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the third  作者: 深雪
27/83

24解かれた鎖と壊れた理想

血肉やら臓物やらの生臭い匂いが鼻を刺す。


と同時に糞尿の独特の悪臭があたりに漂い、空気を濁らせていた。


寄りかかって手をついてしまった壁には一面にベットリと赤黒いドロドロとした液体が貼り付くようにある。


その中にはまだ真新しく赤々と生々しいものもあった。


それは、人も魔人もハーフも関係なく身体に流れていたはずの血液、生きるための必需品だ。


それが、死に絶え、生かすものから汚すものへと変わり果てていた。


また、ここに流れる空気を吸い込めば、ものの数秒で肺が汚される感覚というものを知ることができる。


ここの淀んだ空気は一度だって換気されたことなどなく、淀んだまま、汚れたまま、ただそこに漂っているのである。


それらを生きるために日々吸い込むものたちのことを思うと想像を絶する。


一日一食しか与えられない食事は干からび、歯が立たないまでに硬くなったパン一切れと灰色の変な粉末の浮かぶ液体のみ。


トイレは備え付けのものを。


ただし、どれも皆詰まってしまっているのだが、直される気配はない。


流れないのだから、そのブツはそのまま残るしかないわけで…その汚臭もまた絶えず空気中にばらまかれる。


どの点をとったとしてもとてもではないが、人の生きていける環境ではない。


だが、これが監獄塔タワーオブホワイトの真実だ。


表に見せる白は中身の穢れを隠すためのマントだ。


外から見ればどうしたって上記のようなことが行われているとは思われないだろう。


外から見えるのは偽りの美しさだけ。


窓のない塔の中は決して覗き見ることができない。


だから、誰も彼も知りようがないのだ。


この汚臭を、この痛みを、真実を。


なんと恐ろしく、なんと許し難い。


なんて思ったりするのは同族同士だけでいいだろう。


そんなことを思いながら俺は目の前の一つ鉄柵の一つをひっつかんだ。


右手にまたしてもあのベットリとひっついてくる血が、手のひらにこれでもかと言わんばかりに吸い付くのがわかる。


それは簡単に分厚いての皮を越えて皮膚の裏へ裏へと浸透していくようなそんな冷たさを持っていた。


元はもっと赤く、熱く、誰かを生かしていたはずの液体が今、赤黒く、冷え切り、乾きかけている。


なんとも皮肉なものである。


持ち主がいなくなっただけで、主導権を持ったものがなくなっただけで、生を象徴すると言っていい赤は黒く干からび、死ぬのだ。


そしてそれは組織にもまた同じだと思う。


俺が今いなくなればあの組織は腐敗し、やがて滅びるだろう。


これは決して過信などではない。


彼らは何も知らないのだ。


ただ、迫害を受けたから人や魔人もしくはその両方を恨み一秒でも早くその復讐を果たしたいと考えている者たち。


そんな彼らの誰に『夕暮れ時』任せられようか?


否、無理なのである。


それに俺は散々見てきた。


人と魔人、彼らへの恨みから、度々仲間内では彼らを馬鹿にするものがたくさんいる。


人は悪、魔人は悪、人も魔人も悪。


それは一見すると、迫害を受けてきたハーフにとっては大変筋の通った見方のようにも思えてしまう。


しかし、違うのだ。


ハーフの親だって人と魔人であり、第二世代であってもその祖父母には結局人と魔人がいるし、第三世代以降にとっては先祖となるはずである。


それなのに彼らが人と魔人を罵倒し、卑下し、復讐の対象としてしか価値を見出せないということは、親を、祖父母を、先祖を馬鹿にし、したに見るのと同じことだといえる。


その理論を散々使って、説得しても偏見を捨てきれず、人は悪、魔人は悪、ハーフは善としか考えられない大馬鹿者がたくさんいる。


そんな大馬鹿ものに大切な国を渡すわけにはいかない、理想を託せるはずがない。


だから、俺は理想を現実とするまで、ハーフの国を、楽園を作るまで死ぬわけにはいかぬ。


そんなことは絶対にあってはならないのだ!


