プロローグ:1666年、灰燼の夜
その夜が来るまで、世界はパンとスープの温かい匂いに満ちていた。
父のジョンがパン屋の窯から最後のパンを取り出し、母のアビゲイルが赤子の妹メアリーをあやしながらハーブを刻む音。それが、6歳のエドマンドにとっての世界そのものだった。プディング小路に面した小さな我が家は、決して裕福ではなかったが、家族の笑い声とパンの焼ける香ばしい匂いで満たされていた。
異変は、真夜中過ぎに訪れた。
「火事だ! トマス・ファリナーのパン屋から火が出たぞ!」
遠くで響いた叫び声は、瞬く間に悪夢の始まりを告げる警鐘となった。乾いた木を舐める炎の音。ガラスの割れる甲高い悲鳴。父が慌てて扉を開けると、そこにはすでに地獄の入り口が開いていた。熱風が渦を巻き、火の粉を撒き散らしながら、通りの向こうの家々を巨大な獣のように飲み込んでいく。
「アビゲイル! エドマンド! 逃げるぞ!」
父の張り裂けんばかりの声が響いた。母は泣き叫ぶメアリーをショールで固く胸に巻き付け、父はエドマンドの小さな手を鋼のように握りしめた。
「ジョン、どこへ? どこへ行けば……」
「川だ! テムズ川へ行けば水がある! 行くんだ!」
家財道具を運び出そうとする隣人、絶叫しながら駆け出す人々。人の波に逆らうようにして、彼らは黒煙の渦巻く迷路へと飛び込んだ。
「エドマンド、決して手を離すな!」
父の言葉を道標に、ただ必死に走った。熱が背中を焼き、煙が喉を締め付ける。降り注ぐ火の粉が、母の髪を焦がした。
どれくらい走っただろうか。ふと、背後で天が裂けるような轟音が響いた。古い宿屋の屋根が、巨大な火の塊となって崩れ落ちたのだ。衝撃に突き飛ばされ、エドマンドは固く握られていた父の手から離れてしまった。
「父さん!」
振り返った彼の目に映ったのは、信じがたい光景だった。紅蓮の炎が壁となって道を防ぎ、彼が先ほどまでいた場所を飲み込んでいく。炎の向こうで、父と母の姿が一瞬だけ見えた。こちらに手を伸ばし、何かを叫んでいる。だが、その声は業火の咆哮にかき消され、二つの人影は揺らめく陽炎の中へと、あっけなく消えていった。
「父さん……母さん……メアリー……」
声は出なかった。あまりの光景に、思考も感情も焼き尽くされ、ただ熱い涙だけが煤けた頬を伝った。生き残ってしまったという絶望が、幼い心を押し潰す。
彼はよろめきながら、無意識に炎から逃れようと近くの路地裏へ転がり込んだ。そこでエドマンドは見た。
地獄絵図のような混乱の只中で、奇妙なほど静かな男が一人、建物の軒下へと松明を差し入れているのを。
常人をはるかに超える巨躯。その男は、まるで仕事でもするかのように淡々と、まだ燃えていない部分へと火を広げていた。人々が逃げ惑う様を、まるで感情のない瞳で見つめている。まるで、薪をくべるかのように。
なぜ。どうして。言葉にならない問いが胸を突き上げる。男がふとこちらを向いた。その石のように冷たい目に射抜かれ、エドマンドは凍りついた。恐怖で声も出せず、ただ震えていると、男は取るに足らぬものを見るかのように視線を外し、再び黒い煙の中へと溶けるように消えていった。
名前も知らない巨体の男。家族を奪った炎と、その炎を冷ややかに操っていた男の姿は、エドマンドの魂に決して消えることのない烙印として、深く、熱く刻み込まれた。
灰と瓦礫の中で孤児となったエドマンドは、やがて中堅商人であるリチャード・ハーグリーヴスに引き取られた。温厚な彼は、炎で全てを失った少年に手を差し伸べ、実の子として迎え入れたのだった。