第1話「召喚―理不尽な始まり」
「中田さん、またお願いしていいっすか?」
声をかけられた瞬間、中田文哉は心の中で小さくため息をついた。またか。今日で三回目だ。
「はい、大丈夫ですよ」
けれど顔には笑みを浮かべて、書類の山を抱えた後輩に手を差し伸べる。
中田文哉28歳、独身・彼女なし、中堅商社の一般事務職。
煩雑な書類整理や他部署との調整、在庫管理――そんな地味な仕事を淡々とこなす日々。
「中田さん、本当に助かります! いつもありがとうございま~す」
「いえいえ、僕がやれば済むことですから」
後輩が軽く手を振って去っていくのを見送りながら、文哉は自分の仕事に戻った。
今日も定時では帰れそうにない。いつものことだ。
誰かが困っていたら手を貸す。
面倒な仕事も嫌な顔をせず引き受ける。
それが文哉という人間だった。
自分を前に出すことが苦手で、いつも一歩引いて他人をサポートする。
争い事を避け、理不尽な要求にも「まあ、僕がやれば済むことだし」と笑って応じてしまう。
損な役回りばかりだと、自分でも分かっている。
けれど、それで周りが助かるならいいじゃないか――そう思ってきた。
その日も、文哉は深夜まで残業して、最後に会社を出た一人だった。
誰もいないオフィスビルの廊下を歩きながら、ふと空虚な気持ちが胸をよぎる。
(このまま、ずっとこんな人生なのかな)
そんな考えが頭をかすめた、その時だった。
足元が、消えた。
「え――?」
視界が光に包まれる。
体が浮遊する感覚。
何が起きているのか理解する間もなく、文哉の意識は闇に沈んだ。
◆
次に目を覚ました時、文哉は石造りの広間にいた。
「……ここは?」
周囲を見回す。
荘厳な天井、壁に刻まれた紋章、そして足元には複雑な幾何学模様が描かれた魔法陣。
その中心に、文哉は立っていた。
いや、文哉だけではない。
隣には見知らぬ三人の人影があった。
二十代前半と思われる若い男性が二人と、一人の女性。彼らも困惑した表情で辺りを見回している。
「な、何これ……?」
女性が震える声で呟く。
「おい、誰か説明しろよ!」
短髪の男が怒鳴った。
その声に応えるように、魔法陣の外から人影が現れた。
豪奢なローブを纏った初老の男性、その後ろには甲冑姿の騎士たちが控えている。
「ようこそ、異界の勇者たちよ」
初老の男――恐らくこの国の高位の者だろう――が厳かに告げた。
「我々は人族。そして貴方がたは、我が国ルミナス王国が命運をかけて召喚した、救世の勇者なのです」
勇者。召喚。異世界。
文哉の頭の中で、これまで読んできた小説やマンガの記憶が高速で駆け巡る。
(まさか、本当に……?)
「この世界は今、魔族との戦いで滅亡の危機に瀕しております。どうか、どうか我々人族をお救いください!」
男が深々と頭を下げた。その姿に、周囲の騎士たちも一斉に膝をつく。
沈黙。
やがて、三人のうちの一人――茶髪の若い男が口を開いた。
「……つまり、俺たちが勇者ってこと?」
「その通りです」
「マジで?」
男の表情が、驚きから興奮へと変わっていく。
隣のもう一人の男性と女性も、戸惑いながらも期待に満ちた目で顔を見合わせていた。
そんな中、文哉だけが冷静に状況を観察していた。
(これは、現実なんだろうか)
地面の感触、空気の匂い、周囲の人々の息遣い――全てがあまりにもリアルだ。
夢とは思えない。
「さあ、勇者たちよ。まずは貴方がたの力を確認させていただきます」
男が手を掲げると、一人の魔法使いらしき人物が進み出た。
彼が呪文を唱えると、四人の頭上に光の文字が浮かび上がる。
ステータス、と呼ばれるものだった。
「おお……!」
周囲がどよめく。
短髪の男には『剣聖の才』、
茶髪の男性には『大魔法使いの素質』、
そして女性には『聖癒の力』という文字が輝いていた。
そして、文哉の頭上には――『鑑定』とだけ、小さく表示されていた。
「……鑑定?」
周囲の空気が、微妙に変わった。
「それは……その、物の状態を見る力、ですな」
魔法使いが言いよどむ。
「戦闘には、直接は……」
言葉を濁すその態度が、全てを物語っていた。
他の三人が「当たり」で、自分だけが「外れ」。
文哉の胸に、じわりと不安が広がった。けれど彼は、いつものように笑顔を浮かべた。
「まあ、僕は皆さんのサポートができればいいですよ」
その言葉に、誰も応えなかった。
石造りの広間に、微妙な沈黙が降りる。
魔法陣の光が、ゆっくりと消えていく。
文哉は、その時まだ知らなかった。
この「サポート役」という立場が、自分をどんな運命へと導くのかを――。