熱情に突き動かされるように、鉄柵をつかんだ右手に思い切り力を込めていた。


鉄柵から生えた無数のとげが力んだ手のひらに非常なまでの痛みをもたらす。


「………ッ!」


慌てて手を離す、そんな単純な動作ができなかった。


否、できなかったのではない、しなかったのだ。


条件反射を無理やり押し込め、耐えがたい痛みにただ、身をさらす。


これで…いい。


俺はこの痛みを、この痛みでも足りないほどの痛みを、身に受けるべきなのだ。


浅はかな行動。


状況判断能力の欠如が生み出した、散々な結果。


それは誰にでもある失敗であり、破局である。


そうしてそれは誰にとってもやり直す機会のある、立ち直る機会の持てる次のステップへの第一歩であるはずなのだ。


だが、俺にとっては違う。


俺には背負っているものがある。


大き過ぎてとても一人で背負うには重過ぎて、少しでも力を抜けば、簡単に俺を押しつぶしてしまいそうなそんな荷物であり、同時に理想と大切なものがいっぱいに詰まった、宝箱でもあった。


それが今、俺自身のミスによって崩れようとしていた。


荷物は俺を踏み潰し、息の根を止めようとし、宝箱はその中身を地面へとばらまかれ、大切なものにはヒビが入ってしまった。


全ては俺のせい。


目先に見えた近道に落とし穴があることに気づくことができなかった。


そのせいで、ずっと地道に作り上げてきたものが、遠く、俺の手元から離れ去ってしまう。


いや、違うなあ…それらが離れて行ってしまうのではなくて…


「この俺が自ら手放したのと同じことだ」


今、俺は檻の向こうを見やる。


だけれど、俺はあっち側ではないのだ。


覗き込む側ではなく、覗かれる側、自由に歩き回る側ではなく、檻の中から柵の外を眺めることしかできない側にいた。


つまり、現在俺は…投獄中なのだ。


俺は後悔の塊、トゲトゲしい痛みの伴う記憶を思い返すことしかできない。


ただ、どうしてこうなってしまったのか?と…




俺はあの魔人の男を引きずって、ここ監獄塔タワーオブホワイトの正面ゲート手前五メートルあたりに立っていた。


これから自分が起こす変革に、それがもたらすであろう両手に余るほどの幸福に、胸が躍り、高鳴っていた。


夕暮れ時と人族が組むことによって、魔人を蹴散らし、無理やりに独立の許可をもらう。


なんと素晴らしい計画だろうか?


我ながら感激していた。


機転の効いた自らの行動に、それらの条件が揃っていた幸運に。


だから、まさか失敗するなどとは少しも考えたりしなかった。


だから、男一人引きずりながらでも、足は軽く、スキップすらしそうな雰囲気で監獄塔タワーオブホワイトに入ろうとしたその時、何者かの大声が澄み切った夜霧の中に轟いた。


「私の獲物をどうしようというのです?」


おそらく、男の声だ。


成人の男の深い声。


だけれどそこには落ち着きがかけらもなくて、代わりに狂気と含み笑いの色が散りばめられて、個性的な雰囲気を完成させていた。


声のした方、後ろへ振り返り、目を凝らして見る。


だが、姿は見えない。


「私の遊び相手をどうして取るんです?もうあなたもずいぶん遊んでもらったでしょう?」


「……何者だ。場合によっては容赦しない」


低い、あたり一体に浸透するような声で言う。


あたり一体の空気が少しだけ強張っているような感じがした。


ピリピリと肌に痛いほど冷たくもある。


「私ですか?名前…ね…そんなのもう捨てました。だって思い出しちゃうから。私に名前なんて必要ないんです。重すぎる荷物は置いていかないと速くは走れないんですよ。速く走らなきゃ捕まえられないですからね。だから私のことは…そうですね…道化師とでも読んでくださいな」


