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となりの場所と交わるとき  作者: 西野了
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タクシードライバーのボヘミアン・ラプソディ

 気がつくとイタリアン・レストランの店内にいた。白いテーブルの前に座っている。ちょうど茹で上がったパスタがテーブルに置かれたところだ。しかしその瞬間、店内は暗闇に包まれた。店内に流れていたバロック音楽も聴こえなくなった。

「火事だ!」

 どこからともなく、その声は聞こえた。

 私は慌てて出口を捜す。だが闇に包まれた空間は迷路のようで、自分が今どこにいて、出口がどこにあるのかまったくわからない。暗闇の中いくつもの黒い影がうろうろと彷徨っている。

 しかし、火事だと聞こえたが火の手はいっこうに確認できないし煙の嫌な匂いもない。あるのはただ暗闇だけだ。その暗闇もまったくの暗闇ではなく、どこからか明かりが漏れているようで人が動く姿が確認できる。

 私は壁伝いに歩いていると突然駐輪場に出た。スラックスのポケットには自転車のキーと自動車のキーが入っている。私の家からこのレストランまでは相当な距離だ。自転車で来るのならば2時間以上かかってしまう。しかし目の前には確かに私の自転車がある。3年前健康のためにと妻がプレゼントしていくれた、緑色の車体だ。休日には妻とときどきサイクリングにでかけたりするのだ。けれども今の私は疲れていた。体が泥のように重い。

 私は自転車を利用することを諦めて駐車場に向かった。そこには私の愛車トヨタセリカが待っているはずだ。しかしその前を黒いスーツを着た背の高い男が立ちはだかった。髪の毛は短くサングラスをかけているが、その視線の鋭さは隠しようがない。鼻は異様に高く唇は薄い。(私はこの男を知っている!)私は本能的に体を強張らせた。

「あなた、疲れているようだから、私のタクシーでお帰りなさい」

 男は有無を言わせぬ口調で私を国道に停めてある黒いリムジンまで引き連れていった。

 予想したよりも車内は狭い印象だった。しかし目の前にはウイスキーのビンと氷が入った安物のグラスがあった。ウイスキーはサントリーレッドだった。

「家に帰るには1時間以上かかるので、音楽でもかけましょう」と運転席の男は言うとスピーカーからクイーンが流れてきた。私はこんな雰囲気の中、フレディ・マーキュリーのボーカルを聴きたくなかった。ブライアン・メイの電子工学的なギターも聴きたくなかった。この状況では無理な注文だが、チャット・ベーカーのトランペットが聞きたかった。いや50歩譲って彼のボーカルでもよかった。もちろん、そんなことは言うことができなかった。

 リムジンは音もなく夜の街を滑るように走っていく。私は落ち着かなく窓から外の景色を眺める。いつもの通勤途中に見る景色だ。

「ご安心を、あなたが帰るべきところまで、ちゃんと送り届けてさしあげますよ」

 男は抑揚のない声で言った。

「私はちゃん礼節をわきまえている人間ですからねえ」

 男は薄笑いを浮かべて楽しそうに言った。

 私はその瞬間、この男とどこで会ったのか思い出した。5年前妻と旅行をしたときに空港でひろったタクシーの運転手だ。私の人生の中でこれほど粗暴で無神経で悪意を感じる運転はなかった。家に着いたとき妻をぐったりとして吐き気さえもようしていた。

 私は怒りに震え「君の会社を訴えてやる!」と叫んだが、男は薄ら笑いを浮かべ「旅行の最後にいいスリルだったろ。チップもなしかよ、ケッ!」と捨て台詞を吐いて去っていった。

「君はあのときの、ドライバー?」

「あなたのおかげで、私は職を失いましたからねぇ」男はなぜか楽しそうに答えた。嘘だ!

私はあのとき妻の介抱で、男のことなどどうでもよかったし、実際に苦情なども男のタクシー会社に言っていない。

「私はタクシードライバーが天職でした」男はタバコを取り出し火をつけ、深々と煙を吸い込んだ。

「天職を失うと人間、哀れなもんです」男の吐き出したタバコの煙がなぜか私の座席まで流れてきた。

 クイーンが「ボヘミアン・ラプソディ」を演奏し始めた。

「そろそろ時間のようですな」男はハンドルを大きく右に切った。突然あたりは暗闇に包まれた。今度の暗闇は100パーセントの闇だった。リムジンのハイビームも一瞬で暗黒に吸い込まれている。間違いない。この男は断崖絶壁をめがけて私としのタイブを敢行しようとしているのだ。見かけよりも手抜きの安いリムジンを使って。

 いつしか山道に入りリムジンの上下動が激しくなった。エンジンの回転音も上がっていく。男はよだれを垂らしながら「どうです。最高のスリルでしょう? 今回はチップいりませんよ。あははははーっ」と狂ったように叫んでいる。崖の先まではあと僅かだ。

「・・・・・・あなた」小さく僕を呼ぶ声が聞こえた。

 死へのダイブまであと5メートル。

「あなた! あなた!」

「パパ!」

 黒いリムジンが宙を舞った。体が浮遊する感覚がした。

「あなた!」

「パパ!」

 目を開けると、白い蛍光灯の光がやけに眩しかった。僕の目に前には涙を浮かべた妻と安堵した娘の顔、それに微笑んでいる若い女性看護師の姿があった。

「意識が回復したので、とりあえずひと安心ですな」

 僕の枕元に立っていた眼鏡をかけた医師が妻と娘にそう告げた。

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