0出会い
私は中等部の一年間だけ、事情で第七ブロック内の私立パスワール中学校に通っていた。
ただ、そこでの毎日は針を全身に突き立てられているかのように痛いものだった。
たくさんの言葉、それも負の言葉達が私を押しつぶそうとしていた。
私の心はもう少しで壊れてしまいそうで…たくさん亀裂が入ったガラスみたいだった。
「よお!シラガ!今日も老けてんな!」
「あら…シラガ!相変わらずシワだらけね」
朝、学校に着くと、あいさつという形をとった罵声の数々に迎えられた。
それらは研ぎ澄まされた刃物のようで、私を傷つけるためだけにより効率をあげられた拷問器具だ。
いつも皆は私を取り囲んで、口々に私を蔑み、嘲る。
毒を吐き、私心をよく磨かれたナイフで刺し貫くのだ。
その度に、間に受けて本当に自分の顔にシワがないか、老けてしまったのかと不安になり、トイレに駆け込んだ。
そうして鏡に映った自分の顔をみてホッと胸をなでおろすのだ。
「やつれてはいるけれど、シワは…ない…よね…」
独りごちて、こけてしまったほおを人差し指の先でなぞる。
そうして、馬鹿正直な自分にいつも嫌気がさした。
シワだらけだとか老けてると言われれば鏡を確認し、バカと言われれば本当に自分がバカなのかもしれないとおもいこむ自分。
なんて、情けない…。
と、嫌気がさす。
自分がどうしようもない愚か者なのではないかと疑う。
確かに、情けないかもしれないけれど、愚か者なのかもしれないけれど、そんな自分を完全に嫌うことはできなかった。
どんなに自己嫌悪に近い心情に至っても、決して自分を殺そうとは思わなかった。
どこかできっと自分は間違ってはいないという自負があった。
彼らはずるい。
決して暴力行為だとか、あからさまに形に残る方法を取らず、ただ、先生の見ていないところで私を貶めようと口を働かせるのだ。
そんなささやかな自尊心は、ある時、突然ズタズタに裂かれることとなった。
いつものように学校に行き、いつものように自分の席へと向かい、いつものように取り囲まれ、いつものように無数の罵声がシャワーを浴びるがごとくこの身に、心に降り注ぎ、それを何とか耐えていた。
「よお、シラガ!いつも通り暗いな!うつむいてると余計に老けて見えるぞ!」
背の高い男子生徒が大声言う。
へらへらと見るからに教養のない下品な笑いで顔を一杯にしていた。
どうしてそんなに楽しそうなの?
私はこんなに苦しいのに…悔しいのに…でも
大丈夫、私の名前はシラガなんかじゃない。
スノウ・ラクサーヌだもの。
歯を食い縛って耐えた。
「やっぱりさあ、早いうちにシラガになるってことはハゲるのも早いのかな?」
そんなこと、ない。
これは生まれつきだから。
手のひらを親指の爪が突き刺さって痛いくらいに握りしめて耐えた。
「ねえ、いつも思うんだけどさ、どうしてうちの学校はこんなおばあさんを生徒として迎えてるの?…あ、そっか、掃除婦の方なんですね。じゃあ、今日の掃除よろしくお願いしまーす」
こうやってみんなが私のことをバカにして、心にズカズカと入り込んでゴミを投げつけて、ヘドロの中に沈めようとするんだ。
でも、大丈夫。
まだ、平気。
胸がきたないものでいっぱいになって、でも、それを吐き出せなくて、むせって苦しいけれど、まだ、耐えられる。
まだ、自分を嫌いにはなったりしない。
だから、泣かない、泣きたくない、泣いたら負けだって、わかってるのに…。
胸に突き刺さって離れないワード。
『シラガ』『おばあさん』『掃除婦』
どうやっても深々と突き刺さったそれらは抜けなかった。
いつもなら、こんなの、どうってことないのに…。
ポロポロと目からこぼれ落ちた水滴がシャツの襟を濡らした。
きっと、それは舐めたらしょっぱい味がする雫だろう。
でも、私はそれを認めない。
今、私はあくびをしたんだよ。
そうだ、今目が痒くて、擦りすぎたんだよ。
溢れてくるそれは際限なくて、どうしようもなく止まらなくて、シャツの襟にそのシミは拡がってく。
負けたく…ないのに、負けちゃ…ダメなのに…。
心の中の自分が誰かの手で締め上げられる。
