49なりたかったなあ
冷たい風が男の身体の熱を中途半端に奪っていた。少しずつだが、確実に自立を始める地下洞穴の中で。
そこは、地上世界に頼っていた部分を、一本また一本、と着実に切り離して行く。
そんな『夕暮れ時』の洞穴の中央部にさみしい一人の男が立っていた。
彼の影を映し出す光は揺らめくオレンジ。
吊り下げられたランプが風に合わせてゆらゆらと揺れていた。
超自然的な光は時折表情を変え、その度に彼の影もまた姿を変える。
大きく、小さく。
そんな彼の影は独特な暗さを持っていた。
その暗さは、当てられた光が強ければ強いほど、引き立ち、より深く、濃密なものとなっていく。
彼の影。
それは彼の背負った過去と失ったもの達について物語っていた。
そして、それらは『終戦の誓い』と呼ばれるものをつくったことに由来する。
彼はこれまで点々としていた、ハーフの者たちによる組織を一ところに集め、本部を作り、ルールを設けた。
彼の持つ強大な力を持ってすれば、それは難しいことではなかった。
その中で彼は王として祭り上げられた。
ハーフを束ね、ハーフを導く、英雄王、ロイ・ハワードと。
しかし、彼はそんなものに興味があるわけではなかった。
昔から、物欲は少ない方だった彼は、 貧しい家に三人兄弟の長男として生まれた。
そこでは、二人の弟のわがままに振り回されることが日常茶飯事で、それらをならすために自然と自分の欲を押さえつける術を知ることが必要になった。
その術は彼が幼い頃から身につき始め、やがてそれこそが彼の持つ個性となり、そうすることが当たり前になった。
やがて、押さえつけていたはずの欲はいつの間にか虚空に消えて行くようになる。
そのようにして出来上がった無欲の指導者、それがロイ・ハワードという男だった。
それから、彼は続く戦争の中、少しの手違いで突然に家族をみな失ってしまった。
そして、その時、無欲だった彼にはついに唯一の願いが生まれたのだ。
平和だ。
彼はそれだけを求め、組織を作ったのだ。
彼はその性質ゆえにどんなに大変な仕事であろうと、黙って実行した。
身体の隅々まで疲れに支配された時でさえ、居眠り一つしなかった。
どんなに厳しい食糧事情時も、自らの食欲より、身体より、他者の満足を優先した。
それは仲間たちの心を、まるでこの世界の終わりを表す大地震のように、大いに揺るがした。
彼らは感銘し、盲信し、崇めた。
そして、もちろん彼は崇められるにふさわしい男だった。
この男ほどに王にふさわしい人格者は過去に存在したか?
そう問えば、彼らは必ず、
「存在しない」
と答えただろう。
しかし、実際には存在したのだ。
それも、そのほとんどの王が彼よりもずっと王たる人格者であったと言えた。
なぜか。
それは彼に権力欲がなかったからだ。
もちろん、彼は人族からは光の研究者とし知られていたし、ハーフからは王と呼ばれたが、あくまで外的な装飾であって、その権威やなにやらを利用しようとも、誇ろうともしなかった。
ゆえに、地位としては一介のハーフとほとんど変わらないが、絶大な発言力と後方支援を得ることとなった。
そして、その発言力は彼の性質から、いい意味で発動することはないだろうと考えられていた。
だが、過去に一度だけそれは利用された。
それも世界からすればとんでもない悪用と呼べるやり方で。
悪用…それは具体的に言えば、『終戦の誓い』での発言力の使用のことだ。
そうして、その力は世界に通用した。
しかし、いくら彼の持つ権限でも、双方のものすべてにそれらが納得されたわけではない。
とくに、魔人族からは大変な反発を受けることとなり、悪用はすんでのところでうまくはいかなかった。
しかし、彼は戦争を嫌っていたし、いささか焦ってもいた。
だからこそ、自らの研究成果を元に練り上げた術式により、彼はその時点で全人類を滅ぼす力を手に入れていた彼は、手っ取り早く脅したのだ。
