54変化
なんだよ…これ…?
カイは言葉を失った。
目の前に広がる、異質な風景に…。
本の中でしかあり得なかったような光景がそこにあった。
地図などなくともだいたいの商店や施設ならどこでもたどり着けるようにまで慣れ親しんだ、故郷は…カイの目の前でレンガと木材の山とかしていた。
目についた、看板があった。
肉屋だ。
買い物に行くと、「内緒だよ」とメンチカツを一切れくれた、店長のおばさんの顔が浮かんだ。
人の良い笑顔をとても自然に浮かべていたその幅の広い顔はいつも汗でテカテカと光っていた。
その看板が墓標のように、その下のがれきがまるで昔の土饅頭のように見えた。
カイはそこで思考をやめ、顔を背けた。
見つけてしまったのだ。
それを。
それは、血の気を等に失い、おそらく固くなっているのだろう。
もう、すっかり変色してしまっていた。
救助が追いつかなかったのだろうか?
それは、右腕だった。
そのすぐ近くに、左腕もあった。
そして、何かが、大切な何かが抜き取られてしまった胴体が転がっていた。
カイの頭の中でそれらが、組み合わさり、ブロック内を動き回る姿が浮かぶ。
カイの頭の中をぐるぐると回る、回る、回る。
もう、失われてしまったものだ。
もう、息をすることのできないものだ。
もう、声を聞くことのできないものだ。
カイの頭の中で追い討ちをかけるように、アランの声が響く。
被害者のほとんどが死傷者に。
被害者=死傷者
公式がある。
あまりに簡潔で、誰が見ても明らかな等。
拭い去れない死のにおい。
可能性は五分五分のはずの、死の影は、なぜか強く映る。
死という言葉の重みが、働いているせいだ。
あまりに日常的でない、その響き、人を不安にさせるそのにおい。
近すぎた。
本当はいつだって近かったその響きが近くて近くて、怖くて怖くてしょうがない。
だが、なにより、怖いのは、自分の精神だとカイは考えた。
だって、そうではないだろうか?
こんな光景を見て、馴染みのあるものの無残な死を見て、どうして涙一つでてこないのだろう?
どうして…?
「どうして…?」
それは、何時の間にか零れ落ちた、理性の一粒。
「カイ、こんなことって…」
スノウは泣いている。
悲しみにくれている。
でも、確かスノウはこっちの方面に住んでいなかったのではなかったか、とカイは考えた。
冷静な頭で。
それが辛かった。
もっと、何かが動くと思った。
たとえ、血のつながりがなくたって、あんまり話したことのない人だって、人族だからって、死んでしまったら、悲しいと思ってた。
でも、違ったのだ。
冷酷だ、涙もでず、薄情だ、まっすぐ向き合うことすらしない。
ただ、『死んだ人間を見たくないだけなのだ、気味の悪いだけなのだ』
心が、疼いていた。
何かの予感にうめいていた。
きっと、その何かを知りたくてたまらないのだ。
だから、だから…。
カイの思考は止まらない。
収まらない自己嫌悪の念と、目と鼻の先で具現化された悪夢とが混じり合い、反発しあう。
その繰り返しだった。
「………」
カイは黙り込む。
他の動作は一切しなかった。
ただ、どうしていいかわからなかったのかもしれなかった。
とん、と肩に温かな重みが加わった。
何かを語っている。
でも、今のカイには読み取ることができなかったようだった。
カイは首を振る。
手を置いたものは、口を開く。
「カイ…誰しも、そういうものです。わかってしまうのです。失えば、嫌でもわかってしまうのです」
慰めの言葉ではない。
それは、まるで自分に言い聞かせるような口調のものだ。
語尾が震え、言葉が揺れる。
その意味を、カイはどれほど理解できたのだろう。
カイは唐突に歩き出した。
うつむいたまま、何かを追い求めるように歩く。
なにもない虚空に手を延ばしたまま、足はやがて走り出し、体は左右に揺れ出す。
記憶が音もなく蘇る。
「ねえ、おじいちゃん、どうして目を覚まさないの?」
十年も前、カイは尋ねた。
なにも知らないまま、ずっと若かった母に、まだ幼い声で、首を傾げながら。
母は困った顔をして、言ったのだ。
その端正な顔の目元は、赤く腫れ上がっていた。
「もうね、おじいちゃんは遠いところに行ったのよ」
震える声で、まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