自分は悲鳴をあげ、必死に抗うけれど、決してその手は放す気配を見せない、いや、むしろその力を強める。
心の中の私が苦しがっている。
酸素を求めている、助けを求めている…でも、私はなにもできない。
心の中の私がいつも私を見ているように、私もただ、心の中の私を見るしかできない。
もう、ダメかもしれない…。
そんな時、彼は現れた。
私よりも頭一つ大きくて、あまり見覚えのない男子生徒…。
戸口に立ってこっちを見ていた。
「お前らの目節穴なの?俺はこの色好きだぜ、日の光を浴びて赤とかオレンジとかに染まる時とかさ」
彼は顔を赤らめ、自分の頬を人差し指で軽く引っ掻きながら言った。
その言葉は救いだった。
光だった。
あまりにも美しく、この世におくには持ったいないほどのまばゆい輝きを放っていた。
ちょうど朝陽を眺めた寝ぼけ眼のように、目が眩んで、私の目の前の空気が霞がかり、真っ白に輝いたように見えた。
いや、もしかしたら本当に輝いていたのかもしれない。
心が甘すぎるほどの喜びに満ち、体はすくい上げられたかのように軽い。
ああ、彼こそ、彼こそ私を救うために駆けつけてくれた王子様!
そう、思った。
私を囲んでいたたくさんの女子や男子が離れていく。
なぜなら彼は特別だったから。
彼は同級生で隣のクラスの男の子だった。
成績優秀、スポーツ万能な彼は皆を引っ張るリーダーのような存在であった。
女子に絶大な人気を誇っているが、相当な堅物のようで未だに一人も彼と交際したものはいないそうな。
そのせいか、男色家とか、他校に彼女がいるのだとか、たくさんの噂が飛び交っていたが皆は結局のところ彼の真面目でおおらかな性格や実力に尊敬の念を抱き誰もが彼に一目置いていた。
その癖、彼はいつも、シャツの襟ボタンを第二ボタンとを掛け違えて、おかしな格好をしていた、そんな一面があるというところに私はさらに好感を覚えた。
私は彼との出来事があってから数ヶ月が経った。
私は皆と普通に話すことができるようになっていた。
軽口を言い合う程度の友人が何人もでき、誰も私のことをバカにしたりしなくなった。
まあもちろん陰ではそういう動きもあるかもしれないが、彼に認められた女ということで私の白髪女というレッテルは貼り替えられ、私への誹謗中傷を表沙汰にはできなかったのだろうと思う。
そして、私は彼に惹かれていた。
他の女子たちと同じように彼の一挙手一投足ごとに黄色い声を上げるような真似はしないまでも、彼の挙動にいちいちドキドキと胸が高鳴ったのは告白しておく。
だから、常に彼と一緒にいたいと思ったし、いつだって彼との会話を望んでいた。
自分がここまで図々しいとは思わなかったくらいに、私は積極的だった。
彼は部活動をしている上、生徒会にも仕事があるため、とても忙しい人だったが…私はその定休日などを聞き出した。
そのたんびに彼に「一緒に帰りましょう?」と言った。
そうすると、彼は面倒臭そうにほおを人差し指の先で優しく引っ掻きながらも、「いいよ」と言ってくれた。
そうして、私はより彼に近づいた。
彼はなかなか無口で、あまり表情を変えない人だった。
腕を歩く時に少し人より大きく振る。
たまに第三ボタンと第四ボタンとで掛け違えてしまっている時もある。
彼の声は近くで聞くと、なんだか深みのあるいい声で意識を特別に向けたりしなくとも、スーと心に入り込んでくる。
近くで見ると、というか見上げると、今更ながら彼はかなり背が高い。
肩はがっしりとして、力強そうで、制服の膨らみ具合の少ないところから察するに、ほとんど無駄な肉はないんじゃないかと思われた。
風が吹くたび、彼の方から柑橘類系のいい匂いが私を包んだ。
私は幸せだった。
ああ、これまで苦労して生きてきた甲斐があったと本気で報われた思いだった。
彼といると、すごく楽しい。
特別に会話をするわけではないけれど、ただ、横に並んで帰っているだけでその日の疲れとか気苦労とかはすっかりなくなった。
ずっと陽だまりの中にいるみたいに、心が奥の方からジーンと暖かくて心地いい。
彼のことが、好きだった。
ある時、私は彼に告白することを決意する。