ジリジリと何かがにじり寄るような音とともに声が響く。


「長い長い自己紹介だなあ。だが、あいにく道化師さんと楽しく会話している場合ではないのだ。なにぶん忙しい身なのでなあ」


「そうですか、でもねぇ、私にはあなたの事情なんて聞く気はありません。なにぶん恨みの詰まった身ですから」


ジリジリ、音が少しずつ大きくなり、近づいてきている。


「ふむ、しかしおかしなことに俺はお前についての記憶を持ち合わせていないのだが?初対面ではないのか?」


そうだ。


俺にはこんな風に変な再会の仕方をする男になど面識はないはず。


当然会ったことがないなら恨まれる筋合いもないというものだ。


もう、地面をすり足で歩いているかのような音は止んだ。


どうやら男はしかるべき所へ収まったらしい。


そのことは、男の居場所を特定できることも意味する。


次に声を出した時が最後、その正体を暴いてやる。


「まあ、そうかもしれません。でも、そうでないかもしれません。どちらにせよ、あなたが今引きずっているそれは、私の獲物でしてね。今手に入れなくてはもうチャンスはこの先こないと思われるのですよ。だから、そいつをこちらへ引き渡してはくださりませんか?」


男が音を発した。


声を上げた。


低く、深い、耳に染み込んでくるような声。


そこには先ほどまでの狂気じみた雰囲気の中に、突然烈火のごとき怒りが入り混じった。


静かな話し方であるのに、その中に含まれた言いようもない感情の渦に飲まれそうになる。


これは…俺に向けられた敵意と考えていいのだろうか?


どちらにせよ、まず、男の姿を知らなければ意味のないことだ。


だから声のした方、後方へ身体を捻じ曲げるようにして振り向いた。


その先には…やはり、見知らぬ男が立っていた。


だが、男の姿を見ることができたとて、正体が掴めたとは言えない、だからむしろ謎はさらに深まっただけ。


おそらく、予測通り三十代後半と言った所あたりの、整った顔立ちの男が俺の左斜め後ろに立っていた。


やはり、一度も面識はないと思われるその男は百八十センチほどの背丈を持つ。


黒い髪を短髪にして、前髪だけ少し長くなっている。


身にまとう黒の品のいいスーツが何があったのか傷だらけで、その所々に穴が空いておりそこから赤い液体がにじみ出ていた。


その瞳は夜、月明かりしかない中であるのに、まるで日の光を昼間から続けて浴びているかのように光り輝く。


その不思議な輝きはまるで手の出せないような値の張る宝石を思わせる。


知らない…いくら頭を捻っても彼に関しての記憶は全くなかった。


俺はすでに生まれてから十歳までの記憶を失っているから、その時期に何かあの男を怒らせることをしてしまったか?


いいや、ありえない。


十歳、またはそれ以下の頃の恨みをこんなニ三十年後までわざわざ持ってくるほどのことがあったとは思えないし、流石にそれだけ経っていれば、時間がその関係を回復してくれるはずだと思う。