「遠いところって、どこに?いつ帰ってくるの?」
なにも知らないカイは母の胸に空いた穴を、刃物のように磨かれたスコップで、グイグイと押し広げる。
母は苦しそうに、さみしそうに、顔を歪めて、なんとかそれらを押し込めようとしながら、言ったのだ。
「わからないわ、でもね、それは本当に遠いところなの。だから、もう、帰ってはこられないのよ」
と。
「えぇ…おじいちゃん、帰ってこないなんて…やだよぉ~」
カイは泣き出した。
遠いところへ行ってしまったおじいちゃんのためか、もらえなくなるであろう、小遣いのためか、それとも、母の悲しみを感じ取ったためか。
でも、それがきっと、カイが知った、初めての人の死だ。
その時、カイが知ったのは、なんとも形容し難い、死のにおい、そして、遺されたものの息苦しさと痛みだった。
今のカイには、それがさらに強く、より深く感じ取れた。
あの夢のせいかもしれなかった、あの父のセリフかもしれなかった。
お前は何も知らないのだよ。なにも、なにもな。
カイは走りだす。
住み慣れた、通いなれた道路を。
見なくたって、わかる街路樹の群れが、建物があったはずの、がれきの中を走った。
トラップのような残骸に足をすくわれるたび、冷静な頭が返ってきた。
アランの言葉が蘇る。
「いいですか?地上に出ても、絶対に私のそばから離れないで下さいね?また、捕虜が増えたりしたら、面白くありませんから」
冗談めいた言葉遣い。
でも、どこかその声には真摯な雰囲気があった。
金髪の中にすっぽりと収まった、小さな顔にある薄青色の瞳は何かを語っていた。
カイは今、それを無視している。
それはとても重要なのに、頭ではわかっているのに、それを蹴ったのだ。
頭のどこかで、アランの能力に頼っていた。
心が、のぞかれているのだから、本当にダメなら、必ず止められるはず、ギリギリのところでストッパーになってくれるはずだと思い込んでいたのかもしれなかった。
そんな自分の弱さに自己嫌悪をさらに深くしながら、角を曲がる。
もう、何度目かわからない。
一度目か二度目あたりには聞こえていたスノウの声も、今となっては一言一句聞こえようもなかった。
足がもつれそうになる、元々、運動は得意ではないから、思い切り走ったならすぐに息が上がる。
カイはぜぇぜぇと肩で息をしながら、痛み始めた脇腹を押さえつけながら、それでも、足は止めなかった。
間に合うとか、間に合わないとか、早くつけばつくほどいい結果になるとか、そんなことではなく、ただ、走ったのだ。
無償に、会いたい、とカイは考えた。
何かが、抜け落ちてしまって、その大切さに気がついて、ようやく、それを探しに行く。
でも、抜け落ちてしまうことが、永遠に失うことだなんて、予想だにしていなかった。
「そ、ん…な…」
きっと涙は出なかったのではなかったのだ。
この時のためにとっておかれたのかもしれなかった。
カイの目の前で、死のにおいを濃厚に漂わせた、がれきに沈んだブロックの中の、カイの家があったはずの土地にそれはあった。
見逃しようもなく、目の逸らしようもなかった。
「はぁっ…はぁっ…あ、ああ…あ、あああああ…」
カイが近づく。
それに。
白くツルツルとしたそれはこの廃墟の群れにはふさわしくない、新しさがあった。
そして、同時に、拭い去れないにおいがしたのだ。
鼻に付くでは済まない、鼻を破滅させるほどの、きょうれつなにおい。
それは、鼻の機能だけではない、全ての、本当に全ての、魂を心を身体を脳を揺さぶり、叩き、壊してしまう。
カイはなにものともつかない言葉を唇から否応なくだだ漏れさせながら、息の上がった身体を、自分のものとは思えないほど重くなったように思えた身体を引きずるようにして、それへと近づく。
そして、なかば感覚が麻痺したかのような指で、ゆっくりとなぞった。
『享年、四十一、サラ・ルート』
ありふれた形で刻まれた言葉の群れは、無表情にある事実を伝えた。
悪夢のようで、現実の、非日常なようで、日常の。
「あ、あああ…う、うあ…あ、ああああっ!!」
言葉にならない、されど、言葉以上の感情を含んだ叫びは、故郷に、廃墟の群れに、響く。
失って初めてわかる。
失って初めて気づく。
失って初めて…
「………」
どれほど時間がたっただろう?
