めまいと勝手に回転する脳
朝、目が覚めると天井が回っていた。遊園地の空中ブランコに乗っているような心もとない浮遊感だ。 会社に行って座って仕事をしていても同じ症状が出る。(これはおかしい、ただ事ではない!)と思うとますます身体が自分自身でないように感じる。変な汗が脇のほうから滲んで出ている。
課長に事情を説明し慌てて病院へ駆け込んだ。
脳神経外科医は問診をした後、看護師に血圧を測らせた。不安になった俺は目つきの悪い看護師に「血圧、相当高いでしょ?」と訊いた。
その目つきの悪い女看護師は「後から知らせます」と愛想のない声で言った。俺はますます血圧が上がったような気がしたが、胸のうちで(この女は絶対結婚していないな・・・できるわけがない)と毒づいて気を紛らわせた。こんな女の前で倒れるわけにはいかないのだ。
彼女は「MRIで脳を調べますので、身体につけているものは全て外してください」と冷たい声で命令した。蒼い顔でフラフラしている俺はその言葉を聞いて(こいつは絶対、恋人もいないのだ!)と確信した。
MRIで検査を受けている間、俺は今後のことを考えた。きっと即入院だろう。月末に妻と初めての海外旅行に行く予定だったのにキャンセルだ。(行き先はもちろんハワイだ)彼女は怒るだろうか? いや妻は優しい性格だし、俺のことをいろいろ言っても愛しているだろうから、旅行よりも俺のことを心配してくれるはずだ。(目つきが悪くて性格も悪いあの看護師とは違うのだ!)
それから入院費は大丈夫だろうか? すぐに手術をするのだろうか? 医療保険は入院初日から支給されるのだろうか? 頭の中がぐるぐる回っているわりには、いろんなことを考えてしまう。俺はこう見えても繊細で心配性なのだ。
検査が終わり俺は医師の前に緊張の面持ちで座っていると、脳神経外科医はMRIの写真をみながら「問題ありません。出血もしていないし腫瘍らしきものもない。血圧は上が140で下が100、年齢のわりには高めです。血圧を下げるよう食事に塩分を控えるよう気をつけて、それから運動もするように」と俺の下腹部を見ながら言った。
俺は医師の話を聞いて、目つきの悪いあの女看護師が明らかに俺に嫌がらせをしているのだと確信した。血圧値がたいしたことがないのなら、そう言ってくれれば患者は安心するのに! 俺はあの女を人権擁護委員会に訴えるべきではないかとも考えた。
そして拍子抜けした俺は医師に訊いた。「どうしてめまいが起こるのでしょうか?」「多分耳の方の病気かもしれないねぇ。耳鼻科に行ってみたら」と彼は答えた。そのとたん俺の身体は妙にすっきりした感覚を取り戻した。身体を包む変な違和感も消失していた。 俺は急いでかかりつけの耳鼻科に行った。 主治医は「またアレルギー性鼻炎ですかぁ」と鼻にかかった甘ったるい声で訊いてきた。そうなのだ、俺は4月と10月と2月に鼻炎がひどくなる。しかし今日は耳の話だ。俺は主治医に事情を説明すると、彼は濃い眉をピクピクさせて「じゃあ、聴力検査をしましょう」となぜか嬉そうに言った。
聴力検査が終わると主治医は、「左耳の聞こえが少し悪いですねぇ。左耳の末梢神経の機能が少し落ちているので、それでバランスが崩れてめまいが起こったのでないでしょか。薬を処方しておきますので、一週間それで様子を見てください。あっ、それから鼻炎の方もね、ちゃんと処置しなくちゃ。鼻洗してね」と愛想よく言った。
俺は主治医の話を聞いて、歳をとると身体のいろいろな機能が衰えてくるのだと妙に納得した。それから旅行をキャンセルしなくてよかったと思うと(何しろ人生初のハワイ行きなのだ)妻の笑顔が浮かんできた。
俺のように仕事ができ結婚できる人間は、自分の身体より妻の笑顔が大切だと思っている。だが、あの目つきが悪くておまけに性格も悪く恋人もいない、そして結婚もできない哀れな女看護師には1万年立っても地球が滅亡しても、きっとこのことが理解できないだろう。そうだ、そうに決まっている。 俺は薬をもらい、その耳鼻科を出ると、4月の生暖かく柔らかな風が俺の前髪を揺らした。あの女看護師は今も薄暗くて冷たい病院で血圧を測ったり、患者に感情のこもらない言葉を投げかけていると思うと、少し可哀想な気がした。しかし次の瞬間俺は、その冷たい眼差しを脳裏から振り払い、帰りにハワイ旅行のために本屋に寄ろうとと考えた。
書店の旅行コーナーは広く、何人もの人が熱心にガイドブックを見ている。みんな旅行に行くぐらいしか、やることがないのだろう。俺はそのうちの一人、イタリアのガイドブックを呼んでいる女性に目が留まった。ワインレッド縁の小さな眼鏡をかけ、肩まで緩やかにウェーブをした髪がおりていて、シックなワンピースをお洒落に着こなしている彼女は、あの目つきの悪い(と感じた)看護師だった。彼女の形のよい左手の薬指には小さな指輪が銀色の光を放っていた。俺はしばらく放心したようにその美しい姿を見つめていた。