41長い長い前置き
灰色の雲が、鉛みたいに重たい空気の中を、ふわふわと漂う。
そいつは吸い込むと咳き込んでしまう、厄介な雲だった。
しかし、雲があると言っても、この場所は空とはほど遠い場所…いや、そもそも室内である。
光という光を吸い込んでしまう、そんな黒一色の部屋。
狭くないが、広くもない、地味ではないが、派手でない。
まさしく中立という言葉がふさわしい部屋だった。
もちろん、黒一色という点を覗いてだが。
この部屋に入ったものがまず驚くのはその点だろう、いや、むしろその点だけだろう。
その点さえ除けば生活感漂う、中立的な部屋にしか映らない。
木製の少々高めの位置にある長方形のテーブル、それに対応したテーブルとよく合うデザインの椅子、それから、部屋の右奥におかれた本棚には庶民には少々難しすぎる本がズラリと並び綺麗に整った背表紙が鮮やか(流石にそこまで黒にこだわるわけではないようだ)に本棚を彩る。
それから、左奥にはキッチンと呼ぶべきものがあるが、それもまた黒一色だ。
ここまできちきちと黒に塗り固められていると、もはや白塗りと同じくらいに汚れが目立つ。
幸い汚れはそこまでではないのだけれども、普通気にならないような水垢や埃が無駄に存在感を露わにし、皮肉にも部屋をほとんどない黒以外の色で彩っていた。
ところで、この部屋の主は憤っていた。
これまでにないまでに、怒りの渦に飲み込まれ、どんな判断も冷静に下すことなどできっこない心境にあった。
まるで、彼自身が燃焼しているかのように、彼の周りだけ幾分か気温が上がっているような錯覚に陥る。
その他者にも、自らにも厳しい、伝説上の剣のようなレベルの斬れ味を持った双眸がこれでもかと言わんばかりに細められ、その怒りの対象たる自らと目の前の席に余裕綽々といった様子で踏ん反り返っている『客人』を今にも切り刻まんとしている。
それを一度向けられれば、首元にナイフをつきつけられ、その刃先で浅く斬りつけられたかのような錯覚に陥るのは当然のこととも思えた。
男をここまで怒らせるものはなんなのか。
それは愚問だった。
すでに男はそれについて語り終えたところであった。
それでもなお、納得がいかず、今、まさに『客人』の唇の動きを一瞬たりとも見逃すまいと睨んでいた。
違ったものにさえ見える黒いキッチンの流し台にポタリという音が一つ。
水の音は人を穏やかにすると言うが、この量では、このタイミングでは、男の尖りに尖った心を癒すことなどできなかった。
しかし、そもそもこの男は怒りをこのように露わにし、自ら以外をも責め立てるということをするような人間ではなかった。
むしろ、苛立つことこそあれど、それを自らの内側にしまい込み、決して他人が気分の害することのないように押さえ付けて、幾重にも封をし、南京錠をかける。
そんな、男だったはずだ。
しかしながら、どうあっても今の男を、あのオール・ブラッドリーと同一人物だということを、たとえ覆し様のない証拠を伴った説得をされたとていかにして信じられようか?
