顔のまま、そちらへ物怖じもせず、視線を向けた。
「一、十…百…千…」
もう何分も前から気づいていた気配に具体的な数字を振るのはやめた。
「滅入りますね。邪魔者とはいえ、たかが命とは言えませんからっ!」
彼は駆け出した。
一度かけ出した彼を止めることのできるものなどいない。
彼は的確に、敵の意表をつき、最も確実な方法でとどめをさす。
もう、すでに彼の表情という表情は抜け落ちてしまっていた。
「一つ」
「二つ」
「三つ」
前から順に切り崩し、隊列が乱れた中央へ飛び込む。
視覚的、聴覚的に理解した安全圏を確保すると、その長い長い刀を敵の恐れの及ばぬ間合いから切り上げる。
「十四っ!」
血の雨が降り注ぐ。
彼の刃は簡単に鎧を飛び越え、敵の身体を両断する。
彼は非力なわけではないが、そのような真似は普通にはできない。
それは『夕』により可能になる。
彼の夕の一つ、『通り抜け』
自らの意志によって判断したものの存在をほんの数秒だけ物理的に無視することができるのだ。
それゆえ、彼は敵の身体を貫いている間、敵の鎧と骨を断つことなく柔らかな部位だけをすっぱりさっぱりと切りとれる。
もちろん、この作業にはそれなりの精神集中およびある程度の膂力が必要ではあるが、敵からすれば残念なお知らせと言うべきか、彼にはそれらすべてが備わっている。
そのためだけに日頃から身体を鍛えこんできたのだ。
生き残るために。
ゆえに、現時点で彼は最強だ。
心の読み取れる範囲の外から飛び道具でとどめでも刺されない限り、または彼の体力及びコンディションが崩れない限り、彼を討てるものはない。
「残念ですね」
一振り。
すぱっ。
敵の身体が宙を舞う。
間っぷたつやらなにやらにされないため、鎧を着たままそのままで彼らは生き絶える。
「弱肉強食の世界ですから」
もうふた振り。
ぎゃあああ。
敵の悲鳴。
だが、すぐに終わる。
安楽死ではないが、彼にだって情けはある…いや、ただの流儀か?
数秒後、敵の隊、約二百は完全に崩壊。
うち、死傷者五十人。
経ったの数秒でそれだけの数が死んだ。
「ああ、悲しきかな」
まだ、感情の抜け落ちた能面のような顔のまま、彼の口だけが機械的に動いた。
そこには到底嘆きの色などみて取れはしない。
いや、むしろ、喜びの色が浮かんでいるかのようにさえ見えてしまう。
ああ、おそろしきかな。
「カイ。早く会いにきてください。楽しみでなりませんよ」
ようやく戦闘モードの解かれた彼の口元に表情が戻ってくる。
ゆがんだ笑み。
どこまでも曲がりくねったそれは、見たものをぞっとさせる何かがあった。
彼を何がここまで曲げてしまったのかはわからない。
しかし、わかることは彼をまっすぐにのばす方法などありはしないということだけだ。
皮肉にも、夜空の月は隠れもせず、飽きもせず、欠けもせずに彼を照らしていた。
それはさながら、彼を照らすためにそこにあるようにさえ見えた。
散らばり、逃げ惑う敵軍の中で一人、振り返ったものは、月明かりに照らされたにっくき敵兵である金髪碧眼の男を不覚にもまるで神が天井から舞い降りたかのように見えたと後に語ったという。
「人を殺す神、ですか。面白い発想ですね」
彼は笑った。
そんな彼の人を食ったような笑みは多くのものを脅かし、また魅了したという。