高鳴る胸を押さえつけて、いつも通り彼に声をかけた。
「一緒に帰ろ?」
「しょうがないな…」
彼はいつもと同じ返事をいつも通りの表情でする。
右ほおを軽く人差し指で引っ掻きながら。
そうして、私たちはいつものように学校の正門からでていく。
違いといえば、私の心境くらいのものだった。
彼を意識し過ぎてまともに話しかけられそうにない。
さっきまでとは大違いだった。
心臓の鼓動が早過ぎて、激し過ぎて、今にも破裂しそうである。
「あ、あの…さ、ちょっと聞いてもらってもいいかな?」
なんとか口をついてでた言葉はなんともスマートとはいいがたいものだった。
彼はいつだって静かに私の話を聴いてくれる。
そんなことわかっていることなのに、なんでいまさら聞いてくれる?なんて…。
「…ああ…どうしたの?」
彼は眠そうにあくびを一つしてから静かに答えた。
私はこんな風に自然に人の望む動作が行える彼に感謝しつつ、恨めしくも思いながら彼を見上げた。
彼の黒髪が風に揺れていた。
その風に乗って桜の花びらが校庭の方から流れてきて、フッと彼の髪に舞い降りた。
なんだか、漫画の主人公みたいに格好良くて、でも気取ったりしてはいないところがとても素敵で、思わず恥ずかしい言葉を口に出しそうになった。
かっこいい…と。
あれ?でもそうしたら、これから私が言おうとしてることもかなり恥ずかしいことなんじゃ…。
まあ、でも、こればっかりは譲れない。
伝えたい、彼にもっと近づきたい、もっと私を見て欲しい、もっと…もっと…だから、私は口を開く。
「あの…ね、私…その、あなたのことが、す、好きなの」
「え、ああ、うん…て、へ?どういうこと?それ本気?」
彼はあからさまに驚いた顔をした。
あまり表情の浮かばないポーカーフェイスを私の言葉が破ったのかと思うとなんだか嬉しかった。
でも…答えが、答えが返ってきてない。
「ね、ねぇ…どどど、どうなのよ、あなたは?」
自分で言っていて可愛くないと思った。
きっとこういう時は黙って頷いたりしたらいいのだろうとも思う。
だけれど、私はそんなことを無意識にできないし、意識してもできない。
恥ずかしすぎて、直ぐに答えが知りたかった。
楽になりたかった。
ただ、そんなことを思う不器用な子供だった。
なのに、返ってきた言葉は予想をはるかに裏切るものだった。
「はああ、つまんねえ…どうして最後にはこうなるのかな…全く、どうしてどいつもこいつも果てはお前もこんなにつまらないんだろうな?」
「………へ?」
あまりの緊張に耐えかねて目をつむった私の耳に入ってきたのは醒めた感じの声。
いつもの彼とはまるで違う、無気力で無機質でそれでいてどことなく嫌な感じの声だった。
「お前は、お前だけは違うと思ったのによ。お前、あの一件があるまで、俺のことをまともに見もしなかったろ?男子になんか興味ありませんって感じでさ。俺、そんな女を見たの初めてだったんだ。期待したよ。こいつなら一生俺のことを意識せずに、嫌、むしろ関心すら持たずにただ、無機質で醒めた目でみてくれるんじゃないかってな」
「………」
なにも、言い出せない。
目の前にいる男子生徒が彼の皮をかぶった全くの別人のように思えた。
「それにお前、鈍感だろ?そのせいで、お前結構人気あったのにあんな目に遭ったんだよ。みんなあまりに相手にされてなくてプライドやらなんやらが傷ついたんだろうさ。中学生なんてそんな程度の精神力さ。それに、奴らは『何か変わったもの、自分たちと違うものは排除すべき』というゴミみたいな価値観の上に立っている、下等生物だ。お前はその下等生物にとっての排除すべきものに選ばれちまったってことさ。まあ、その髪のせいもあるだろうがな」
「こ、答え…は?」
私は混乱する頭の中で一つだけ確かな言葉を紡ぐ。
「答え?はっ!そんなの聞かなくてもわかるだろ。お前は結局つまらない女だった。さようなら、シラガのスノウさん」
彼はさも当然のことを言ったかのような顔で私の心をズタズタにすると、足速に通学路の先の商店街へと姿を消した。
「.う、う、うそ…だよ。う…そ…」
誰か、嘘って言ってよ!
