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となりの場所と交わるとき  作者: 西野了
29/30

青と緑の竜石 3.共鳴する竜石

 そのあとの僕の記憶は曖昧だった。いつ自分のアパートに帰ったのかさえ覚えていなかった。だが気がつけば僕はパジャマに着替え布団の中で寝ていた。朦朧とした意識の中、目を開けると心配そうな片桐さんの顔があった。

「気分はどうですか?」

 僕は自分の置かれている状況が理解できなかった。上体を起こそうとしたが、体がやけに重く感じた。片桐さんに背中を支えてもらいながら、何とか上体を起こし周囲を見た。僕の目に見慣れた家具が映りゲージの中には緑色のドラが映った。ここは自分のアパートであることは確かだった。

 片桐さんはどこから見つけてきたのか、厚手のナイトガウンを僕の背にそっとかけてくれた。

「今、土曜日の午後三時です」

「えっ?」

「高田さん、昨日の夜というか正確には今日の午前一時にですけど、私と待ち合わせたこと覚えていないでしょ?」

 片桐さんは悪戯っぽくそう言った。僕は彼女のその表情を見ると、自分の体が軽くなるような感覚があった。

「このアパートの近くのファミリーレストランで待ち合わせして。それで高田さんがレストランに入ってきたときの顔が真っ青で、ものすごく体の調子が悪そうだったので」

「じゃあ、それからずっと看病してくれたの?」

「すみません、勝手に上がりごんじゃって」

 彼女は上目遣いで申し訳なさそうに謝った。

「とんでもない。こっちこそすみません。ご迷惑かけちゃって」

 僕は片桐さんと話していると、かなり意識が明確になり気分もよくなってきた。

「高田さん、お腹すいてません?」

 彼女にそう言われて、僕は急に空腹を感じ始めた。

「そういえば少し、いやかなりすいてます」

 片桐さんは僕の返答を予知していたかのように、手狭な台所で何か作り始めた。僕は彼女の紺のジーンズと白いトレーナー姿を何も考えずに眺めていた。ケージの中ではドラがのそのそと動き回っていた。こいつも何やら嬉しそうだった。


 一週間後、僕は愛車で例の海岸線を走っていた。夏の匂いを含んだ風は心地よく、昼下がりの陽射しは真っ直ぐ地面に降り注いでいる。助手席には白いワンピースを着た片桐さんが座っている。このドライブを提案したのは彼女だった。

 ちょうど三日前の夜、僕の携帯電話にメールが届いた。

「今度の土曜日、ドライブに連れて行ってくれませんか?」

 彼女はやはり電話での会話が苦手なのだ。僕たちはメールでやり取りをして、今回のデートとなった。

 ただ僕が不思議に思ったことは、片桐さんが提案したドライブのルートだった。景色のいい初夏の海岸線を走るのは爽快な気分になるのでで納得したけど、問題は次のコースだ。彼女は、なんと先日僕が冷や汗をかきまくった、あの恐怖の場所に行こうというのだ。

 僕は片桐さんとドライブすることは二つ返事でOKしたが、あの迂回路を通るのは気分が乗らなかった。いや本音を言えばあの場所には二度と行きたくなかった。だが彼女の前で恐怖に怯える臆病な人間になりたくなかった。だから結局彼女の提案を受け入れてしまった。

 僕はドライブの道すがら、「あの女」のことを片桐さんにぽつりぽつりと話した。「あの女」は忘れた頃に僕の視界の片隅に出現すること。その顔をいつもは思い出せないこと。歩道橋で遭遇し手を掴まれたこと。そして先日深い霧の中、初めて僕の脳裏に「あの女」の顔が浮かび上がったこと等々。

 僕の話はどれも要領を得なかったが、彼女は真剣に聞いてくれた。ときどき「そうですか」とか「うん」とか言った以外は口を挟まずに、じっくりと耳を傾けてくれた。

「あの女」のことを一通り話し終えた頃、僕らは迂回路に入っていた。今日は先日と違って天気もよく当然霧も出ていない。それに隣には片桐さんが座っているので、僕の胸の中にあのときの恐怖が甦ってくることはなかった。

 しかし僕は迂回路を進むうちに妙な違和感を覚え始めた。たしかに先週の金曜日にこの道を車で走ったのだが、何かが違っていた。その違いは天候や時刻の違いといった類ではないように思えた。片桐さんも迂回路に入ってから一言も喋ってはいない。