全世界を。
ノーコスト、ハイパワーの完全なる力によって。
力には代償がいる。
その常識を覆したその究極的力によって。
だが、当然のことそんな力はただの研究では到底生み出すことができるような代物ではなかった。
それは彼の生まれ持った才能はもとより、彼が不本意ながら作り出すこととなった独自の立場を利用することより出来上がったものだった。
光の研究者として成功し、大権威となった、彼は、提案と研究施設だけを、募った優秀な弟子たちに任せ、自らはハーフの持つ力である『夕』を研究し始めた。
そこには、何十年という歳月と、彼の恐ろしいまでの、才能そして熱意がこめられ、練り上げられたものだった。それはもちろん、争いの抑止力になれば良いと考えられたもので、決して他を傷つけるためのものではなかった。
そして、完成した力はその代償なき力だった。
『気まぐれな紫電』と呼ばれる、座標を指定して雷撃を落とす術式が『脅し』の際には使われたが、身近な人間から言わせればそんなものはまだまだ序の口だとさえ言われるという。
その力は何万、何十万の兵、いや、よもや全世界を相手どることさえできた圧倒的な能力だった。
それにより、彼は戦争を無理やりに終結させた。
それから、その際に作らせた文書によって、その事実の隠蔽と人と魔人間すべての暴力の終わりを約束させた。
破ることのできぬ『誓い』の中で。
それによって千年に渡る戦争は終わり、今日の静かな世が戻ってきたのである。
だが、当の本人である彼の身には静けさなど帰ってはこなかった。
それは彼がその時点で重大なミスを犯していたことに由来する。
取り返しのつかないほど重大なミスに。
一つは暴力の廃止の枠の中に、ハーフという言葉を加えなかった点。
これはミスというよりも、彼の持つ理想の一端だったのかもしれなかった点だが、結果論としてはミスとしか言いようのないものだった。
彼の理念の中でハーフ達は名称こそ分けて呼ばれてはいるが、元は人間と魔人との交わりでできた種族なのだから、魔人と人という条件の中であらたにハーフという言葉を交えないことによって、より深い世界平和につながると考えたのだ。
民族の分け隔てない平和へと。
そして、何処かでつながっているであろう血によって、ハーフもまたその条件の中に含まれることになるだろうとも踏んでいた。
そうして、自然にすべての争いが少しずつでもその勢いをなくし、ついにはそれをなくすこともできるだろうという考えだった。
彼は本当に、争いというものが嫌いだったのだ。
その『脅し』という行為でさえ、彼にとっては苦痛でしかなかったほどに。
だが、彼の願い叶わず、ハーフという言葉はあまりに広まりすぎ、光の『誓い』には含まれなかった。
結局、いくらかのハーフは人族と魔人の理不尽な暴力によって傷つき、命を落とすこととなった。
それゆえ、地下世界を作り上げたのだ。
二つ目のミスは、その誓いを取り消し可能なものにしてしまったという点である。
本来、本当に大切な誓いは決して取り消されることのないように、立てられる際に『この誓いは取り消し不可である』というセリフを忘れてはならない。
それによって、破られようとした誓いの内容が永遠に破棄されるのを邪魔することができたのだ。
しかし、彼はいつか、本当の意味で人と魔人が和解することができるであろうというこれまた彼の理想のもと、あえてそれを破棄可能なものにしたてあげたのだ。
そして、これら二つのミスによって、彼は少しずつ、わだかまりを生み出し、見解の相違を促し、やがて分派ができてしまった。
手中にあった手駒は次々に離れて行き、彼は形だけの英雄へと格下げを余儀なくされた。
それでも、数ある分派の中でも比較的穏健派であったボス・フォアゲートひきいる、『夕暮れ時』に引き入れられ、その中でも幹部を担うようになった。