ねえ、ねぇ、ね…ぇ…グスン…ヒッグ…。
私は半ば放心状態で彼の背中を目で追っていた。
私の心は、やっとのことで彼という接着剤でつなぎ合わせていた心が、壊れた音がした。
目に映るもの何もかもが意味をなさないように見える。
どうして桜は咲いているの?
どうして人は歩いているの?
どうして学校なんかに通ってるの?
どうして生きているの?
どうして道があるの?
どうして…私は生まれてきたの…?
ただ、そんな意味のない、意義のない、利益のない問答を繰り返す。
私の中の希望が一気に、一瞬で、すべてなくなった。
植物を根っこごと無理やり土からむしりとるみたいにぽっかりと空いてしまった穴。
私は不完全な存在となってしまった。
大事なピースが抜け落ちた不良品のパズルみたいに。
そして、そのピースは…彼はきっと戻ってこない。
二度とはまらない。
いや、もしかしたらもともとはまるはずのない間違ったピースだったのかもしれなかった。
決してうまくはおさまらない規格外の代物だったのか。
それを無理やりに私がはめ込もうとして、結局うまくいかなくて、弾けてしまったその衝撃に今の感覚があるのかもしれない。
でも、いまさらそんなの…どうでもいい…。
ただ、痛い。
痛くて仕方ない。
こんなことなら会わなきゃ良かったんだ。
知らなきゃ良かったんだ。
初めから彼が向こう側だったら良かったんだ。
そうしたら、私は負けていたかもしれない、さらにたくさんの涙を流していたかもしれない、自分を嫌いになっていたかもしれない、でも、その方がずっといい。
信じたものに、すがったものに、好意を向けたものにこうやって裏切られるのが一番辛いんだ。
その証拠にほら…
「涙も…でてこないよ…」
漏れ出した言葉はあまりにも醒めていて、桜舞い散る景色には少し冷たすぎて桜と同じように地へと落ちていくのかと疑ってしまうほどに重たかった。
それでいて吐き出しても、ちっともスッキリしない。
その上心どころか身体のどこを調べても軽くなんてならなかった。
ただ、自分が辛いだけ。
ただ、楽になりたかっただけ。
私には…そんなものすら…
「…手に入らないのかな…」
また、漏れ出した言葉
また、沈んでいく言葉。
笑えもしない、泣けもしない。
私は…今の私は…欠陥品だ…。
身体が震えた。
醒めたと思った頭がやっと悲しみを認識し出した。
頭の中を舐め回すように隅々までツーンと冷たいものが走り回る。
すっかりダムが決壊して、あとからあとから涙が溢れた。
風景が歪み、すっかり変わってしまった。
さくりの花びらさえピンク色じゃあない。
真っ暗で、真っ白で…。
「ああ、うぅ…ぁぁぁぁ…」
嗚咽が漏れ、悲しみに歯止めは効かなかった。
目の前の景色はさらにぐるぐる色を変えて、最後には真っ黒な怪物になった。
私の二倍ぐらいの背丈を持つ怪物はその大きな口をガバッと開き、私に近づいてくる。
でも、私は身体が麻痺したかのように動けずにいた。
鈍く光る黒色の牙が迫ってくる。
私を貫こうと、殺そうと、食べてしまおうと…。
怪物の口の中が嫌でも目に入る。
邪悪な黒、紺色や濃い紫や緑、暗色のオンパレード、どんな光でも救いようのないような底なしの闇。
それを見た私は思った。
怖いとか、恐ろしいとか、そんなんじゃないくて…
ただ、ああ私を包む世界はこんなにも邪悪で暗くて救いのない地獄みたいなんだ。
と。
そして、そんな世界にいたってなんにも楽しくない。
そんな世界になのんためにいる必要がある?
