抽象画
日本語で語られる謎の呪文に、私は先ほどから笑顔で相槌を打ち続けている。
年上の彼氏は、絵を描くことを仕事にしている。ただそれは、私が描くようなイラストではなくて、分かりやすい油絵でもなくて、抽象画。なのだ。
そのせいなのか知らないけれど、彼が話す内容も抽象的であることが多い。…はっきり言ってしまえば、彼の話していることはよく分からない。
遠くに住む友達に、「~~~って彼氏が言ってたんだけど、意味分かる?」とメールで訊いてみたことがある。返ってきた答えは、「1行目から分からん」。それくらい、彼の話は恐ろしく分かりにくいのだ。
なのに彼はいつも嬉しそうに、よく分からない話を饒舌に語り続ける。ちなみに今話しているのは、パラドックスがどうこう。平衡がうんぬん。それをキャンバスにしたらああだこうだ。…私がなんとか理解できたのは、彼は三角形は好きだけど、直角三角形は嫌いなのだということくらいだ。
直角三角形が嫌いなのだと説明するのに、どうして「パラドックス」という単語が出てきたのか。私にはさっぱり分からない。
私が彼の話に付き合うのはもちろん、訳のわからない呪文を聞きたいからではない。それを話す彼のキラキラした顔を見たいから。それだけなのだ。
だって、本当に嬉しそうに話すんだ。目をキラキラさせて、子供みたいに。その顔が見たくて、私はいつも相槌を打ち続ける。
多分私も、きらきらした顔で彼のことを見ているのだろう。
「ね。今度、私のことを描いてみてよ」
パラドックスの話に一区切りがついた時、私は彼がたばこに火をつける様子をぼんやりと見ながら言った。
彼がいつも描いてるのは三角形が並んでいる絵ばかりで、人間を描くことはほとんどない。もちろん描けないわけではなくて、彼が描きたくないだけ。それは知ってたんだけど、淡い期待があった。
私がモデルになるなら描いてくれないかな、なんて。
「うーん」
彼は唸ると、目の前の私にはかからないように顔を横に向けて煙を吐き出した。それから
「いいよ」
先ほど唸っていたのはなんだったのかと思うほどの、あっさりとした承諾。私は肩透かしを食らった気分で、けれども妙に高揚していた。「次の土曜日にアトリエに来て」と言われて、内心小躍りしながら家に帰った私は、自分の部屋まで来てハッとした。
もしも、抽象画で私の姿を描かれたらどうしよう。
彼の大好きな三角形で私のことを表されたら、私はなんて言えばいいんだろう。上手?味のある絵?それともパラドックス?
「………うあああ」
私は大きくため息をついた。先ほどまで楽しみだった土曜日が、酷く不安になってくる。そんな私の様子を、愛猫がじーっと見つめていた。
土曜日。意を決して向かった彼のアトリエで、私はずーっとソファに座っていた。脱いで、とは言われなかった。嬉しいような悲しいような。
彼のデッサンの腕を、私はよく知っている。というのも、彼は私の通っていた画塾の先生だったのだ。私がデッサンを好きになったのは、うまくなったのは、彼のおかげである。彼と出会えたのは、好きになったのは、デッサンのおかげ。
いつもさっさと描き上げる彼が、今日はやたらと時間をかけて描いている。どんな絵になっているのか覗きに行きたい気分だが、自分がモデルになっているので動くこともできない。彼の鉛筆は柔らかい音を立てて動き続けているけれど、もしも完成した絵が鉛筆で描かれた三角形の羅列だったらどうしよう。そんなことを考えながら、ソファに座り続けた。
「できたよ」
そう言われてようやく、痛くなり始めていた腰をあげる。そして恐る恐る彼の方へと、彼のキャンバスへと向かう。
そこには、ソファに座る私の姿が繊細に描かれていた。三角形、ではなくて。
私が安堵のため息をつくと、彼は「大丈夫?疲れた?」と心配そうに訊いてきた。
「ううん。でも、思ったより時間がかかったね」
「出来るだけ丁寧に描きたかったんだ。君のことを、描くんだから」
細いラインで緻密に描かれた絵を覗きこんで、私は笑う。
「ちょっと美化してない?特に顔とかさ」
「そんなことないよ」
彼は真剣な目で、自分の絵と私の顔を見比べた。
「君は綺麗だ。だからちゃんと、綺麗に描きたかった。…愛している君の姿を」
そのセリフを聞いて、私は彼の方を見る。彼も私のことを見ていたので、視線がぶつかった。彼の真剣な顔を見て、私は眼を細めて笑う。
「…そういうのは、抽象的には言わないんだね」
「え、なにが?」
「なんでもない」
三角形になりたい、なんて思ったことがあった。あれだけ熱心に彼が見てくれるのなら、彼の好きな三角形になりたい、なんて。
意味不明な呪文で「好き」だと言われるのも、別にいいかなって。
だけどやっぱり私には、抽象的なことは分からなくて。
「もう一回言って」
「ん?」
「愛してるって、もう一回言って」
私はやっぱり、分かりやすい方が好きなんだ。絵も、恋愛も。