今度こそ、自らの失敗を正すために。
しかし、彼は甘かった。
この、暴力の横行する世界には、少し彼は優しすぎたのだ。
そして、それが第三のミスを生み出していた。
彼は、人々を『脅し』、誓いを立てさせた際の罪悪感から、自らの力も誓いの中に捨て去ってしまっていたのだ。
彼の力はもう二度と帰ってくることはない。
それゆえ、彼はあらたな世直しの方法を探し始めることとなった。
そして、それらが、彼の持つ影であり、ありのままの姿を写したものだった。
言ってみれば、今の彼は英雄の、英雄たる要素が抜け落ちた、抜け殻。
無限であった力を失い、万を越す部下を失った。
彼に残されたのは人一倍お人好しで我慢強い、その性上だけだったのだ。
そんな彼は考えなしなどではなかったから、もしものために、その力をなくしたことはただの誰にも明かさなかった。
それゆえ、彼は抜け殻でありながら、大多数の者に崇められることになった。『誓い』の中で彼は、世界規模の宗教の意味上の創造者となり、その崇拝の対象となっていたのだ…その立場が彼の心に重くのしかかったのは言うまでもない。
そうして、一人、その立場に疲れ切り、地上の人間たちにも、地下の者たちにも、気づかれることのない場所へと向かっていたのだ。
信者の中でも最も口の堅く常に従順で素直なものが好意で作ってくれた、彼の持つ唯一の心休まる場所へと。
彼はいつも通りに回廊を二度ほど曲がり、壁をくりぬいてそこを夕によって巧妙にカモフラージュした穴を抜け、ようやくそこへたどり着いた。
その部屋には文字通りなにもなかった。
テーブルも、本棚も、キッチンも、椅子も…etc…。
それは、彼の性質上仕方がないものなのかもしれないし、逆に、秘密裏には家具を運び込むことなどできなかったのかもしれないが事実は定かではない。
とにかく、そこには、なにもなかった。
客観的にみれば、生活空間と呼ぶことすらままならないだろう。
そんな部屋を彼はたいそう気に入っていた。
だが、彼は決して、この殺風景な洞穴を、ただ、くり抜いただけの空間を好いてたのではない。
そこで彼を心待ちにしてくれるものがあったのだ。
いつも、信者の一人が、人の良い笑顔で彼を迎えていたのだ。
そして、彼の話をせがみ、彼はたんたんと自らの生を語って聞かせた。
丁寧に、より細かく、隅々まで、決して現実を曲げないよう、記憶という名の資料から、重要な箇所を取り出し、あらためてそれを自分の中で吟味し、形にしたものを語ったのだ。
信者は熱心に聴いた。
信者は適当な部分で相槌を打ったりせず、彼の声が流れる間、じっと目を閉じていた。
ハワードの声が織りなす、数々のエピソードを頭の中で形にしているように見えた。
そんな彼は別段、聞き上手だったわけでは無かった。
しかし、ハワードにとって、その聴き手がいるということが喜ばしいことだった。
ハワードはこの信者がまがい物である自分を崇めているのだと思うと、心が痛んだ。
だからこそ彼は幼少期のことから話を始め、長い長い時間をかけて語った。
それは一日二日の話ではなかった。
何日も何週間にもわたった。
そして、彼は偽りなく語った。
自らのしてきた、『本当の』出来事を。
『本当に偽りない、なんのベールもかけられていない、物語を』
そして、今日、この時を持ってハワードはその実話を話し終える予定だった。
何度も試行錯誤して、選び抜いた言葉と考え抜いた構成により、完璧な終焉を迎えるように練り上げてきたのだ。
そしてその完成度に満足がいっているがゆえに、彼らしくもなく、幾分かそれを楽しみにして信者を待っていた。
椅子のない部屋の壁に寄りかかり、唯一の物であるランプをただなんともなしに眺めていた。
揺らめく赤の中に、そういえば、こんな風に待ったことはなかったなと彼は思い返す。
いつでも、信者は彼を待っていた。