 この道に入って十五分が経ったときだった。

「高田さん、もう少し行ったら左折してください」

 片桐さんが唐突に言った。

「えっ?」

 僕は反射的に片桐さんを見て、すぐに前を見た。すると確かに彼女の言ったとおり、もうひとつの道が左に存在していた。僕は彼女の言葉どおりにハンドルを左に切った。

 先ほどまで走っていた迂回路よりかなり道幅は狭く、アスファルトで舗装された路面も傷んでいた。周囲は大きな木々に囲まれ陽光は遮られている。僕たちはかなり山の奥深いところまで入ってきている。

 僕はなぜ片桐さんがこの道を指示したのか不思議に思った。しかしその口調は落ち着いていて、まるでこのルートを熟知しているようだった。

 そのとき僕はわかってしまった。僕たちが今走っているこの道こそ、先日深い霧の中で「あの女」と遭遇した場所に続く道だということを。そして僕の脳裏に「あの女」の寂しげな顔が浮かんできた。

「大丈夫ですよ」

 片桐さんはそう言うと、右手を僕の左の太ももにそっと置いた。僕は彼女の右手の温かい感触によって、強張った体が一気にときほぐれていくのを感じた。そして僕の頭の中を「キーン」という鋭い音が走った。

 僕は徐々に車のスピードを落としていった。歩く速さで徐行していると、道路わきの土に自動車の轍があった。僕が先日「あの女」を目撃したときに、この車を切り返してできたものだった。僕は道路を左脇に止めエンジンを切った。

 僕らの周りには植林された杉の木が空に向かって伸びていた。僅かな陽の光がそれらの間から射し込んでいる。「チチィ!」という鳥の鋭い鳴き声が聞こえた。

 僕は車から出ると注意深くあたりを見回した。

「高田さん、あそこ」

 片桐さんの指差した方向には古ぼけた祠があった。その祠は駐車している車の右側から十メートルくらいに位置しており、隣には大きな杉が屹立している。

 僕はその祠を見ると背筋に冷たいものが走った。一週間前の夜、僕はこの祠に呼び寄せられたのだろうか―そんな疑念が胸の中に湧き上がってきた。

 呆然と突っ立っている僕の左手を片桐さんの右手がそっと握った。彼女の右手は小さく、つるっとした感触だった。

 そして片桐さんは僕を誘導するように、あの祠の方へ歩き出した。枯れた杉の葉や名前の知らない雑草が生えている地面を僕らはゆっくりと歩いた。

 祠の手前に着くと、僕はあらためてその祠を見つめた。その祠は古ぼけているというより、ほとんど朽ち果てかけていた。土台の一部が痛んでいるのか全体的に右に傾いている。そして屋根もところどころ腐っていた。

 僕がじっと祠を見ていると、隣の片桐さんは白いショルダーバッグを肩から下ろしジッパーを開けた。そしてバッグの中から透明な小瓶を取り出した。それからその小瓶を目の前にかざし、中に入っている透明な液体を確認するようにじっと見た。 それからしゃがんで、その小瓶をその祠の前にそっと置いた。

「お供えをしてくれたんかぁ。ありがたいことじゃ」

 いきなり背後からしわがれた声が聞こえた。僕は驚いて振り返ると、そこには腰の曲がった杖をついている老婆がいた。老婆はもんぺをはき黒い野良着のような着物を着ていた。彼女は明治時代からタイムスリップしたかのような雰囲気を身に纏っている。