それに、どうしてこんな世界が存在するのか?
そう思った。
だから、きっと身体が麻痺していなくとも、私は避けないし、逃げないし、あがいたりしない。
もうたくさんだから、もう十分苦しんだから、だから、もうこれ以上抵抗したって意味ない。
いっそ飲み込まれて楽になろう。
そうしたら、もっと楽しいはずだ、もっと気分がいいはずだ、もっと…もっと…
私は気がつくと、自分から闇に手を延ばしていた。
連れて行ってと。
取り込んでしまってと。
私は本気で決意していた。
身を任せていた。
でも、私の手をとったのは闇ではなかった。
「どうしてそんな変な格好で泣いてるの?」
私はハッとして前を見た。
歪んだ世界はとうに消え去って、私の目の前には彼がいた。
私よりも少しだけ背の高い、男の子だった。
黒い髪に黒い瞳。
どこか女子のようにも見えてしまうような端正で中性的な顔立ちをしていた。
その顔に好奇心と不審の色をごちゃまぜに浮かべていた。
見慣れないひとだな…。
こんな美少年であれば記憶に残らないはずがない…。
あれ?制服が違う…パルディア学院の人か。
「おーい、大丈夫?」
パルディア学院の生徒と思しき男の子は今度は心配の色を浮かべて言った。
「ああ、ええと、大丈夫、大丈夫」
慌てて答えた。
これでは頭がおかしいひとだとか疑われそうな状況であることにいまさら気がついたのだ。
私なら、道のど真ん中で虚空を掴むように手を思い切り伸ばしているひとを見かければとりあえずそういう認識になるだろうと思う。
伸ばしていた手を急いでシフトし、肩の辺りの髪をいじる。
ごまかせただろうか?
「フーン、それならいいんだけど…それに君さっきまで泣いてかった?」
な、泣いているとこから見られてた!?
「い、いつから見てたの⁉」
「いつからって、最初からだよ」
最初から?
最初からってどこー?!
私の頭は完全にパニックに陥った。
悲しみなんて何処かへぶっ飛んで、どうこの状況をくぐり抜けるかに頭をフル稼働させる。
「さささ、最初からって、いつよっ!」
彼に迫った。
その間合いはだいたい三十センチくらい。
「ちょ、近いって…だから君が学校から男とでてくる時からだよ」
「へ?……え、ええええぇぇぇ⁉」
私が校門から男と出てくるとこって…
「全部じゃない!最初から!」
「だから最初からって言ったろ?」
「ああ、そういうことねって…そんな風にながせないわよ!」
「わかった。わかったから、とりあえずもう少し声のトーン下げて」
彼がシーっと人差し指を唇の前で立てながら言った。
私は言われて、その言葉の意味を察すると、恐る恐る周りを見て見た。
すごいことに通りを歩く民間人や生徒達のほとんどが私達を注視していた。
「こ、こんなことになってたとは…恥ずかしい…」
私はすぐさま音量を下げ思ったことをそのまま口にする。
「あんた気をつけないと不審者扱いされるよ?いつもそんな甲高い声で話してんの?」
「え、いや、ええと…そんなにうるさい声だった?」
「悪くない声だけど、ちょーっと大き過ぎかな」
「そっかぁ…」
「うん…」
「で、あんたは何か私に用事でも?」
「いやいやいや、知らないひとに用事がある人なんていないでしょ?」
「そう?もしかしたらあなたが遠い私の知り合いかもしれないし」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、なんなの?」
「いや、その…ほら、なんだ、ちょっと、ね…」
「そんなんじゃわからないわよ。どんな名探偵だってそんな手がかりからじゃ答えにたどり着けないわ」