自分の時間なんて関係ない、ハワード様を待たせるくらいなら、自分の時間を削ってでもここで待ちます、とばかりに。
そう考え出したハワードは待たされているにもかかわらず、信者の誠実さに感心し、また、これから訪れるであろうこの時間の終わりを彼は心からなげいた。
その際、彼はある見落としについて唐突に気がついた。
それは昨日、ここを訪れた時のことだった。
その時もいつも通りに熱心に話を聴いていた信者。
だが、途中まで聴き終えたところで、突然にその閉じていたまぶたを見開いた。
そして、これまで笑顔以外に浮かぶことのなかった表情を激変させると、こういった。
「それは事実なんでしょうか」
それは、彼がこれまで決して、口にしたことのなかった疑惑の言葉。
ハワードはその突然の表情、動作、言葉に目を疑ったが、すぐさま、もちろんだと答えた。
そうすると、信者はどんな感情を表していたのかわからない、複雑な顔をした。
それから、不意に、たいそう疲れた顔を浮かべると、こう言った。
「すみません、まだ貴重なお話の途中で申し訳ないのですが、わたくしは明日、大切な仕事がありますゆえ、そろそろおいとまさせていただけないでしょうか?」
と。
ハワードはもちろん、これに同意した。
普段とは違う動作がその『大切な仕事』に対する緊張から出たものなのかもしれないと考えたのだ。
そうして、彼を送り出した。
信者の去ったあとの部屋は、ハワードにとっていつも以上に寂しいものだった。
考えてみれば、彼が先に席を立ったことなど、これまでに一度も無かったのだから、当然か。
だから、そんな寂しさのなかに、彼は深い思考を混ぜ込んだりはしなかった。
彼が行う仕事がそこまで大きいものなら、幹部であるハワードに伝わらないはずがなかったことや、普段より早いペースで進んだおかげで、別段遅くない時間だったこと、(いや、むしろ、ずっと早い時間だった)なんて思考の片隅にもおかれなかった。
ただ、久しぶりに感じた、言い尽くすことの難しい、深い感情の海を一人、漂っていたのだった。
時は経ち、やがて、カモフラージュの向こうから信者がやってきた。
感じの良い、黒い儀式用の衣を身にまとっていた彼の姿は、やはり、重大な仕事があったのかもしれない、とハワードを少しだけ安心させた。
信者は、ゆっくりとした足取りでハワードに近づく。
そうして、いつもの距離感に達すると、礼をする。
彼ら、信者達の中でのルールらしかった。
信者はハワードに会うと必ず三度、頭を腰より低い位置まで下げるまで礼をし、跪くのだ。
そんなもの、ハワードは求めていない旨を話たのだが、彼は一行に聞かなかった。
彼は、形式通り、三度の礼をして、それから跪いた。
「君たちも大変だな、信仰というものはどうやら我の理解の域をはるかに超えてしまった代物らしい」
ハワードは低い声で笑った。
そこに殊勝さと独特の淋しげな雰囲気が混ざったのは言うまでもない。
しかし、その言葉に信者の反応はなかった。
信者はただ、膝をおり、地面と睨めっこをしていた。
「どうした、具合でも悪いか」
ハワードは屈み込み、心配そうな顔で信者の顔を覗き込む。
今度は反応があった。
「あなたは自らのしてきたことをすべて話すとおっしゃいました。それは本当ですね?」
その予想以上に強い語気に、少しだけ面食らったハワード。
「ああ、嘘はつかない」
「いいえ、それが本当なら、あなたは嘘つきです」
「よくわからんな、どういうことだ?」
「あなたはもう知ってるはずだ」
信者がようやくその顔をあげた。
にへらと笑った顔。
しかし、そこには鈍感なハワードにさえわかるような邪悪なものが混じっていた。
そうして、彼は、続けた。
「ハワードさん。あんたは嘘つきだ。この宗教ごっこも、あんたの持ってた力もな」
信者の顔がみるみる歪んでいく。
「なにを言っている?」
ハワードはその豹変に気づかない、いや、ついていくことができていなかった。
