55甘すぎなくて、苦すぎない
「で、作戦の実行日時はどうなった?」
オール・ブラッドリーはたいそうご機嫌斜めだった。
それもそのはず、これまでの一連の出来事の全てが、彼の気分をぶち壊しにするのには十分すぎる威力を持っていたのだから。
「そう、カリカリしないでくださいよ。それに、せっかく帰ってきた弟に向かっておかえりの一つも言えないんですか」
とパーツ・ブラッドリーは言う。
「ここは自室であり、同時に職場でもある。職場では僕とお前は兄弟じゃない。同僚だ」
「釣れないですね~、でも、今回は本当に危なかったんですよ?彼ら、人の基準じゃはかれないような力を持ってましたし、それに、なんか降りたところがちょうど、変なコロシアムみたいなところで…」
と、ここでパーツの声は遮られた。
オールがまるで裁判官のように、自分の部屋の黒塗りの机をどん、と叩いたのだ。
それが合図であったかのように、口を開く。
「お前の口から出てきた言葉をそのまま信用することはできない。それに、そのような余談はいらない。さっさと答えろ」
重く、響く。
とてもではないが、血を分けた弟に対しての適切な語気だとは思えなかった。
それは、赤の他人の空言への、疑りの調子に近い。
もう、パーツはオールの信頼を失ってしまっていたのだ。
それを水に流すために、あえて予定を詰めて、行ってきた活動もどうやらそれ程の効果を生み出せなかったらしい。
黒づくしの空間、オール自室に、嫌な空気と緊張感が否応なく広がる。
それは、大きな雨雲みたいに、部屋全体を暗くした。
もともと、暗いのがデフォルトの部屋が、さらに暗闇へと近づいていた。
しかし、こんな空気の中でも、平然と我を通せるのがパーツ・ブラッドリーという男の性状だった。
「では、報告の意味もないじゃないですか。あなたが決めればよろしいかと」
「馬鹿な、決めればではない。決まったものを尋ねているのだ。見てのとおり、調子が思わしくないからな」
「いえ、ですから、信用できないものから聴いても、きっとまたややこしいことになりますよ?ええ、本当に」
とパーツ。
オールは軽く舌打ちをしてから、少しだけ顔をうつむかせた。
それから、言いづらそうにもごもごと口を動かす。
「…親愛なる弟よ、ぜひとも…その意見を聞かせてくれまいか……」
「ふふ、仕方ないですね。そこまでいうなら、お教えしますよ、兄さん」
また一つ、部屋にチッという鋭い舌打ちの音が響いた。
「早く、言え。どうなった?」
「いえね、やはり、いろいろと準備やら何やらで一ヶ月と」
「まあ、妥当だろうな…。それで、それによって発生するメリットとデメリットは?」
オールは机に身を乗り出す。
ようやく本題に入れたと言ったところだろうか。
パーツはひとしきり、考え込んだあと口をひらく。
「まず、メリットですが、まあ準備期間が増えたというわけですから、彼らもこちらも確実に戦力としての力が上がってきます」
「ふむ」
「しかし、逆にデメリットというのもこれまた大きい。まず、奇襲作戦の情報が漏れる可能性が上がります。その上、彼らの考えが変わる可能性もあります。人もハーフも、変わらずに心変わりはあるでしょうし」
と、ここでパーツは大きく伸びをしてから、まあ全部決まった話ですがね、と加えた。
そう、これはもう全て決まったものだ。
いくら掘り返そうが、何をしようが、決まったその決め事は変わらない。
なぜなら、それは『誓い』によって破ることのできぬものとなったのだから。
「一ヶ月で人は化けるか?」
「わかりませんね。ハーフ…彼らは近くて遠い存在です。なにせ、半分は謎に包まれてますからね」
「ああ、確かにな。魔人…か。我々は文献上でしか、奴らを理解できていない」
「背に黒翼を生やした者たち。空を制したがゆえに、我らと相対することになった者たち。その手に破壊を携えていたと言われる彼らが、一体どんな文明を築いていることやら」
「そうなると、やはり、彼は殺すべきではなかった。完全にお前のミスだぞ、あれは。おかげでほとんどの計画が台無しだ」
「よしてください。もともと、兄さんたち最高議会に計画と呼べるものなんて、一つもなかったじゃありませんか」
「まあ、な。我々も保守的になりすぎているのかもしれない。しかし、どちらにせよ、あれはミスだ」
「…はぁ…。ああもうわかりましたよ…。確かにそうです。あれは私のミスでした!これでいいですか?」
パーツは両腕を天井へ向けてまっすぐに伸ばした。
お手上げ、とばかりに。
「わかればよろしい…とは言えないが、もうあんなことはするな。確かにお前が言うように、戦争を考えれば僕は甘すぎるかもしれない。だが、だからといって、実の弟が人道を外れるのを見たくはないからな」
「ねえ、兄さん…」
「今は最高議長代理だ!」
「じゃあ、最高議長…」
「代理だ!」
「あのですね、最高議長代理閣下。もしや、良く、人からお堅いとか、くそ真面目とか、面倒臭いやつだとか言われませんか?」
「ない。それに、閣下はやめろ」
「じゃあ、僕が皆の気持ちを代弁しますよ。本当に堅いですね~。そんなんだから女にも逃げられるんですよ~。全く!」
「女に逃げられたことなどない」
オールはただでさえ悪かった機嫌をいい具合に改めて塗り直した。
「付き合ったことも…?」
「ない!…って、おいこら!なんてこと言わせやがる!」
「あ、最高議長代理閣下、言葉遣い、言葉遣いが大変なことに…」
「おお、すまん…じゃない!それに、閣下でもなぁい!」