「じゃあ、迷宮入りでいいや」
「フフフ。なによ、それ」
私は彼の物言いがあんまり面白くて笑っていた。
無意識にほおが緩んで唇が歪む。
「…よかった…やっと笑った」
彼が何かを呟いた。
しかし、小さ過ぎて聞こえない。
「うん?どういうこと?」
「いや、なんでもないよ。じゃあ、これで失礼するよ」
男の子はじゃあ、と手を上げると華麗に回れ右をして、私の通学路の方へと歩き出そうとした。
「いや、私もそっちから帰るんだけど!」
彼を呼び止めるように私は少し声を張った。
「そうなの?」
彼が振り向いた時には私は彼と肩を並べるように歩いていた。
「ん?」
彼は不思議そうな顔をして首をかしげた。
そうしてから、彼がさらに首を回すと、私が視界にはいった。
「うわぁ!………びっくりしたぁ…瞬間移動?」
「うん、まあそんなとこ」
「ええっ⁉」
彼があからさまに驚いた顔をする。
彼はとても表情の変化が大きいタイプの人なのだろう。
目をパチパチと何度も瞬きをしてから、私のほおをいきなりつねったりした。
「痛いっ!なにするのよ。いきなり」
「いやぁ、まさか現実だったとは…」
「そういうのなら自分で確認しなさいよ!それに、夢に知らない人がでてくるはずないじゃない」
やれやれと首を振ってやった。
すると、彼は一瞬何か考え込むように力強く目を閉じた。
「………どうしたの?」
私が問いかけると、彼はカッと音がするくらいに強く目を開いた。
「白昼夢ってやつだ!」
おいおい。
私は驚くというより呆れた。
「びっくりしたぁ…そんなに真剣に考えなくても…」
「うーん、確かに。立ちながら寝るなんてできないしなぁ」
彼が真剣な顔でしょうもないことを考えているのをみるとなんだかおかしくて自然に笑っていた。
「フフフ、なんか子供っぽい…」
「ひどいなぁ、子供っぽいってなんだよ君だってまだ子供だろ」
「いい意味で」
「いや、意味わかんないし…」
「ところで、あなたはパルディア学院の人?」
彼の制服を指差しながら聞いてみる。
「ああ、うんそうだよ。君は?」
「私はパスワール…て、さっきまで校門の前から出てくるとこ見てたんだからわかるでしょ」
「うん、まあそうだね」
「ねえ、ところで、なんで私に声かけたの?」
「へ?いや、だから、それは…その…」
「ねえねえねえ」
彼に詰め寄る。
だいたい距離は十五センチくらい。
嘘をつけない距離だ。
「ふぇ…その、あの、き、君が…悲しそう…だったから…」
彼の目がひたすら私から逃げようとしているが、その瞳は嘘に揺らいだりしていない、真っ直ぐなものだった。
「………」
黙り込むしかできなかった。
もし、私が仮に通りで泣き崩れた人や、しゃがみ込んで嗚咽を漏らしている人を見たら、声をかけるだろうか?元気づけようとだろうか?
しない、というか、できない。
他人に声をかけるなんて怖いし、相手の悲しみに飲まれそうになるかもしれないから。
でも、彼は平気でやってのけてしまった。
どうやって?
私は彼から目を逸らせずにいた。
知りたい。
好奇心が炎のように燃え上がって、それを鎮火するには真実を掴むしかなかった。
そんな私の前で彼は女の子のようにもじもじと両手を前で組んで顔を赤くしながら語り出す。
「笑っちゃうでしょ?うちの父さんの教えでさ…悲しんでる人とか、苦しんでる人っていうのは、誰かが手を差し伸べてくれるのを、待っているから、そういう人を見かけたら迷わず声をかけて笑わせなさいって。だから、人と話すの苦手なんだけど、逆らうのもあれだし…って感じかな」
私は心の底から感心した。
なんていいお父さんなんだろう?
