43回想versionリリアⅡ
「私の夢の中の方がずっと楽しいわよ」
女はそう言って私を彼女の『夢』へ誘いいれた。
そこに入るのには入場料を払う必要も、試験に合格する必要もない。
ただ、望めばそこに入り込むことができる。
その一部になることができる。
しかし、その中に眠る深い意思のようなもの、女の具体的な目的や、抽象的にその『夢』を解釈するのは、そこには入るのと訳が違う。
それは、とても困難で、とても奥まっていて
、どれだけ時間をかけても理解し得ない。
そんな深い井戸の底のように暗く、深い場所にそれはあったのだ。
私が手を差し伸べられた瞬間から、女の『夢』の中へと、誘いこまれ、その手をとった瞬間には自らの意思で入り込んでいたのだ。
それがなにを意味するのかも知らずに。
私は女とその『夢』の中の住人であるネロ以外にここまで手厚く歓迎されたことは一度もなかった。
おそらく、死んでしまった両親にすらここまでしてもらったことはないだろう。
少なくとも私はそう確信していた。
そして多分それは事実だったのだ。
しかしながら、それは事実でありながら事実ではなかった。
「母さーん、おかわりー」
ネロが何度目繰り返したかわからないような、セリフを発する。
それに反応した女が台所へと席を立つ。
私はその光景をただほお杖をついて重くなった瞼がだんだんと狭めていく視界をなんとか最低限のラインで保っていた。
それは限りなく睡眠状態に近い『起きている』という状態だった。
少しでも気を抜くとすぐさま眠りの底へと見えない手で引き込まれてしまいそうであった。
きっと普段ならなにも気を抜かずにいる理由もなく、寝てしまっているだろうが、今は状況が違った。
私のこれまでの辛い経験が、まだ、女とネロという少年に対しての警戒をとく邪魔をしていたのだ。
信用ならないものが一つ屋根の下に二つもある。
そのことが私の意識をギリギリのところで引き上げ、奮い立たせていた。
そんな私の疲れきった身体はもう埃や泥にまみれてはいなかった。
今現在、私は女とネロとともに彼らの『隠れ家』にいた。
『隠れ家』は隠れ家というにはいささか大きすぎるくらいの立派な一軒家だった。
しっかりとした木造建築の一軒家。
使われている木材は年季が入っているのか、変色してはいるものの、それぞれがそれぞれの役割を完璧にはたし、それがパズルのように綺麗にはまっていて、とても精巧、かつ頑丈にできているようだった。
私は争いにより何もかも失われた荒野にこの『隠れ家』がポツリとたっているのをみて、とてつもない違和感を感じたが、その時、私は女にそれを尋ねることができなかった。
いや、私はその時、『尋ねてはいけない』と思ったのだ。
なぜかはわからないが、私の直感は昔からよくあたったものだから、それに従わない手はなかった。
そんなわけで私は彼女の『夢』に誘いいれられたのと同じかそれ以上にやすやすと『隠れ家』に招待されたのである。
そして、シャワーを借り、私はようやく『普通の十代の女の子』に立ち返ることができたのだ。
それから、私は腹がぺしゃんこになったあと、もはや空気で勝手に膨らみ出してしまうほどの空腹を女の手料理で満たすことを許され、通された広く清潔な雰囲気のリビングの中央にある丸型テーブルにほお杖をつきながら、眠気とひとり戦っていた。
「はーい。どうぞ~」
女がどうやら彼女の得意料理であるらしいシチューを大皿にいっぱいに持った『おかわり』(とても美味しい)を音もなく手慣れた動作で置く。
「やっぱり母さんの作った料理は美味しいな〜」
少年が食べ盛りなのが丸わかりのキラッキラした食欲にまみれた双眸で『おかわり』を食い入るように見つめた。
少年の声と同時に私は吹き出した。
「ふ、ふふっ、ふふふふふ、あははははは」
少年のはいた言葉があまりに親父くさくそれも小説のなかから引っ張り出してきたような感じだったことが、腹筋が壊れてしまうほどの笑いへと私をみちびいた。
眠気などふっとんで行ってしまうほど私はわらった。
わらってわらって笑いぬいた。
もう一生分の笑を使い尽くしたぐらいに笑ったように感じられた。
貯金はゼロだった。
そんな私に、ネロ少年はそのふっくらとした丸っこい顔をまるで思い切り膨らませた風船みたいにすると、こちらを睨みつけた。
だが、睨みつけたという表現がとても大きな間違いのようにおもえるほど、少年の瞳はまん丸で、クリクリと大きくて、澄みきった穢れのないものだった。
世の中の喧騒を忘れてしまうほど美しい、宝石に等しかった。
その瞳の光は少年が現実を知らないか、見ていないことを意味していた。
つまり、ネロ少年と私とでは、あまりに明らかで決定的な『違い』がある。
その『違い』が私の目を曇らせ、ネロ少年の本質やそのものを見ることを許さなかった。
だから、私はこの時、愚かにもこう定義づけたのだ。
ネロ少年は純粋無垢な男の子だ、と。
それから、何日も何ヶ月も過ぎた。
疑り深さという名の防壁はすっかりと私の周りから取りさらわれ、今現在、私は女の『夢』の一部でいることを楽しむ術を覚えた。
いや、本当のところ、そんな術などというたいそうなものは必要なかった。
女の言葉通りだったのだ。
この『夢』の中には、争いがない、飢えがない、寂しさもない、悲しみも苦しさもない。
その代わり、温かさがあり、優しさがあり、満腹感があり、喜びや絆があった。
そんな世界をどうして楽しまずにいられるのだろう。
やはり、そこには術などいらなかった。
女は自らをベティと名乗った。
彼女は私のために三食と間食を作り、私の服を洗濯をし、私のために風呂を掃除してくれた。
ネロは頭はその喋り方や、見かけによらず物知りで私に様々な方面の知識を与えてくれた。
なにより、この二人といると、楽しかった。
辛かった日々が、まるでこの時のために用意された試練のようなもののようにも思えるくらいに。
それは、私のずっと欲しかったものだったから。
ただ、彼女とネロには一つだけ、不思議な習慣があった。
食事の前に『呪文』を唱えるのだ。
「妖艶なるものの贄となるものたちに感謝を」
と。
その時の女の表情はいつになく真剣で、この世のどんなものよりも美しい花のようだった。
そう、ベティは美しかった。
もう、とてもではないが言葉には言い尽くせないほどに。
いや、むしろそれは言葉にすることがおこがましいとおもえるほどに。
彼女の前では美しいという言葉が意味をなくし、彼女を見ていると、自分以上に美しいものを見た時に感じるようなあの嫉妬は思いつきもしない。
ただ、魅了され、感嘆のため息をついてしまうのだ。
私もあんな風になれたら、なんてかけらも願うことはなかった。
なぜなら、そんなことは不可能だからだ。
たとえ、どんなにうまく成長したとしても、私という存在が彼女という存在の上に立つことはできない、いや、そもそもそんなことは許されないのだ。
彼女の『夢』は寄りつく男たちから彼女を守るためにあるのではないか、とさえ思った。
まあ、そんな実証のない憶測はともかく、彼女は自分を決して誇ったりしなかった。
というよりむしろ、謙虚で、常に腰が低かった。
その上思いやりに溢れ、気遣いが素晴らしかった。
この世に完全な存在なんてありはしないと誰かが言っていた気はするけれど、彼女こそ完全な存在だと私は叫んでしまいたかった。
そうして、そんなベティとネロと私の三人が構成するこの『夢』が私にとって新しい世界となり、その中にあるこの小屋が私にとっての新しい家となったのだ。




