第1章:灰の下の火種
ロンドン大火から十四年の歳月が流れた。かつて灰燼に帰した街は、クリストファー・レンの設計による壮麗な教会の尖塔が天を突く、石と煉瓦造りのたくましい姿へと生まれ変わっていた。だが、陽の当たらぬ路地裏や川沿の一角には、いまだ焼けただれた壁の残骸が黒い歯のように残り、あの夜の記憶を人々の心に蘇らせていた。
ハーグリーヴス商会の事務所には、東インドから届いた丁子の甘く痺れるような香りが満ちていた。二十歳になったエドマンド・ヘイルは、ペンを走らせる手を止め、帳簿の数字から顔を上げた。
「エドマンド様、バーミンガムの織物商、ウィリアムズ氏がお見えです」
「わかった、すぐに応接室へ」
古参の書記であるヘンリーにそう応えると、エドマンドは背筋を伸ばした。病に伏すことが多くなった養父リチャード・ハーグリーヴスに代わり、彼がこの商会を切り盛りするようになって久しい。年の割に落ち着いた物腰と、取引における鋭い判断力は、父の代からの商人仲間にも一目置かれていた。
「これはヘイル殿。いやはや、いつもながら見事な帳場ですな」
「ウィリアムズさん、ようこそ。フランドル産の毛織物、ご要望の数を揃えてあります」
握手を交わし、商談は滞りなく進んだ。だが、エドマンドは常に養父の教えを胸の内で反芻していた。
『いいか、エドマンド。我々商人が売るのは品物だけではない。何より大事なのは「信用」だ。帳簿の数字は嘘をつくが、相手の目は嘘をつけん。一度失った信用は、金では二度と買い戻せはしないのだ』
その言葉は、エドマンドの行動の全てを支える礎となっていた。
商談を終え、エドマンドはリチャードが療養している二階の寝室へと向かった。
「父上、入ります」
「おお、エドマンドか。咳き込むな、今日は調子がいい」
ベッドの上で半身を起こしたリチャードは、顔色こそ優れないが、その瞳にはまだ商人の鋭い光が宿っていた。
「ウィリアムズの旦那は?」
「はい。満足して帰られました。次の取引の約束も」
「そうか、結構なことだ」リチャードは満足げに頷いた。「お前には苦労をかけるな。だが、お前がいてくれて、このハーグリーヴスの暖簾も安泰だ。血は繋がらずとも、お前はわしの自慢の息子だよ」
その言葉に、エドマンドの胸は温かくなると同時に、チクリと痛んだ。この穏やかで誠実な養父に、心の奥底で燻り続ける黒い炎のことは、決して話すことはできない。
その夜、エドマンドは事務所で一人、窓の外に広がるロンドンの夜景を眺めていた。再建された家々の窓に灯る明かりは、まるで星空のようだ。だが、その美しい光景を見るたび、彼の脳裏にはあの夜の炎が揺らめく。家族を飲み込んだ紅蓮の炎と、それを冷ややかに見つめていた巨体の男の記憶が。
復讐。
その黒く甘美な響きは、リチャードから教わった「信用」という陽の光のような言葉とは、あまりにもかけ離れていた。善と悪、父への恩義と消えぬ憎悪。二つの炎が、彼の内側で静かにせめぎ合い、次なる運命の風を待っていた。