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第4章:疑念の煙

 ロイドのコーヒーハウスでトマスと会ってから数週間、エドマンドは努めて日常の仕事に没頭しようとしていた。養父の教えを守り、誠実な商人としてハーグリーヴス商会の信用を維持すること。それが、彼の内に渦巻く黒い感情から逃れる唯一の方法のように思えた。

 だが、一度燃え上がった疑念の炎は、そう簡単には消え去らない。それどころか、街の至る所で燻る小さな噂話が、まるで油を注ぐかのようにその炎を煽り立てていた。

 その日、エドマンドは取引のためにリーデンホール市場を訪れていた。活気ある市場には、肉や魚、異国の果物などの匂いと共に、人々の生々しい声が満ち満ちている。彼はそこで、聞き慣れた不穏な囁きをまた耳にした。

「聞いたか、昨夜サザークであった火事のことだ。またしても、だ」

 帳簿を脇に置いた二人の羊毛商人が、声を潜めて話している。

「ああ、知っているとも。奇妙な話だとは思わんかね? 火元になった倉庫の主は、先月からフェニックスに土地の売却を迫られていたそうだ。もちろん、彼は首を縦に振らなかった」

「そしてこの始末か……。焼け跡は二束三文で買い叩かれるに違いない。まったく、偶然にしては出来すぎている」

 その会話は、冷たい棘のようにエドマンドの耳に突き刺さった。偶然ではない。彼は知っている。あれは計画された「仕事」なのだ。

 彼は別の場所でも、同様の話を耳にした。

 パン屋の女将が、買い物客に不満をぶちまけている。

「うちの弟の家がね、危うく燃え移るところだったんですよ。隣家が火事だったのに、フェニックスの連中が来たのは半鐘が鳴ってから一時間も経ってから。おまけに、『ポンプの調子が悪い』だなんて言って、しばらく放水しなかったんですから!」

「まあ、酷い。プレートは掲げていたんでしょう?」

「ええ、もちろん! 高い保険料を毎月払っているのに、あの怠慢ぶり。まるで、少し燃え広がってくれた方が都合がいいとでも言わんばかりの態度でしたよ」

 噂は、もはや単なる噂ではなかった。それは無数の点となり、エドマンドの頭の中で一本の邪悪な線として繋がりつつあった。消火活動の意図的な遅延。不審な出火。火災現場周辺の土地買収。そしてその全てを、あの男――ギデオン・ブラックソーンが、冷徹な表情で指揮している。

 彼は道具に過ぎない。ならば、その道具を握り、操っているのは誰だ? 答えは明白だった。慈善家の仮面をかぶったアーチボルド・クレイン卿だ。

 数日後、エドマンドはサザークの火事現場へと足を運んだ。そこには、建物の黒焦げになった骨組みだけが、灰色の空に向かって虚しく突き出ていた。絶望に打ちひしがれた倉庫の主が、瓦礫の前で呆然と立ち尽くしている。そのすぐ隣には、壁に掲げられたフェニックスのプレートだけが、まるで嘲笑うかのように鈍い光を放つ建物が無傷で建っていた。

 この光景は、十四年前のあの夜と何ら変わりはない。見捨てられた者と、選ばれて救われた者。その境界線を引いているのは、炎そのものではなく、炎を操る者たちの欲望なのだ。

 エドマンドは固く拳を握りしめた。

 養父の「信用」という言葉が頭をよぎる。だが、不正義を前に沈黙することは、父が教えた誠実さとは違う。街を蝕むこの巨大な悪を、このまま見過ごすことはできない。

 ギデオン・ブラックソーン。アーチボルド・クレイン卿。そして、彼らが支配するフェニックス火災保険組合。

 疑念の煙は、エドマンドの中で確信という揺るぎない炎へと変わった。もはや引き返すことはできない。たとえこの身がどうなろうと、彼らの闇を白日の下に晒し出す。そのための証拠を、必ずこの手で掴んでみせる。

 その夜、商会の事務所の窓から、エドマンドはシティの中心にそびえるフェニックスの壮麗な建物を睨みつけていた。彼の瞳には、静かだが、決して消えることのない決意の光が宿っていた。


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