いや、そんなことはかなり難易度の高い要求だ。
無茶苦茶で、無理強いだ。
だが、どう思われようとも、信じることが不可能だとしても、彼はオール・ブラッドリーその人なのであった。
お気に入りのブラッドⅡ社製の最新作、灰色のファー付きの漆黒のコートを身にまとい、その場に君臨していた。
まさしく、怒りによってその『王の資質』を発現させていた。
そんなこの国の王を目の前にして、平然としていられる命知らずな『客人』は優雅に足を組み替えた。
下にあった右脚と、上にあった左脚を、流れるように、あるがままの姿に帰すように、動かした。
それは、文人特有の細く、長い脚だった。
その上、文人のなかでもさらに細いかもしれなかった。
年頃の娘から中年の婦人まで幅広い世代から羨望の眼差しを受け取るであろうそれは、まるで何か意味を持つかのようにゆったりと動かされたのだ。
もちろん、優雅とゆったりとは同一ではない。
しかしながら、いまおこなわれたこの動作はまさにそうとしかいいようのない、二つを見事に調和させた結果の産物だった。
そして、それと同時に、ようやく『客人』はその重く閉ざされた口を開く。
「兄さんは、どうしてそんなに戦いを避けたがるんです」
客人…パーツ・ブラッドリーがその人形の一部分のように整った唇を上下左右させ、放った言葉は、この部屋の主…オール・ブラッドリーに対する返答でも、自らの出した結論でもなかった。
「お前、今、どれだけ人を馬鹿にしているのか、わかってるのか」
主はさらに煽られ、火力をました怒りの炎をありありと見せつけた。
静かな言葉のなかに、尋常でないはげしさをこめて。
「兄さん、この際だから言わせてもらいます。兄さんは甘すぎる。その甘さを捨てない限り、戦争には勝てない。さっきはそういう意味で言ったんだ」
「甘い?いいや、お前が苦すぎるんだ。見ただろう。あの場にいた人々の凍りづいた表情を、あまりの光景に脚をすくめ、座り込んだ者たちを」
「だから、それが甘さですよ。兄さん」
パーツは、オールの剣幕に物怖じもせず、じっと睨み返すように対峙者の瞳をまっすぐに見つめる。
「それ…だと」
「ああ、それ…です…」
パーツは気乗りしないと言った様子で肩を竦めながら一つため息を吐くと、続けた。
「兄さんはそもそも、戦争って奴を甘く見てますよ。兄さんは戦争の話になると、毎度のように被害者、死傷者、犠牲者、と並べ立てて、戦争というものを受け身でしか語ろうとしないでしょう。でも、実際の戦争では、例の『実験』みたいなことを敵に対して実行することになります。で、いかに効率良く敵を殺し尽くす、または降伏させ、かつその上でどれだけ自軍の被害を減らせるか、それを思案するのが作戦会議であり、それを行動に移すのが戦いです。その考えに基づいて僕は動いています。もちろん、兄さんに任じられたからでもあるし、国のためを思ってという部分もあります。それなのに兄さんは甘っちょろい考えで、頼ったはずの僕の行動を言及し、挙句今に至るわけで、少々皮肉っぽくなったけれど、兄さんは甘いだけじゃないです矛盾してるんですよ」
「…くぅ…」
オールは唸ることしかできなかった。
悔しさのにじんだ情けない顔を床へと向け、やりきれないといった様子でテーブルのはしを、叩いた…しかし、その力は弱い、騒音という騒音を立てることすらなかった。
トンッと静かな、まるで小太鼓を叩いたような音が部屋のもはや鉛など比ではないほどに思い空気を少しだけ和ませた。
「兄さん、顔をあげてください。まだ話はあります。兄さん、戦争になれば、さらにたくさんのものが亡くなります。たくさんのものが人殺しになります。かの、『千本の鎖』を投入すれば、例の『実験』と同様の光景ががさらに多くのものを一度に巻き込み、拡大し、我々の前に姿を現します。でも、そこから目を離してはいけないんだ。それが、戦争というものだから」
パーツはその揺らぎのない瞳を顔をあげようとしないオールへと注ぐ。
「勝たなければ、負けます。攻めなければ、負けます。殺さなければ、負けます。『あの男』はもう、いないのですから」
「あの男?」
ようやく、痛みと苦痛にゆがんだ顔を少しだけ好奇心で緩めたオールが顔をあげた。
「ええ、かの男ですよ。たった一人で、千年もの長きに渡る戦争を終わらせたもの。『気まぐれの紫電』、こと戦争の終焉者、ロイ・ハワードのことです」
「ロイ・ハワード?それは確か、もっとこう文人的なものではなかったか?」