彼の頭の中での信者は温厚な人柄であり、とても気が利いて、我慢強く、彼の話を聴いてくれる、唯一の信じられる者だったのだ。
「どうして、あんたの話なんか、熱心に聴かなきゃならなかったと思う?」
「聴かなきゃならなかったと思う?」
ハワードは信者の言葉に含まれた毒気に顔をしかめた。
こんな人間ではない、こんな人間では…。
「そうだ。俺は聴かなきゃならなかった。あんたのそのつまんねえ伝記をな。どうしてだかわかるか?」
信者の瞳がギラリと光る。
その瞳の色はランプの光を受け、赤く鋭く、ハワードを撃ち抜いた。
「わからない。そもそも君はそのために毎晩ここにきてくれたのではなかったのか?」
ハワードは戸惑いながらも、問う。
それだけが今の彼にできることだった。
「…クククク…はっはははは!笑わせてくれるな!お前のつっまんねえ、妙に長ったらしい伝記をどうして俺が真剣に聴きたいと考える?」
「ではなぜここにいるのだろう?」
「そんなもの、理由なんて一つだけだ」
「では、答えを聞こう」
「真実を掴みたかったからさ」
「真実…か…君も…やはり、そうなのだな」
彼の改革によって起こった弊害の、大勢の被害者たち。
そして、彼との見解の相違によって別れて行った仲間たち。
「そうだ。俺もあんたから離れたものたちの一人だよ。これまで本当に気づかなかったのか?だとしたらあんたは相当なアホだな。昨日の晩、俺はあんたに聞いたよな。全部本当かっ、てな」
『真実』、『本当』という言葉が彼の罪悪感で一杯な心に針のように突き刺さる、それはあまりに鋭く、そのまま彼の心全部を串刺しにしてしまうかに思われた。
彼は、しばし黙り込み、言葉を選んだ。
「そんなに、真実が大切か?我の与えた幻想は全て無用で無意味なものだとでもいうのか?つかの間の幸せは、夢は、必要…ないのか…」
絞り出された言葉は本当に、彼を雑巾にしてからとんでもない力で絞り出したかのように、弱々しい。
悲痛な叫び。
心から漏れ出た本音の奔流。
それは部屋をより寂しいものへと変えた。
ランプはその明るさを一段階落としたかのように思われた。
彼の静かな叫びに、部屋全体の明るさというものがカラカラに干上がっていた。
「…いらねぇよ、そんなもん」
信者がつぶやく。
いや、吐き捨てた。
この世で最もいむべきものを見るような目をハワードに向け、ほとんど反射的に行われた動作だった。
ハワードはその波動に口が開けなかった。
ただ、呆然と、信者の顔を見つめるしかできなかった。
そこにある表情はやはり、いつもの信者とは別人のもののように見えた。
ハンサムとは言わないまでも、かつての人の良さそうな笑みを浮かべた彼の顔には年齢不詳の人懐っこさや愛嬌があった。
だが、やはり、今となっては、そんなものは少しも影を見せてはくれない。
そこにあったのは、ただただハワードへの憎しみと真実の彼の感情だった。
「で…どうするのだ?ただ、話を聴きにきたのではないのならどうしてここにきたのだ。もう真実は掴んだのだろう」
「そんなもん、一つしかねえだろ」
信者は屈み込んだ体制のままで礼服の内ポケットからケースを取り出した。
小さなケースの中には、何十本という数の極細の針が収まっていた。
彼は、そのうちの一本を取り出した。
「そんな針がなんの役に立つのかって?流石にあんたもそこまで鈍くはねえよなぁ」
信者はその針を持つ手に力を込めた。
彼の手の甲の血管が異常なまでに膨らみ、浮き上がって、その存在感をました。
それから、彼の指先から赤い糸のような光が一筋、漏れ出した。
それは紛れもない『夕』だった。
そして、それは彼の手の中の針に触れる。
すると、驚くべきことに、彼の手の中の針は突然に、その太さをグンっとました。
いや、増したなんてものじゃない。