そして、俺はほとんどグレースから動くことはない。


従ってもし彼と面識があるとすれば彼が夕暮れ時のメンバーであるという線が妥当に思われるが、俺はメンバーの顔と名前は全員正確に記憶しているので、その可能性はゼロ。


となると、やはり彼とは面識がないとしか考えられないのだ。


「嫌だと言ったら?」


挑みかかるように笑いながら返す。


緊張感のせいか口の中が乾いていて動かしづらい。


この際、もしもの時を考え、引きずっていた魔人の男を後ろへ放しておいた。


もう、逃げる気力も力もないだろう。


「うーん、そうですね…まあ、あなたをそこの監獄塔にぶち込んでやりますよ」


男は顔を狂気的な笑みで歪めながらも、よく磨かれた刀剣の刃先のような鋭さでこちらを睨みつけた。


なんとも器用な男である。


だが、驚くべきはそこではないはず。


男は明らかな敵意を言葉ではっきりと述べた。


その上、見やると戦闘体制。


すなわち、身構えている。


その瞬間、一気に彼の存在感が増し、あたり一体の空気を制圧して行く。


並の者ではないのは確かか…それにあの構えは…


「『選別官』だったとはなあ」


「いやはや、流石ですね?この構えを知っていらっしゃるなんて。確か我々選別官の行動は国民には公開されたことがないはずなんですがッ!」


男は構えたまま、掴みかかろう突進してくる。


だが、そんな直線的な動きで捉えられるわけがない。


ギリギリのタイミングでニメートル後方へ飛びすさった。


そうした瞬間、意表を突くことに成功したのか、男が案の定バランスを崩しかけた。


選別官など対したことなかったか…なんて慢心に浸ろうかと思った瞬間、実質的に飛びすさってからその着地するまでの一秒未満の間に、男は俺の着地地点に回り込んでいて、そのまま、脇腹に男の回し蹴りがクリーンヒットしてしまった。


「ガハッ⁉グゥ…ぁぁ…これは…一体?」


激痛と同時に頭を悩ませるは疑問符。


今のは…一体?


