第5章:帳簿の秘密
決意を固めたエドマンドは、それから数日を費やし、周到に機会を窺っていた。フェニックス火災保険組合の本拠地は、昼夜を問わず人の目があり、警備も厳重だ。だが、どんな堅牢な城にも、必ず僅かな隙は存在する。
彼は、事務所に石炭を運び込む業者を装い、建物の裏手にある通用口の構造と、夜警の交代時間をつぶさに観察した。そして、風が強く吹き、ロンドンの空を厚い雲が覆った月もない夜、エドマンドは行動を起こした。
黒い服に身を包み、街の闇に紛れて建物の裏手へと忍び寄る。昼間のうちに細工しておいた通用口の掛け金を外し、音もなく中へ滑り込んだ。建物の中は、しんと静まり返っていた。壁にかけられた歴代組合長たちの肖像画が、闇の中から冷たく彼を見下ろしているようだ。自身の心臓の音だけが、やけに大きく耳に響く。
蝋燭の灯りを頼りに、エドマンドは目指す場所――組合長アーチボルド・クレイン卿の執務室へと向かった。重厚なマホガニーの扉の鍵を、あらかじめ用意していた細い針金で慎重にこじ開ける。室内は、主の権威を示すかのように、高価な調度品で満たされていた。
ここにあるはずだ。彼らの悪事を記した、もう一つの帳簿が。
エドマンドは、革張りの椅子、磨き上げられた机、ガラス戸の書棚を手早く、しかしmethodicalに調べていく。公式の会計帳簿はすぐに見つかったが、そこに不正の痕跡はない。焦りが募り始めたその時、彼の指が書棚の奥の一角に、僅かな違和感を覚えた。
そこは巧妙に隠された小さな扉になっていた。開くと、中には一冊だけ、他のどの帳簿とも違う、黒い革で装丁された手帳が収められていた。これだ、と直感が告げていた。
震える手でページをめくる。そこには、公式記録には決して載らないであろう、裏の取引が生々しく記されていた。火災が起きた地域の土地買収記録。市会議員への賄賂。そして、彼の目が探していた項目が、ついに現れた。
『追加報酬』
その支払い相手の名を見て、エドマンドは息を呑んだ。
『ギデオン・ブラックソーン:サザーク地区倉庫の件、完遂につき』
やはりだ。あの男は、金で雇われた放火犯に相違ない。込み上げる怒りと、証拠を掴んだという高揚感で、全身が打ち震えた。これで、あの男の罪を、フェニックスの闇を暴くことができる。
だが、勝利の感覚は、次のページをめくった瞬間に、氷のような絶望へと変わった。手帳の最後のページ、それは組合設立時の出資者リストだった。その中に、彼の目を釘付けにする署名があった。
『リチャード・ハーグリーヴス』
養父の名だった。
なぜ。どうして。あの「信用こそ命」と語った誠実な父が、こんな非道な組織に? まるで頭を殴られたような衝撃に、視界がぐらついた。父は、この組織の邪悪な本性を知っていたのか? それとも、ただ善意で騙されていただけなのか?
思考が混乱の渦に飲み込まれた、その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。まずい。誰かが戻ってきた。声が聞こえる。低く、聞き覚えのある声だ。ギデオン・ブラックソーン。
エドマンドは咄嗟に手帳を懐にねじ込み、執務室のもう一つの出口、テラスへ続く窓へと駆け寄った。彼が窓の掛け金に手をかけたのと、ギデオンが部下を連れて執務室の扉を開けたのは、ほぼ同時だった。
暗闇の中、二人の視線が交錯する。ギデオンの目に、驚きと瞬時の殺意が閃いた。
「鼠泥棒め!」
怒号を背に、エドマンドはテラスへ飛び出し、手すりを乗り越えて下の庭へと飛び降りた。足首に激痛が走るが、構ってはいられない。背後から追っ手が迫る気配を感じながら、彼は闇の中を夢中で走った。生垣を突き破り、ロンドンの迷路のような路地裏へと転がり込む。何度も転び、身体のあちこちを打ち付けながらも、ただひたすらに走り続け、追っ手の声が聞こえなくなるまで闇の中を駆け抜けた。
息も絶え絶えに彼がたどり着いたのは、ハーグリーヴス商会ではなく、ロイドの近くにあるトマス・フィンチの質素なアパートだった。
「トマス! 見てくれ!」
ドアを叩き破るようにして入ってきたエドマンドの姿に、トマスは驚きながらも冷静に彼を中へ招き入れた。エドマンドは懐から手帳を突き出す。
「これが証拠だ! ブラックソーンは間違いなく放火犯だ!」
トマスは手帳を受け取ると、蝋燭の光にかざして静かにページをめくった。そして、出資者のリストに目を留めると、深くため息をついた。
「……ああ、これは強力な証拠だ。だが、エドマンド、これは同時に君を破滅させる刃でもある」
彼はリチャード・ハーグリーヴスの名を指差した。
「これを公にすれば、君はクレイン卿という強大な敵を作るだけじゃない。君を育ててくれた恩人、君の養父の名誉にまで泥を塗ることになる。彼らは君を、父の名を汚して財産を狙う恩知らずだと触れ回り、誰も君の言葉を信じなくなるだろう」
トマスの冷静な言葉が、エドマンドの熱した頭に冷水を浴びせた。正義を求めて掴んだはずの真実は、彼自身と、彼が最も大切に思う人の記憶をも焼き尽くしかねない、危険な火種でしかなかった。