何十倍にも太くなった針は、手のひらにやっと収まるくらいの大きさとなり、その長さは三十センチを超える。
先端だけは、その鋭さを失わず、光を照り返す。
そこには少しだけ死の成分が混じり混んでいた。
小さな針は一瞬で殺傷能力を持った兵器に様変わりしたのだ。
「俺はこんな夕しか使えねえ。だから、あんたに復讐する機会なんて訪れないと思ってた」
「………」
ハワードは信者の行動の一部始終を、その言動の一字一字をただ何かを悟ったような感情の浮かばない瞳で眺めていた。
「けどよ、俺は諦めきれなかった。訪れないだろうなんて、諦めきれなかった。だから、自分で迎えに行ってやろうと思った」
信者の唇は動き続ける。
「だから、あんたに近づいたんだ。直接な。それで、ついに見つけたのさ。知ってたか?俺らは、あんたが本当に莫大な力をまだ持っていると思ってたんだぜ」
「………」
「だから、あんたに近づいてどんなに些細なことでもいい、弱点を見つけてやろうと思った」
「………」
「だから、あんたの面白くもなんともねえ話に付き合ってやったよ。ここ二週間ずっとな。立ち話だ。あんたはどうか知らんが、俺には苦痛だね。仕事で疲れた身体にいつまでもそんなダブルパンチ食らってちゃ、ストレスで死んじまうぜ」
ここまで、まだ黙り込んだままで何の表情も浮かべないハワードに彼は問う。
「なあ、どうだよ。何か言ったらどうだ?俺ってばあんたをずっと欺いてきたんだぜ?もっといかめしい顔で、怒りに身を震わせて、俺に罵声の一つや二つ浴びせねえのかよ?」
ハワードは沈黙を守っている。
まるで何かの実験の結果をじっと眺めている科学者のような目。
「おい…そうだよな。あんたは昔からそうなんだったっけか。無欲だって自己分析してたよな。普通、他人にそんな話されたらよ、半信半疑か、そいつを傲慢なやつだなんて評価したりすることが普通なんだろうけどな、そんな世論をはね返すように、あんたは全てをたんたんと話したよな。まるであんたがロイ・ハワードっていう名前の他人の人生を眺めてきたみたいに。正直に言うとな、俺はあんたの話を聞くまで、あんたを、ロイ・ハワードっていう男を、ただの仇としか思っちゃいなかった。あんたさえいなけりゃ、あんたさえ余計なことをしなけりゃ、妻は今も生きて笑ってるはずなんだって思ってたよ。でもよ、あんたはズルいんだ。…いや、嘘だよ、悪かった。あんたはズルくもなんともないし、あんたの話は実際に面白かった。真実味があって、人間味があって、本当に一人の人間の一生ってやつを生き生きと感じられたんだ」
信者はそこで、何とも読み取れない表情にゆがんだ顔を両手で覆った。
手に持っていた針は地に落ち、ドスっと音とともにその重さを知らしめた。
「だから、昨日、あんたの弱点をついに見破った時、いや、あんたの方から俺を信用して話してくれた時、俺は、俺は…復讐の可能性をやっとつかんだくせに、素直に喜べなかったんだ。なぜだかわかるかよ?なあ?」
「………」
「そうだよなあ、わかるはずもないよなあ。俺はよ、俺は…あんたの人がらに、あんたの生き様に、あんたの人生に、魅せられちまったんだよ…」
「……⁉」
ここでようやく、ハワードは表情を変えた。
そこにはありありと驚きの二文字が並んでいた。
「俺にはできねえ、自分が死ぬかもしれねえ状況で仲間に飯をわけることも、万を超えるハーフ達を束ねることも、平和のために何十年も成功するかもわかんねえ研究を続けることも、手に入れた金銭やらなにやらのほとんどを寄付することも。みーんな、できねえ。俺だけじゃねえ、全部あんたにしかできない。俺はそんなあんたのすべてを知ったと同時に考えちまったんだ。あんたは本当に殺されるべき人間なのか?ってな。あんたは平和と一族のために何もかもなげうって行動してきた。そんな人間をただの一時的な復讐心なんかで殺しちまっていいのか?ってな」
信者でも何でもなかった男は深く息を吸い込んだ。