「そうなのです。今現在存在する文献や歴史書の数々のどれを見ても、兄さんの言った通りの人物として描かれています。で、あるのに、僕がお爺様の部屋に昔、潜り込んだ時に見つけた黄ばんだ書物に書かれていたロイ・ハワードは戦争の事実上の終焉者なのです。間接的ではなく、直接的な意味で」
「なぜ、そんなに大事なことをすぐに言わなかった」
「それが、どれだけ口に出そうとしても、不思議なことに声にならなかったのです。まるで、見えない鎖で喉元を締め付けられているかのように、息ができなくなりました」
「では、なぜそれが今、こうも簡単に口をついて出てきたのだ」
「なぜそれが今、こうも簡単に口をついて出てきたのだ」
パーツは一片もふざけた様子もなく、オールの言葉を反芻した。
その音はとても不思議な空気を生み出し、さらに黒々とした部屋に新たな空気を吹き込む。
その響きにオールとパーツは飲み込まれたかのように、抜け出せない沈黙へといざなわれる。
それは、しばし続けられた。
沈黙がすっかり部屋の色をそれ一色に染め上げた頃、ようやっと息継ぎをしたのはパーツ・ブラッドリー。
「………『終戦の誓い』でしょうか?」
「『終戦の誓い』…」
「ええ、破られた」
「あの襲撃でか…」
「まあ正確にいえば、襲撃される前の話ですがね」
「つまり、その誓いの内容の一つにそれが入っていたと?」
「そう言うことになります…あくまで憶測ですが…」
「……ふむ…。では、逆にお前がロイ・ハワードの立場だとして、そんなことをする意味があったのか?」
「ないですね。全くと言っていいくらいに」
「僕も確かにそう思う。むしろ、戦争を終わらせた英雄として語り継がれることを自ら望んだっていいと思うくらいだ。それが、どうして、わざわざ自分という存在の歴史的意義を(記録としてだが)下げる必要があったのか」
「相当謙虚な人間なのか、それとも、そうしなければならない事情でもあったのかってことになりますね」
「ああ、それもかなり重要な事情だな。とてもまともではないレベルの」
「でも、兄さん。そうなってくると、まず、彼の誓いの内容以前に、そもそもなぜ誓いをたてたのかと言うところにも疑問が生じます
」
「それはどういう意味だ?」
「僕がさっき言った彼の通り名があるでしょう?」
「んん?ああ…確か『気まぐれの紫電』…だったか?」
「ええ、それです。本来と通り名ってのは名のある戦士、または、一風変わった個性を持った重鎮たちに対して、敬意を込めてつけられるものです。兄さんだって呼ばれてるでしょう。『血の翼』なんてたいそうな通り名で
」
「ああ、そんな風に呼ばれたこともあったなぁ…たかが、演習訓練でみなはしゃぎすぎだ。呼ばれてるこちらからすれば、恥ずかしいとしか感想を持てない」
「はしゃぎすぎって…演習訓練での成績で今世紀最高の力を持つなんて祭り上げられた男が何を言うんですか。これではしゃがなくていつはしゃぐんですか?」
「そ、そうか…すまないな」
「いいえ、兄さんらしいです。と、まあ話が少々逸れましたが、そう、で本来通り名ってのはそう言う奴なんですよ。それも基本的には元々の本人の力を少し大げさに表現するんです。たぶん兄さんは多分違うと思われるけれど…それで、まあ、彼も兄さんと同じなんですよ。言ってみれば」
「はぁ、イマイチ要領が掴めないんだが、お前は結局何が言いたい?」
「要するに彼は、普通じゃないんですよ」
「普通じゃない?」
「そうです、彼の通り名は他のものたちのものとは違うんです。誇張したのではなく、その逆です。抑えられたのです。その上、彼は文字通り人間じゃない」
「…??普通じゃない上に人間じゃない?なおさら掴めないな」
「じゃあ逆に聞きます。戦争を終結へと導いたロイ・ハワードがどんな人物だったのか、兄さんは教科書かなんかで習ったりしましたか?」
「………記憶には、ないな」
「で、僕は仮説をたてたわけです。まあ、人間じゃないってことは当然のごとくにわかりますが」
「どういうことだ?当然のごとくとは」
「簡単です。気まぐれの紫電ってのは彼の能力を比喩でもなく直接説明しているのです。まあ、紫電ってところなのですが」
「紫電…紫電…と、ああ、なるほど。確かに、光で想像することのできるものはあくまでも人為的に創り出された、もしくは加工されたものだけ、なのだったな」