何が起きたのかさっぱりわからない。


全く手口がわからない以上、困惑することしかできない。


そんな俺を見下すように胸の前で腕組みした格好で男は言い放つ。


「構えは知っていらしたのに、我々の戦い方を知らないんですね?まあこれも一般には非公開ですし、今のはさすがに私クラスにならないと使用不可なものなんですがね」


俺はこれでも一介の戦士である。


奴が突進してきた時、この程度の直線的な動きなどで捉えられるわけがない、と慢心していた。


正直な所をいえばがっかりだなどと勝手に敵を品定めした。


選別官といえば人族唯一の戦士であるというのに、 警戒を怠った。


しょせん人族もこんなものか…などと言う甘い考えに浸かっていたのだ。


だが、思い返すだけ無駄なことだ、奴は闇に紛れるがごとく、姿を消し、俺の予想の範疇の外から攻撃をしかけてきたのだから。


それにおそらく体制を崩したのは布石だろう、俺が一瞬であれ、慢心するだろうと読んでいたのだ。


これでは本当に道化師ではないか、俺は彼の手のひらの上で投げられ、踊りを踊ることをしいられたお手玉に等しい。


そんな心の嘆きを今まさに口にしようとした時、目の前から男がフッと消えた。


煙のように…そこから彼という存在を消し去ってしまったかのように。


一瞬の間の後、男が不意に俺の右脇から姿を現す。


回し蹴りを俺の脇めがけて放つ。


鋭く、えぐるような、卓越した脚の無駄のない動き。


その時だけは、足が殺傷能力を持つ凶器のようにさえ見えた。


硬い靴の先が少しずつ近づいてくる。


それはとても長く、ゆったりとした時間の流れの中にあった。


あと数センチ、一センチ、数ミリ…一ミリ、ゼロ…となる前に俺はなんとか体をよじり、奴の身体をすり抜けるようにして彼の背へ回る。


引いてダメなら押してみろ!だ。


すれ違いざまに奴の顔が見える…笑っていた、とても楽しげで、それでいて俺から目を離すことはない。


たとえ、ほんの一瞬であれ、対象から目を離すものか!と言わんばかりの草食獣を追う肉食獣のような目だ。


だが、今ので少し、奴のくせがわかった。


奴は今の選別官独特な構えからなる、体術の使用時には足技を使うということだ。


さっき、凶器のように見えたといったが、本当に一瞬、そう思えてしまうほど、鍛え上げられ、研ぎ澄まされてきたものであったのだ。


あそこまでの蹴りをものにすることは常人では不可能に等しい。


武術の天才ですら、習得にはかなりの時間がかかるはずだ。


奴のスペックがつかめていないのは判断する上で厳しいが、その冴えと連発したという事実から導き出される答えは一つ。


奴は回し蹴りを得意とし、主にそれを重視して戦うスタイルだということだ。


不確定要素が大きいが、試して見る価値はある。


それに、相当自信がない限り手の内を明かすように連発したりはしないだろうから。


「へぇ、驚いた。あんた、いいよ。すごくいい。それでこそ戦士ってもんだ」


奴が満足げな笑みを浮かべつつ、すり抜けようとした方へ回し蹴りの残した遠心力を利用して体制を俺を通せんぼする形にした。


目の前にまた見上げるような大男の腹がある。


鍛え抜かれた筋骨はスーツの上からでもそれを押し上げるような迫力を見せた。


なにぶん背が低いから世間的にみれば平均身長プラス十くらいの男も俺にとっては大男となる。


そんな大男がまたしても回し蹴りをしようと利き足と思われる右脚を引いた。


鞘から解き放たれた妖刀のごときそれを、奴は身体ごとこれでもかと言わんばかりに捻り、溜めていた。


なんとまあ蹴りに特化した身体だこと。


奴が極限までその身体をひねる様はまるで絞られている雑巾のような絵だった。


どうしたらここまで自らの身体に力を溜め込むことができるのだろうか?


雑巾のような状態は見ていて滑稽と言えなくもないが、奴の放つ殺気やら何やらに当てられたおかげで、皮肉のこもった笑みすら浮かべられない。


というか、まずいな。


この距離感はマズイ。


とてもではないが避けられない。


まさか相手の背後を取ろうとしてしくじり、正面で向き合う形になるとは思いもしなかった。


その距離わずか一メートル。


奴の足は長いから、射程圏内と考えるべき距離。


そしておそらく射程圏内の中で最も奴の蹴りの威力が高くなる間合いである。


それなのに、あいにく俺は今動けそうにない。


無理に体をねじったせいでジワジワと奴の蹴りの影響が脇腹を中心に身体中を毒を飲んだかのようにけだるく、重くさせていた。


やんわりと首を締められて、その強さを少しずつ増して行くような、そんな恐怖感に見舞われる。


何をすべきか、何をしようとしたのか、まともな判断が難しい。


頭の中が閃光が弾けたかのように真っ白になっていた。




だけれどそんな頭でも、あれを使えばいくらだって勝機はあることくらいは考えられる。


いや、むしろ勝機しかやってこないだろう。


だが、ダメだ。


出し惜しみしているわけではない。


あれを使うことで身体が消耗仕切って負けるというわけでもない。


では、何かと聞かれれば、答えは一つ。


思い出が、記憶が、消えていくという代償。


それがあまりに大きすぎて多用はできないのだ。


思い出や記憶はこれから作ろうと思えばいくらだって作れるというわけではない。


この先何年生きていられるかなんてわからないし、それにいくらなんでもセピア色に未練くらいはある。


だから、流用するわけにはいかないのだ…しかしながら、このまま死んだら元も子もないから、仕方なく口を開く。


「忘却の七…神速…代償は…十一歳の思い出…」


呻くように吐いた。


身体が得体のしれない紫色の光に包まれる。


それと同時に後悔とやり切れないようなさみしさ、喪失感に心を掴み取られ、ぎゅっと握りつぶされそうになる。


また…失う。


もう十一の頃なんてほとんど覚えていない。


しかし、それでも、きっとその時の俺にとっては大切なものだったはずだ。


もしかしたら悲しかったかもしれない、楽しかったかもしれない、辛かったかもしれない、幸せだったかもしれない…例えそのうちのどれがあってどれがなくとも、逆にどれか一つだけしかなかったとしても…それは確かに俺を形作るもの。


ボス・フォアゲートという男の一ピースなのだ。


だが、緊急事態だから仕方ない、とついさっき魔人と戦った時も、カイ・ルートを救った時も、なんとか割り切れた。


しかし、その度に強烈な不安感に襲われる時もある。


もし、記憶がパズルの一ピースなどではなくて、トランプタワーのカード一枚だとしたら…。


俺というトランプタワーなど土台の一つを失っただけで全て崩れてしまうのではないか?と。


「今さら何をしたって無駄ですよ!」


左足という名の凶器が迫ってくる。


先ほどまでは洗練されたその動きに、雷の如き速度に、そこからひねり出される威力に、圧倒されていた。


でも、もうそんなものはどうにでもなれ。


俺は今、哀しいんだ。


とても、とても、それは深くて、同時に恐怖もある。


だから、ほんの少しぐらい待ってくれてもいいんじゃないか?