「俺は迷った。でも、でもよ、妻を忘れることなんてできない。俺たちは本当に愛し合ってたんだ。そこら辺の夫婦が羨むくらいにな。それで、このザマだ。あんたは俺を警戒しなさすぎるよ。俺が武器を持って入ってきたって、あんたは『それはなにに使うのかね?』なんて言うだろうよ。で、俺にはそんなあんたを暗殺することなんかできなかったんだよ。だから、こうして、あんたの前に武器をさらして、これから…これから、あんたを殺しますって、予言してからやってやろうと思ったのにぃ…」
信者の顔を覆う手の間からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
自分が何に嘆き、何のために涙を流しているのかさえ、わかっていないように見えた。
そして、対するハワードはついに沈黙を破る。
「君は、優しい男だな」
深みのある、低くて、優しい響きのする声だった。
彼の声は部屋中にしみわたり、嫌というほど信者の耳に響いた。
「うぅ…う、うぁぁ…あああ、あぁ!」
信者はハワードの声が響いた途端に、声をあげて泣き出した。
「君は、誰より義理堅く、誰より辛抱強い男だな」
「う、うううぅ、ああああ…う、うぁぁぁ!」
「君はハーフの鑑だ。賢く、それでいて実直で温厚だ。そんな君を傷つけ泣かせた我には君が憧れるようなところなどなに一つありはしない。それこそ、君は真実を取り違えている。さあ、殺せ、我を。そして、完遂させろ。君の復讐を」
「ううぅ…うぁぁあ、でも、でも…できない、俺にはできないんだぁ…あんたは、あんたはぁぁ」
信者は顔を覆ったまま激しく首を振る。
その勢いに、彼の心情が表れていた。
彼は、優し過ぎた。
彼にとって、ロイ・ハワードは仇であり、同時に憧れの対象であり、友でもあったのだ。
そんな彼を見兼ねたハワードはついにその大きな体躯を折り曲げ、地面に突き刺さった針を抜き取った。
それは、彼の手にも、ずっしりと重たかった。
鈍く光る、それからは、死の香りがした。
それから、彼は
「君が手を下さなくても、いつかは裁かれるべき命だったのだよ」
と、静かに言い放った。
その響きに含まれた不穏な予感に、信者は顔をあげ、すぐに現状を把握しようとした。
ロイ・ハワードが申し訳なさそうな、今すぐにでも消えてしまいそうな表情を貼り付けて、立っていた。
その手には信者お手製のぶっとい針が収められていた。
そして、それは信者の目の前で、ゆっくりと彼の胸の前へと移動していく。
数秒間、場を把握するのに時間のかかった信者はようやく、彼の目的を理解する。
「やめろ!そんな顔で、そんな申し訳なさそうな顔で、死のうとするじゃねえ!あんたは、あんたは本当の英雄なんだ!だから、だから…」
ここで、信者の言葉は遮られる。
「やはり、誰も分かってはくれまいか…我は英雄になりたかったのではない。ただ、誰かが傷付くのを、死ぬのを、ただただ見たくないがゆえに、平和を渇望したのだ。それだけだというのに…」
英雄は一層、その表情にさみしさをにじませた。
今すぐにも崩れ落ちてしまいそうな、その表情は重い、暗い、救いがない。
「違うっ!あんたが自分のことをどう思おうと勝手だがなあ、あんたみたいな者を世間では英雄だと言うんだよ!」
「残念ながら、我の中の英雄と世間の中の英雄とはだいぶ違うものらしい。我の考える英雄とは、誰一人として犠牲者を出したりはしないからな…最後になるが、すまなかった。君の妻は我が英雄でないがゆえに死んだ。やはり、君は、我を憎むべきだ。我は憎まれるべき大馬鹿ものだ」
自らを大馬鹿ものと名乗った男は自重気味に笑った。
あまりに、乾いた笑いだ。
自分と言う存在を極限まで蔑む笑い。
それはもう、自重なんて言葉では間違いだった。
「そんなこと…言うな…降ろせよ!おろせよ!そいつを!」