「その通りです!まあ、その『創り出された』に想像も入るので、誰かがより具体的に雷を発生させる装置でも思い浮かべることができたなら、話は別ですが、今までのところ、そう言った話も、研究も、文献もありませんから、ないでしょうね」
「いや、その仮説は成り立つかわからないぞ」
少し長くなりすぎた前髪の毛先を、人差し指と親指で摘まむと、くるくると巻き上げ、それを特に関心のなさそうな遠い目で見つめながら、オールは反論する。
「実例がないから、というのは、『誓い』の『規制』によるものかもしれないし、俺は学んだことがないと言ったのではない。記憶にないだけで、どこかで習っていたかもしれない。学生時代なんてもう十年も前に終えたからな」
「………」
パーツはしばしまたあの沈黙の色を黒々とした部屋の空気のなかにとりいれた。
それから、少しだけ険しい顔を作ると、丁寧に唇を動かす。
一字一句、間違うことのないように。
「『誓い』による『規制』も結局のところ、その『誓い』を起こした本人の想像力に基づくものになります。『誓い』もあくまで光で創り出された『光の創造物』ですから。つまり、ロイ・ハワードの考えを遂行しようとした、『誓い主』があまりに強く、何かを願ったため、『儀式作業』の中でなんらかの不祥事が発生してしまった、と。私はもし彼が選択肢を持っていたとしたならば、二つだと思われます。一つ、自らの存在を歴史上の偉人として世の人々に語り継がせること。一つ、自らの存在を歴史的文献、いや、そもそも歴史自体から消し去ってしまうこと。このいづれかかと」
「ふむ、前者はわからないこともないが、後者の時のメリットはなんだ?」
オールの首はどうあっても縦には動かない。
疑問点が多すぎるのだろう。
「それは僕にもわかりかねます。けれど、お爺様の記録書と今現在の歴史書を見て思ったのですが、彼が悪人…とまあこれは言い過ぎですか…だったり強欲な者とはどうしても考えられないのです」
「その根拠は?」
「これは理屈ではありません。単純に僕の感です」
「感だと?そんな憶測で物事の正誤判断などできない。どうした、お前らしくもない」
オールは少しだけ気分を崩した風で、口元を苦そうに歪め、皮肉ばった辛い言葉を口にした。
対するパーツの態度はまたしても、超然かつ、悠然だ。
見るものに、異国の王を思い描かせるように、広く、深い度量を感じさせた。
彼はまた、優雅にゆったりと、過ぎるほどの長さを持つ、その脚を組み替える。
「兄さん、これはただの感ではありません。もちろん、ただの憶測でもありません。他ならぬ僕の感であり、憶測です」
彼はそれだけ言うと、にっこりと頬を緩めた。
「そんなことはわかっている」
「ええ、わかっているでしょうね。それに、僕の感が外れたことがないことも、僕が的外れなことを言ったことがないことも同時にわかっているはずです」
「相変わらずだな。パーツ。その謙虚さの仮面の奥に潜ませるは自信の塊か…いつかそれによって破滅するぞ、お前」
「大丈夫です。僕の自信の方はしっかりとした根拠に基づくものですし、もし破滅するとしても、兄さんが道連れですから」
「そこまで仲のいい兄弟だったか?」
「いいえ、て言ったら怒りますか?」
「いいや、いいさ。世の中の兄弟なんてこんなものだろう」
「ふふっ。そうですね…と、また話が逸れてしまいました。まあそもそも話したかったのはロイ・ハワードのことではありません」
「確かにな。亡き者の話をしても、虚しいだけだ」
「全くです。で、僕が本当に言いたかったことは、そんな彼がもういないからこそ、我々に残されているのは武力衝突しかないという現実を改めて受け止めて欲しいということ。そして、その上でこれから僕の話す内容に耳を傾けて欲しいのです」
「………ああ、わかったよ。この事態が悪い夢ではないことも、自分が甘かったことも。だから、話してくれ。もう、咎めたりはしない。何せお前は第一に国のことを考えているのだからな。僕よりも、いや、この国の誰よりもだ」
オールはもはやその漆黒の瞳に批判の色を微塵も見せなかった。
そこにあるのは弟への信頼、いや、パール国一番の忠誠民への信頼のみであった。
「わかりました。それでは長い長い前置きとなってしまいましたが、………」
何時の間にか席を離れたパーツはまるでいく度もいく度も繰り返され、体に染み付いたような動作でおーるの耳元へ口を寄せた。
そして数秒後、
「………ッ!?」
今やたくさんの色にまみれた部屋に、その主の声にならない悲鳴が轟いたのだった。