これも一つの別れなのだから。


でも、そうだよなあ、お前は待たない。


だから俺ももう哀しむのはやめたよ。


どんな記憶よりも、今が、今を生きることが、俺の理想を守ることのほうが、大切だから。


奴の足を素手で止める。


ちょうど奴の足を両腕で挟み込む形だ。


腕に激痛が走る。


まるで腕に雷が落ちたかのようだ。


内側からバリバリと音を立てて骨が出てくるような感じがした。


だが、それもすぐに消えた。


なぜなら、神速の力が働いているから。


神速、それが意味するは身体能力の高速化である。


それには反射速度はもちろん、自然治癒も格段に上がる。


すなわち、傷を何倍も何十倍もはやく治癒されるのだ。


言ってみれば半無敵の状態である。


つかんだ足をそのまま上下左右に振って奴の態勢を無理やりに崩し、崩れた所をそのまま地面へ叩きつけた。


もちろん頭から落ちるように。


「それが…忘却の力ですか…なるほど、確かにすごい力ですね…これがあなたの力…でもいいんですか?」


しぶとい奴だ。


地面に落下する直前に俺の腕をすり抜け、俺の背後をとっていた。


だが、そんなことは無意味だ。


今の俺には背後も何も関係ない。


自分でも歯止めが効かないくらいに、速いのだ。


後ろを振り向くと、案の定奴の顔が歪んでいた。


歪み…そこには驚き、恐怖、疑心が入り混じっている。


だけれど、決して絶望の色が浮かんでいなかったのはすごいと思う。


この身体は…速すぎる。


奴がどんな攻撃をしかけてきても、身体を真っ二つにされでもしない限り、死なないだろう。


奴がどんなに器用に身体を捻じ曲げ、避けようとしても、俺の攻撃を避けることはできないだろう。


おそらく、奴もそれはわかっているはずだ。


その上で希望の消えていないあの顔…何かを隠している。


そうとしか思えない。


そしてそれはおそらく勝利を確実にするためのもの。


「いやあすみません。まさかあなたの力がここまでとは思っても見ませんでした。どうやらなす術なしのようです」


「嘘をつくなあ!なす術のなくなった者がそう平然としていられるわけがない」


「な、なにを馬鹿な…私…今だってほら…震えてるんですよ?足とか頭とか…」


奴はわざとらしくブルブルと身体を震わせた。


なんてわけのわからないことをする男だろうか?


これで軍人だと言われれば流石に苦笑いしかできない。


まあ実力は目を見張るものがあるが…


こいつは軍人というより…やはり自己紹介の通り道化師と言ったところか。


人を食うような奴だ。


「冗談はいい…ここで死ぬか、身を引くかどちらかに決めろ。今すぐにだ」


「おお怖い!でもねぇ…私、もうわからないんですよ。生きている意味って何なんでしょうかね?どれほどの汗を流したかを思い出せないほどに、どれほど涙を流したかを忘れてしまうほどに苦労して手に入れた今を、これからの未来を、幸せを、一夜にして失ってしまったんですよ…あなたの後ろにへたり込む、その悪魔のおかげでねぇ…自分でもわからないほど、憎いんです。もう考えるだけ、自制しようとするだけ無駄みたいに辛いんです、殺したいんです、拷問して、しまくって、しよりも辛いものを味合わせてやりたい、そんな気分なんですよ。別にあなたに恨みがあるわけではありませんし、どんな事情があるかも知りませんが、その悪魔だけはこちらに引き渡していただけませんか?」


