娘の入院
「娘の入院」
娘が胃潰瘍で入院した。幸いたいしたことはなく二週間くらいで退院できるという。午後から仕事を休んだ。付き添いの妻と交代するためだ。「ちょうど今眠ったところなの。私はまた夕方来ますから」 そう言うと妻は何となく急いだ様子で部屋を出て行った。
娘の寝顔を見るのは久しぶりだった。少し青白い感じがしたが、特別顔色が悪いというほどでもなく安心した。それよりも思春期の微妙な年頃の娘の寝顔を、まじまじと見てよいのだろうか。しかし娘は父親のそんな心情など知るはずもなく深く眠っていた。身動きひとつせず、寝息もほとんど聞こえない。よほど疲れていたのだろう。
いつも元気でやさしくそれでいて知的なユーモアもあり、悪いところを探すのに苦労するくらいの自慢の娘だ。もちろん多分に親の贔屓目が入っているが、それでも中学二年とは思えないほどしっかりしているし、自分の娘ながら感心させられることも多々ある。
そんな娘が胃潰瘍で入院するとは正直少しショックだった。
娘が眠っている間、読みかけの小説を読もうとしたがなかなか集中できない。病室は読書に適していないのかもしれない。窓の外の景色を見ても、すぐ飽きたので病院の散策にでかけた。しかしここはそれほど大きな病院ではないので、たいして時間もつぶせなかった。病室に帰ると娘は目を覚ましてた。「パパ、大事な娘をほっぽってどこ行っていたの?」
娘はほほを膨らませていたが、ショートカットからのぞくつぶらな瞳は笑っていた。
「いやぁ、あんまり奈緒が気持ちよさそうに眠っているから、邪魔しちゃ悪いと思ってね」
「あーっ、やっぱり見られた。パパ、年頃の娘の寝顔を見るのは犯罪行為よ。罰金、罰金」と彼女が腕を伸ばしたときドアが開いた。
「奈緒、大丈夫!」
「どう、調子は?」
黄色くけたたましい声に包まれて、娘の友だちが数人入ってきた。たちまち彼女ら独特の世界がつくられたので、私はしばらく退散することにした。
ロビーで少し古い週刊誌を読んだり、自分にはほとんど関係のないテレビ番組を眺めたりしていた。一時間ほどすると娘の友だち達が階段から降りてきた。私を見つけると「さよならー」と言いながら会釈をして帰って行った。
私は病室に戻ると娘はベッドの背もたれにもたれてぼんやりとしていた。
「久しぶりに友だちと会って楽しかっただろ」と私が訊くと「疲れちゃった・・・」と意外な言葉が返ってきた。
見ると娘は本当に疲れた表情をしていた。「やっぱり体調が悪いとき友だち付き合いはしんどなぁ」私は少々混乱した。
「奈緒、さっき来てくれた友達はみんな仲のいい子だろ?」
「そうだよ、だけど本調子じゃないときの友達づきあいは神経使うし相当疲れるの」
「神経使う? 仲のいい友だちに神経使うのか?」
「うん」
「そんなにしんどかったら早目に帰ってもらったら、よかったじゃないか」
「パパは全然わかってないなぁ」
私はどうやら全然わかっていないらしい。二人ともしばらく口をきかず、呆然としていた。
「ねぇパパ去年の夏だったかな、例のカキ氷事件」
「ん?」
「私と友だちが家の近所でカキ氷を食べたとき、お皿の底の方に砂が入っていた話。そしたらパパが今度行くときはだんご虫を入れてクレームつけて、ただにしてもらえって言ったじゃない」
「ああ、そんな話したなぁ」
「そしたらママが怒って、そんな時はちゃんとお店に砂が入っていることを言わないとその店のためにならないって言ったの」
「そうだったかなぁ」
「私あの時のパパの話、ナイス! と思って聞いていたのよ」
娘は嬉しそうにそのときの会話を思い出しているようだった。
それからしばらくすると急に真面目な顔をして、私の顔を真っ直ぐ見つめた。そしてきっぱりと言った。
「ねぇ、パパ、お願いがあるの。私ピアノ辞めたいんだ」
「えっ、どうしてだい? 奈緒のピアノは学年で一番うまいって聞いているし。ママも奈緒のピアノ、自慢の種だぞ」
「わかってる。でも私もうピアノいいかぁって思ったの。私結構うまく弾けると思うけど、実はこれまで心の底からピアノを弾きたいと感じたことは一度もないの。部活もあるし塾もこれまで通りちゃんと行くから。ね、お願い」
今日は娘から意外なことばかり聞く日だ。楽器が全然弾けない私から見れば、娘の手は魔法のようだ。妻も当然反対するだろう。
しかし娘はどうやら私たち大人とは違った世界に住んでいるらしい。学校で長時間授業を受け、友だち付き合いに神経をすり減らす。部活ではバスケットのレギュラーをこなし夜は塾通い。そして胃に穴をあけたのだ。疲れ果てて眠り込んでしまったのだ。ピアノなんか習わなくても娘は娘なのだ。
「わかった。奈緒も少しは余裕をもたないと大変だよな。今回のこともあるし」
「ホント!でもママを説得できる?」娘は不安そうに訊く。
「大丈夫だ、多分・・・。ママも奈緒のこと一番に思っているし」
「そうだねー」
娘は嬉しそうに微笑んだ。私もそれにつられて少し笑ったが、脳裏には妻の不機嫌そうな顔が浮かんでいた。
「パパ、ほんとに大丈夫?」
勘のいい彼女はいたずらっぽい表情で再び訊いてきた。
「奈緒、パパを信じなさい」
私はそう言いながら、愛する娘を守るためには愛する妻と戦わなければならないこともあるのだ。家族というものは相当に複雑だ。
腕時計を見ると、もうすぐ妻が来る時刻だった。