第6章:喪失
トマスのアパートから持ち帰った黒い手帳は、エドマンドの机の引き出しの奥で、まるで呪われた品のように重く鎮座していた。あれ以来、彼は一度もそれを開いていない。開くことができなかった。
養父リチャードに真実を問いただすべきか、否か。その問いが、昼も夜も鉛のように彼の心を苛んだ。ベッドで穏やかに眠る父の顔を見るたびに、言葉が喉の奥でつかえてしまう。
「父上、フェニックス組合の件ですが……」
そう切り出せば、父は何と答えるだろうか。『ああ、知っていたとも。あれは必要な悪なのだ』と冷たく言い放つのか。それとも、『まさか、そんな非道な組織だったとは……』と病の身でショックを受けるのか。どちらの答えも、聞くのが恐ろしかった。父との間に築いてきた温かい信用の世界が、ガラガラと崩れ落ちてしまうかもしれない。その恐怖が、エドマンドの口を固く封じていた。
結局、彼は何も聞けぬまま、ただ養父のそばに付き添い、商会の仕事をこなし、無為な日々を過ごした。
ロンドンに冬の気配が忍び寄り始めた、肌寒い朝だった。リチャードの病状が急激に悪化した。呼び集められた医者は首を横に振るばかり。エドマンドは三日三晩、父のベッドの脇を離れず、付きっきりで看病した。衰弱していく父の手を握りながら、彼は何度も心の中で叫んだ。聞かなければならない、真実を。だが、もうその時ではなかった。
三日目の夜明け前、リチャードは穏やかに目を開けた。そして、そばにいるエドマンドの頬に弱々しく手を伸ばした。
「エドマンド……お前は、わしの誇りだ……。信用の道を……まっすぐに、歩みなさい……」
それが、最期の言葉だった。エドマンドの手を握っていた父の手から、ゆっくりと力が抜けていく。
唯一の家族を失った喪失感と、真実を告げられなかった深い後悔が、嵐のようにエドマンドの心を打ちのめした。父の亡骸の前で、彼は声を殺して泣いた。
葬儀を終え、がらんとした屋敷に戻ったエドマンドは、父の遺品を一人で整理し始めた。それは、父と過ごした歳月を辿り直し、自らの心を整理するための儀式でもあった。
書斎の机に座り、父が使っていたペンやインク壺に触れる。その時、彼は机の引き出しの底板が、僅かに浮き上がっていることに気づいた。隠し引き出しだ。そっと開けると、中には一冊の、使い込まれた帳簿が収められていた。それは商会のものとは別に、リチャードが個人的につけていた帳簿だった。
震える手でページをめくると、そこにはフェニックス組合への出資の詳細が、彼の几帳面な文字で記されていた。そして、帳簿の間に、一通の手紙が挟まれていた。宛名は、エドマンドへ。父が、自らの死期を悟って書き遺したものだった。
『愛する息子、エドマンドへ
これを君が読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。
この帳簿を見て、君は驚いているかもしれない。なぜ私が、あのフェニックス組合に出資したのか。
エドマンド、君も知っている通り、私はあの大火で多くの友を失った。財産も、思い出も、一夜にして灰燼に帰した。この街の民が、二度とあのような悲劇に見舞われぬよう、何か私にできることはないかと、ずっと考えていたのだ。
そんな時、クレイン卿が火災保険の組合を立ち上げるという話を聞いた。彼の理想は素晴らしかった。炎の恐怖から市民を守り、このロンドンを世界で最も安全な都にするのだ、と。
私のわずかな投資が、その崇高な理想の一助となれば、これに勝る喜びはない。そう信じて、私は出資を決めたのだ。
君には、私の信じたこの道を、そしてハーグリーヴスの暖簾を託したい。
常に信用を重んじ、誠実であれ。
父、リチャード・ハーグリーヴスより』
手紙を読み終えたエドマンドの目から、大粒の涙がこぼれ落ち、インクの文字を滲ませた。
やはり、父は善意の人だった。クレイン卿の甘言に乗り、その裏の顔を知らないまま、ただ純粋に街の未来を案じていただけなのだ。
エドマンドは帳簿と手紙を胸に抱きしめ、嗚咽した。父の清らかな善意が、結果としてギデオンのような悪党の給金となり、街を蝕む不正義に加担してしまっている。このあまりに皮肉で、残酷な現実に、彼の心は張り裂けそうだった。
悲しみは、やがて静かで、より硬質な怒りへと結晶していった。
もはや、これは個人的な復讐ではない。父の名誉を守るため、父の善意を汚した者たちに、正義の裁きを下さねばならない。そのための戦いなのだ、と。