男の顔が真剣な面差しになった。


そこに浮かぶは紛れもない真実の色、こいつは少なくとも嘘は言っていない。


アランでなくともそうわかる目であった。


耐えようのない痛みに染まった瞳…見ているだけで、暗い海の底に沈められたような気分になる。


だが、ダメだ。


一人への同情のために我が理想を壊すことはできない。


「ふん、今さら命乞いか?そんなものはもっと早くにするべきだったなあ!」


「そう…ですか…私はまだ人を殺したことがないのでわからないのですが…きっと辛いのでしょうね?苦しいのでしょうね?私は人を傷つけることを禁じられて来ました。心も、身体も、他人のものであるなら大切に、丁重に扱うようにと言いつけられて来ました。そうしてそれを全うして来た。でも、私の中の何かが狂ってしまったのです。先ほど、妻を失いました、息子を失いました、幸せを失いました、将来を失いました…きっとそれが原因です。心の中でずっと自分を縛りつけていた鎖が不意に外れてしまったのです。だから今はもう、まともな判断ができません、殺せ、壊せ、傷つけろ、復讐、後悔、怒り、もうなにがなんなのかもわかりません。ただ、ドロドロとした黒いタールで心が満たされてしまっているのです。そしてなにより私はもうそれに逆らうことができません。だから、もう、手は抜けない。謝ります、今の私は道化師などではありません。ただの復讐者です」


男は狂気ともつかない笑いをやめ、長い長い、本当の自己紹介を終えた。


その痛々しいまでの悲痛な声は闇を刺し貫き、俺の心までも揺さぶった。


ただ、俺は思わずにはいられない。


この男に同情できないような者にはなりたくないと。


そしてその判断が…繋がったのだ。


理想の終わりへと…


男はいい終わると、儚げな笑みを、おそらく本当の男の笑みを浮かべ、こちらに手を振った。


「ありがとう、あなたは優しい人だ」


男の声と共にそれは地中から現れた。


それは夜には明るすぎる光、月の存在感を薄めてしまうほどの輝きを持った…鎖だった。


数百、いや数千のそれが足にまとわりつこうとする。


だが、いまの俺にはその程度の不意打ちなど朝飯前。


のはずだった…。


「早い…それに、こんなにも広範囲に…‼」


すぐさま神速状態の俺が飛びすさって避けたのにもかかわらず、方向転換し、そのままこちらへめがけて負けぬ劣らぬスピードで近づいてくる。


そうして、俺は着地しようにもできない状態にあった。


上空から眺めた瞬間に絶望にも似た感情に襲われる。


数千どころではない。このビル墓場からタワーオブホワイトまでの道中、一点も逃さず、地中から現れた鎖に埋め尽くされていた。


あたり一面、鎖の畑とかしている。


これではいくらなんでも逃げ切れない、それにもう、着地しなければならない、滞空時間を引き延ばすことなどできない。


無論、浮遊さえできればなんとかなるかもしれないが、あれは一度に一つの力しか発動できないのだ。


それに、一度、解いてしまったら、三十分は使用できない。


従ってなす術なし、完全な負けだった。


「すみません、私は昔から完璧に物事を進めないと気が済まないもので…あなたがくるまでにここに鎖を十万本ほどしかけさせてもらいました」


「じゅ、十万…だと…グ…がぁ!」


右足が捕まった。


みると、もうすでに膝のあたりをガッチリと掴まれて、抜け出すのは不可能に見えた。


そうこうしている間に左足も捕まった。


もう、抜け出すのは…無理だ…鎖が登ってくる…蛇のように、その細長いリングをくねらせて…足から腰へ、腰から腹へ、腹から胸へ…鎖が登るごとに口の中に苦い味が広がって、肺がきしむ。


「んんんあ…ああああ…ぁぁ…」


肺が潰れた…もうまともな声が出せない…。


頭まですっぽりと閉じ込められてしまった…。


息が…できない苦しい…もう…なにも見えない…ただ、消えゆく意識の中で男の声だけが聞こえたのだ。


「復讐は蜜より甘いなんて嘘ですよ。こんなにも胸が痛いんですから…」

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