 僕はいったいどこからこの老婆が現れたのか不思議に思った。しかし片桐さんは突然の老婆の出現にも驚いていないようだった。

「もう、だれもあの娘のことは覚えておらん」

 老婆は両手で太い木の杖をつき杉木立に囲まれた空を見上げながら呟いた。見上げたその左目は白く濁っている。

「この祠はその娘さんを祀っているのですか?」

 片桐さんはその老婆に物怖じすることなく訊いた。

「他人様と違うことは悲しいことじゃ」

 老婆は片桐さんの問いかけに答えずそう言った。

「あの子はやさしい子じゃった」

「・・・・・・」

「嵐が来るとか川の水が溢れるとか山が崩れるとか言ってな、村の人を助けたんじゃ」

「はい」片桐さんは静かに頷いた。

「じゃが村人たちはだんだんあの子を恐れるようになった。人の心まで見透かす化け物と陰口をたたきよってな。しまいには親まであの子と口をきかんようになってしもうた」

 老婆は深く息を吐き、再び狭い空を見上げた。五月の空は高くそして青く透き通っていた。

「あの子はそんな仕打ちにも健気に耐えていたんじゃが、ある日いなくなってしもうた。そしてあの杉の枝で首をくくってしもうたんじゃ」

 老婆の杖は祠の隣に聳え立っている杉の木を指していた。

「さすがに村人もあの子を不憫に思うたのか、亡骸を供養しようとあの杉の木に近づいたんじゃが・・・・・・。そこにとても大きな毒蛇がとぐろを巻いておった。何でも人の二倍以上の大きさだったもんで、誰もよう近づかんかった。あの子は何日も首をくくったまま、長い髪をなびかせてぶらさがっておった。一種間ぐらい経ったとき、あの子の亡骸がなくなってしまったことに、ひとりの村人が気づいたんじゃ。それを聞いた村人たちは恐る恐るその場所に行ってみたそうな。そしたらあの大きな毒蛇ももうおらんかった」

「それで、この祠が建てられたわけですね」片桐さんの声は少し悲しそうだった。

「あの子は寂しゅうて、話のできる相手を探しに行ったのかもしれん」

 老婆はそう言い残して、僕らのいる場所から離れていった。老婆の姿は杉木立にまぎれるように消えていった。

 僕はぽかんとして老婆の消えていく姿を見ていた。そして彼女がいなくなった今、その話が夢の中の出来事のように感じていた。

 そのとき僕らの立っている場所が急に明るくなった。太陽がちょうどこの場所の真上に来たのだ。

 降りそそぐ陽の光の中、片桐さんは再び祠の前にしゃがみ、瞳を閉じて手を合わせた。僕も彼女の動きにつられる腰を下ろし目を閉じそして両手を合わせた。僕は無宗教で神様も仏様も信じていないけど、そのときはそうすることが自然のような気がした。

「チチチチチーッ」という鳴き声とともに、鳥の一団が突然飛び去った。それとともに「シャーッ!」という音が頭の中に響いた。僕は慌てて立ち上がり五月の空を見上げた。目に見えないけど、何かが渦を巻きながら空を駆け昇っていく感覚があった。気がつけば片桐さんも眩しそうに空を見上げていた。

 上空では風が激しく舞っているようで、杉の幹や枝が大きくしなっている。

 僕らはしばらく空を見上げていた。どれくらい時が流れたのだろうか?

「そろそろ行きましょうか」

 片桐さんは少し疲れた声でそう言った。

「うん」

 僕らはゆっくりと車の方へ歩き出した。

「ねえ片桐さん、先週、僕がどうして危ない場所にいるってわかったの?」

 僕はずっと抱えている疑問を口にした。彼女は涼しげに微笑み、ワンピースの左袖をめくった。そこには僕と同じブレスレッドがあった。そしてそのブレスレッドの真ん中に竜石が緑色に輝いていた。

「あの日、私の竜石も赤黒く変色して、何度も小さく震えて。それで高田さんにとってよくないことが起こっていると感じたんです」

「そうかあ」

 僕も右腕の竜石を見た。僕の竜席は深い青色をしていた。

「この石は去年亡くなった母から譲り受けたものです」

 片桐さんは緑色に輝く竜石を見つめながら言った。

 僕は何か気の利いた言葉を捜したが、出てきたのは「うん」という返事だけだった。

「高田さん、おそらくあの女の人はもう高田さんの前には現れないと思いますよ」

 僕も彼女の言うとおりだと思った。

 僕は片桐さんにいろいろ訊きたい事があった。しかし今ではそんなことはどうでもよくなっていた。そして突然空腹を感じた。

「なんだかお腹が空いちゃったな」

「フフッ、だってもう五時過ぎているんですよ」

 片桐さんは右手首の腕時計を僕に見せながら小さく笑った。それから彼女は杉木立に囲まれた狭い空を見上げた。その空は少しずつ茜色に染まり始めていた。

「ねえ、片岡さん。今からまたパスタ食べにいかない?」

「もちろん! 分け合いながら、ねっ!」

 僕らは急いでR2に乗り込んだ。軽自動車がゆっくりと発進すると片桐さんは静かに振り返った。彼女は少し寂し気に祠を見つめて僕に言った。

「私、今日はいっぱいパスタ食べれそうです」

 僕は微笑みながら頷いた。そして右腕を見た。

 僕の右腕に巻かれている竜石は深く青い光を放っていた。

 


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