「すまなかった。本当にすまなかった」
英雄になり損ねたものは針を胸元に導いたまま、ちいさく、頭を下げた。
信者の目にはそんな彼の身体が普段の何分の一にも縮んで映った。
「謝ってすむことではないな。だから、許してくれとは言わない。ただ、謝らせてくれ。すまなかった…。自己満足のために謝らせてくれ。すまなかった…。ああ、今更になって我にも欲がたくさんあることがわかったよ。我は英雄になりたかったのだなあ。皆を救い、皆と親しくなれる英雄に。慕われなくていい。ただ、みんな笑顔で楽しく平和にいられたら良かったのになあ。そして、そんな英雄になって君と友達になりたかったなあ。本当に、我は欲張りだ。本当は欲の塊だよ。無欲だなんてとんでもない過信だった。ほら、君も我に失望しただろう?」
多くを望んだ男は乾いた笑いを崩さない。
それとは反対に信者の目から溢れ出た涙はとどまるところを知らず、流れ出し続けた。
唇はそのたがを外されたかのごとく、言葉を紡ぎ続けた。
「ふざけんな!もう、俺たちは友達だ!それも大親友だろ!忘れたのかよ!なぁ、毎晩こうやって立ち話したじゃねえかよ!なぁ!なぁ!なぁ!」
信者は叫び、ハワードは笑う。
「ありがとう。本当に君は優しい男だ。だからこそ、我はあまりに申し訳なくて、死にたくなる。いや、もういつからか、ずっとそうだったかもしれない。まさか、死ぬ間際になってここまで自分のことを嫌いになるとは…思いもしなかったがな」
「嫌いになんかなるな!それに、ただ謝っただけで満足するな!まだあんたが生きて、苦しんで、俺に償わない限り、俺はあんたを許さない!」
「だめだ。君には本当にすまないと思っている。しかし、私の精神はもうこれ以上、生きていられるほど強靭ではない。だから、これで…お別れだ」
ハワードは腕に思い切り力を込め、針を引いて、溜める。
その小さな兵器に致死の威力を持たせるために。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
絶叫し、ついに止めにかかろうとした信者の前で、それを思い切り自らの胸につきたてた。
それは、彼の思った通りの威力とともに、彼の心臓を深々刺し貫いた。
「…っ⁉ああっ!…本…当に、ゴフッ!ごめっ…ん、な…さ…い…」
英雄になり得なかった男は、誰に対してかも、なにに対してかもわからない、謝罪を残し、絶叫する信者の前で、その一生を終えた。
信者はことが終わったあと、ただ放心状態にあったその精神をなんとか身体と合致させると、息絶えた友の身体を抱き寄せ、無限のようにも思えるその清く、美しく潤んだ涙で彼を悼み、嘆き、苦しんだ。
どれくらいあとかもわからない。
彼はようやく、泣き止むと、囁くように言った。
「いいか、よく聞けよ?よくも死んじまいやがったな?あんたが諦めるなら、俺が、英雄になってやる。あんたのなりたかった英雄に、みんなを笑顔にする英雄に!だから、だからよぉ…見ててくれよぉ…友としてぇ…ひっぐ…天からよぉ…温けえその瞳でよぉ…見守っててくれ…」
信者はそれだけ言うと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をそのままに、彼の魂の抜け殻を背負い、カモフラージュの向こうへと消えて行った。
その足取りはしっかりとした重みを持ち、一歩ごとに何か強い意思を感じさせる力強さがあった。
彼らの居なくなったあとに残されたものはなにもない。
彼らの居なくなった部屋には本当に、何もなかったのだ。
彼らこそが部屋の構成物であり、彼らの関係こそが本当に、英雄になり損ねたものの求めたものだったのかもしれない。
空っぽになった部屋に、ただ一つだけ忘れられてしまったかのように置き去りにされたランプは、まるで持ち主の死を悼むかのように、その炎の威を少しずつ削ぎ、一人でに消した。