どれほど叫んだだろう?
すっかり枯れてしまった喉からはもう、何ものもでてきやしなかった。
気を遣うように、うつむき加減で近づく影が二つ。
アランと、スノウだ。
そして、カイはそちらを見ようともせず、その乾き切った喉を動かして、ようやく、言葉を紡いだ。
「………これ、魔人の襲撃なんだよね」
ひどく、乾いていた。
それは、喉の調子が動向の問題ではない、抑揚も、感情も、まるで雨粒の滴り落ちたスーツのように、何ものも残っていなかった。
その調子が、あまりにも、あまりにも、彼らしくないせいか、怯えたような様子を浮かべた、スノウが震える声で答えた。
「…そ、そう、らしいね…」
カイはまだ、そちらを見ない。
「らしい」
カイは言う。
それから、首を傾げるような動作をした。
それでようやく、スノウは語尾の疑問符を見つけることができた。
そんな中、何もかもお見通しのはずのアランは答えた。
「ええ、確かに、魔人の男が全ての被害を作り出したそうです」
アランの口元に普段の余裕はなかった。
彼だけはわかっていたのだ。
何もかも。
「そうか、そうかぁ…そうかよぉ…魔人、魔人…魔人」
ようやく、振り返るカイ。
その動作は至極普通のものであるはずなのに、アランとスノウにはひどく、ゆっくりと感じられた。
まるで、まぶたの奥に焼け付くように、重要なシーンのように思えた。
振り向いたカイ。
少し伸び気味の黒髪が揺れ、汗ばんだ顔に張り付いた。
それでも、それはまるで芸術品のように美しく、造りものめいたもののように見えた。
その口元は釣りあがっていた。
笑みだ。
ただし、普通の笑みではない…これは…
そんなスノウの観察を遮るように口を開いた、青年は言った。
「ねえ、アランさん、スノウ、俺、やめるよ。もう、こう言うのさ。わかったよ、マジに。もう、いらねえよ」
スノウはすぐに違和感に気がついた。
それは調子だけではない、言葉遣いまでも、狂っていた。
俺、マジ、いらねえよ。
そんな、ありふれた言葉が、妙に目立った。信じられないほど、尖っていた。
そして、そんな彼の目はさらに異様だった。
その黒いはずの瞳が、淀んでいた。
何色か捉えることすらままならなかった。
そして、青年は吐き捨てた。
「全部、ぶち壊しだ」
それは、あまりにも静かで、それでいて、どんなものよりも鋭く、研ぎ澄まされた響き。
聞いたものの魂を二分してしまうほどの威力と意志の強さが滲み出していた。
そして、金髪碧眼の男と白髪の少女はただ呆然とその『変化』を見ているしかできなかった。
身を裂かれるほどの痛み、苦しみ、悲しみがあたりにまるで突風のように、肌の上からでも感じられるほど強く吹き荒れ、それは、何もかもを飲み込むかのように止まらない、収まらない、弱まらない、衰えない。
あたり一体の死と痛みと血と汗とがれきと木材、廃墟と破壊を揺さぶり、強め、やがて、一つとなった。