それに、その教えをしっかりと実行できる彼もまた、すごく素敵だ。
たとえ、どれだけ厳格な親を持ち、逆らえない状況下にあったとしたって、学校の登下校中という親には観測され得ない時なら破ってもよいと考えるのが普通だ。
であるのに、彼は律儀に親の教えに逆らうことなく、それを行い、たった今成功させている。
すごい人だ。
それは親に従順な坊ちゃんということではない。
不可能を可能とすることのできる素晴らしい行動力の持ち主だということである。
現に、彼の瞳には父親への尊敬のような感情と同時に、強い彼自身の意志が感じられた。
「すごい…」
「え?」
「すごいよ!あなたのお父さんも、あなたも」
「?」
「そんなこと、とても真似できないよ!すっごくいい考えだとは思うけど、とてもできないよ!」
「⁉」
「そういうのって、すごい!」
私はただ、心からの彼に対する賞賛の意を告げた。
彼は本当にすごい。
それと同時に彼に自分が惹かれているのがわかった。
彼の浮かべたハニカミ笑いですら輝いて見えた。
もちろん彼はとんでもない美少年だけれど、そんなところじゃない。
彼の内面に惹かれた。
彼はおそらくお父さんに言われたことをそのままやってのけるほどの社交的な性格ではない。
今の彼がそれを証明しているし、先ほどの彼の様子や言葉を思い出して見ると、その結論が一番辻褄が合う。
きっと彼も、私が想像したように怖かったのだと思う。
でも、その壁を超えてしまった彼は…かっこいい。
「うわぁ…嬉しいな…そんな風に褒めてもらったのは初めてだよ」
彼が恥ずかしさと底なしの喜びを含んだとびきりの笑顔を咲かせた。
それは、見ているこちらまで思わず笑顔になってしまうような、とても幸せそうで、なにより本物だった。
それは私がとうの昔に置いて来てしまったものだ。
思わず見惚れていると…
「か、顔近いし…そんなにジロジロみるなよぉ…」
彼の顔がみるみる赤く染まり上がり、完熟トマトみたいになった。
「え、ああ、うん、ごめん」
彼に言われて我に返ると急に十五センチくらいの距離が恥ずかしく感じて顔を離した。
そうしてから、自分がいつからこんなに積極的になったのかと驚いた。
そんな私をよそに、彼はまだ赤い顔で自分の右手へと目を走らせるてから、慌てて口を開く。
「あ、まずい⁉もう行かなくちゃ…」
彼がじゃあと手を上げた。
私もそれに従うように半ば反射的に手を上げた。
「うん、また、どこかで」
私の言葉と共に彼は走り出す。
そうしてすぐに加速して行く。
たくさんの歩行者の合間を縫うように走っていく。
もうすぐに見えなくなってしまいそうだ。
私は大切なことを忘れているような気がしていた。
彼が先に進めば進むほど、私から離れていけばいくほど。
そうして、彼がまだ見えるかな、くらいの位置で思い出した。
口に両手をあて、他人の目も憚らずに思いっきり叫ぶ。
「名前ー!あなたの名前はー!!!!」
「…カイ・ルート!!!君は!!!」
彼は私の言葉が聞こえたようで、少しの間だけ立ち止まって答えてくれた。
周りから『大声出すんじゃない!』とか、『親の顔が見て見たい!』とか、『青春だねぇ』とかたくさんの言葉が飛んでくるけれど、彼の言葉だけが私の頭にはっきりと響いたんだ。
だから、私も彼に答える。
「スノウ!!!スノウ・ラクサーヌ!!!!」
彼に私が叫んだ言葉が聞こえたのか聞こえていないのかわからないまま、彼は人に埋もれて、私の目の前から姿を消した。
彼の見えなくなったあとも私の瞳はしっかりとまた、さっきまでと同じ世界を見られるようになっていた。
彼のおかげで自分を見失わずに、負けずに、すんだ。
本当に助けられた。
「カイ・ルート君かぁ…」
私は忘れないように、ノートにメモ書きするように、心に刻みつけておけるようにつぶやいた。
それから、彼とはずっと会うことはなかった。
まあ、私に勇気さえあればパルディア学院に出向いて彼の元を訪れるという手もあったのだけれど、そんな行動力や勇気は私にはなかった。
ただ、会いたいという欲求だけが私の中にたまりに溜まっていくだけだった。
だけれど、そんな私の願いはある時、唐突に、叶えられることとなるのだ。