「最高議長代理殿~」
「別に閣下じゃなければいいってんじゃないぞ!」
気がつくと、オールは体の調子も忘れ、身をさらに乗り出してパーツの襟元に掴みかかっていた。
その顔は、先ほどまでの不機嫌さも合間って青白くどこか病弱な雰囲気すら感じさせるものとは一変、真っ赤に燃え上がっている。
「まあまあ、そう閣下しないで、閣下、閣下!」
「…ぐぅ、お前、最高議員から引きずり下ろしてやる!」
「いいですよ~、困るのは閣下最高議長代理殿ですから~」
「ふぬぅ…」
オールは獣のように唸る。
すると、やはりまだ身体が思わしくないのか、その低音と共に、ひゅうひゅうと風穴のあいたような音が鳴った。
「ほら、兄さん。もう寝た方がいいですよ」
パーツは突然に、その口調を柔らかくする。
それは聞くものの耳にとろけ、そのままその一部となってしまいそうなほどに、甘やか。
パーツのまっすぐとオールを見すえたその瞳はその稀有な白と緑が放つミステリアスな雰囲気よりももっと別なものが働いているように見えた。
造りものめいた顔には、慈愛とも呼べる表情が浮かび上がる。
誰もがみな、うっとりと見つめてしまう、そんな表情だ。
パーツは、襟元をつかむオールの手を、そっとのけると、少しだけ力を込めてその身体を押した。
オールは突然のことで、対応ができなかったのか、ぼすんという音と共に、吸い込まれるように、自らの座っていた椅子へと落ちた。
椅子が深くなければ、結構な衝撃だったろう。
オールは受け身どころか、重心の移動すらままなっていなかったのだ。
それから、状況をつかむのに数秒、ぐらつく頭を抑えるのに数十秒の時間をたっぷりと必要とした。
そして、ようやく落ち着いたオールの耳元に誰かの吐息の振動が伝わる。
それは、スースーとまるで誰かの安眠の副作用のようにしずかな寝息のようにも思えるものだった。
しかし、この部屋に寝息が存在しないことくらいはすぐに読み取れたものの、今のオールには身構えることすらできなかった。
それだけ、弱っていたのだ。
オールは今更になって、額に当てたままの手の甲に伝わる熱の温度に気がついた。
「………熱い…」
口から漏れた言葉はかすれ、ひゅうひゅうという喉からのノイズにかき消されそうにも思えた。
その時、何か冷たいものがオールの手を押しのけて、その熱くなった額にそっと触れた。
驚くほど優しく、冷たい。
それは、オールにとって、とても心地よいものだった。
今度は、誰かの声がオールの耳元におかれた。
優しく、とろけるように甘い。
「そうです、これは少し熱すぎます。どうか、少しの間でも横になってください」
オールはその響きに、ずっと昔に、初めて、もらった高級なチョコレートを重ねた。
その香りに、そのとろけるような舌触りに、触れた指に溶けたその一部に、甘さが染み付いている。
それは、吸い込むと鼻の奥の方まで痺れるような甘美な香り。
それは、一度舌に載せれば、数秒で溶けてしまうあの舌触り。
それは、溶けたと同時に広がる、言いようもないいい具合の甘さと苦さ。
決して甘すぎず、苦すぎない。
その、病的なまでに研究され尽くした、味わいを、それのもたらす快楽を、口の中だけでなく全身が貪るように求め、食い散らかした。
そして、その全てを舐め尽くし、溶かしつくし、とりこみつくした後に残った、あの余韻に、胸が焦げ付くような思いがした。
それは、これまで食べたチョコレートの概念を覆すものだった。
いや、もしや、これまで食べたチョコレート全てが、実はチョコレートではなかったのかもしれないとも思った。
いや、もしくは、この楽しみを味合わせるためだけの、前菜なのかもしれないとさえ思った。
そんな、魅力を持ったものが、今、耳元にあった。
それは、また、オールの耳に、そのチョコレートのように極上の快楽を与える。
しかし、今のオールにはそれを舐め回すことも、溶かすことも、味わうこともできなかった。
ただ、その響きを聞き、うっとりとその甘さを想像するしかできなかった。
しかし…ああ、なんて甘い。
オールの膝と首に手が入れられ、身体が持ち上げられる。
そして、そのまま、黒色の羽毛ぶとんのめくりあげられた黒色のベットにその身体は横たえられた。
「ほらね、あなたは私なしじゃあ、やっていけないんですよ。絶対に、絶対にね」
パーツのその不可思議な瞳が怪しい光をたたえた。
それから、横たえられたオールの上半身にすっぽりと羽毛ぶとんを肩まで引っ張りあげてやると、続ける。
「おやすみ、兄さん」
「ああ、もう一つ…お爺様…もう一つだけ…」
オールのうなされるような、悲痛な叫びとも言えるほどの強い願い事は叶う当てもなく、黒ずくめの部屋を舞った。
迷子になった声。
羽の生えた言葉たち。
それは、一点に収まり、あたかもそのためにあったかのように、その奥へと潜り込んでいく。
そして、その先の見えない、暗く深い、深海のような底までたどり着いた時、それはやがて返ってくる。
全く違う形で、叶えられるのだ。
「仕方ないですね。あと一つだけですよ」
ああ、なんて甘く熱い…。
ふっ。
パーツはオールの耳元に、優しく柔らかく熱く息を吹きかけた。
いや、それは吹きかけたという表現ではうまく表しきれていないかもしれない。
それは、その耳元にまとわりつくように、優しく包み込むように残り続け、オールのその願いを、甘くとろけるように、叶えるのだ。
もちろん、ほどよい苦味も効かせながら。




