無能聖女の失敗ポーション【短編版】※長編連載始めました!
8/21 ギルバートの回想を追記しました。
「クリスティーナ。大変心苦しいのだが、これ以上君をここに置いておくことはできない。今日中に、荷物をまとめておいてくれ」
眉間に深い皺を刻んで、悩ましいお顔をしているのは、ここ、王都メリュジオンの神殿で人事を担当している神官様だ。
申し訳なさそうにこちらを見る神官様の瞳には、背中まである薄ピンクの髪をゆるりと垂らし、垂れ気味の青い目を瞬かせる私の姿が映っていた。
ついにこの日が来てしまったなあ、と私はぼんやり考えながら、軽く微笑んだ。
「わかりました。今までお世話になりました」
「餞別も渡せなくて、済まないな。それから……誕生日おめでとう。どうか君に、女神様のご加護が共に在らんことを」
「ありがとうございます。神官様と皆様に、女神様のご加護が共に在らんことを」
短く祈りを捧げて神官様の執務室を出ると、私はしっかりした足取りで、自分に与えられていた質素な小部屋へと向かう。
私がこの神殿に拾ってもらってから、十五年。孤児として拾われ、僅かながら聖女の力があることが判明し――けれど聖女としての実績を大して上げられていない私は、十八歳の成人を迎えればここを出て行かなくてはならないことは、以前からわかっていた。
階段下にある小さな部屋に戻って、聖女のローブから町娘の服装に着替える。淡い桃色の髪をゆるく一つ結びにしたら、ローブを丁寧に折りたたんでベッドの上に置く。そうして少ない荷物を手に持ち、入り口で空っぽの部屋に一礼して、すぐその場を後にした。
「お部屋さん、今までありがとうございました」
私自身、誕生日を迎えた今日が期限だろうと感づいていたので、神官様の執務室に呼ばれる前に、すでに荷物をまとめ終えていたのだ。
「……神殿さん、今までありがとうございました」
神殿の入り口にたどり着くまで、他の聖女様たちに会うことはなかった。誰かに会ったら寂しくなってしまいそうだったから、都合が良い。今は朝の礼拝の最中で、全員、聖堂に集合しているのだ。
両開きの重たい樫の扉を開くと、扉の外に立っていた神殿騎士が、私に小さく頭を下げる。
「もう行かれるのですか」
「はい。騎士様、今までありがとうございました。騎士様に、女神様のご加護が共に在らんことを」
「聖女様に、女神様のご加護が共に在らんことを。どうか、お元気で」
名前は知らないが顔見知りの神殿騎士に、小さく頭を下げると、私は神殿を後にした。
小鳥がさえずり、木々がさわさわと音を立てる。どこからか、パンの焼ける匂いが漂ってくる。空の色は、私の瞳の青よりも少しだけ濃い。
久しぶりに吸う王都の空気は爽やかで、心地よかった。優しくすがすがしい朝だ。
「さて、とりあえず、冒険者ギルドに行ってみようかな」
そうして私は、十五年間を暮らした神殿を後にした。振り返ることはしない。荘厳なバラ窓も、立派な鐘楼も、重厚なポータルも、間近で目にしたら心が鈍りそうだから。
「あ。そういえば、冒険者ギルドって、朝何時から開いてるのかな。誰かに聞いとけばよかった」
まあ、もし開いていなかったとしても、近くの公園かどこかでゆっくりしていればいいか。私はのほほんとそんなことを考えながら、神殿のある地区から商業地区へと足を進めたのだった。
商業地区への道をゆっくり歩いていると、段々と街に活気が出始めてゆく。そろそろ、人々が日々の営みを開始する時刻なのだろう。
私が目的地に到着した頃には、周りの店も続々と開店し始めていた。目的の冒険者ギルドも、ちょうど開いたところのようだ。
今も、腰に剣を差した軽装鎧の男性と、革のベストを着て弓矢を背負った女性が、入り口をくぐっていく。
この世界には、魔力を持つ、理性のない生物――魔物が存在する。
魔物のエネルギー源は魔力であり、魔力を求めて人を襲う。
人を襲うために街を破壊し、甚大な被害を出すこともある、人の天敵のような存在だ。
魔物の侵入を防ぐため、王都や各地に点在する都市の多くは城壁に囲まれていて、城壁の内部は常に騎士たちが守っている。
王宮や城壁を守る魔法騎士、王族を守る近衛騎士、神殿と聖女たちを守る神殿騎士――騎士たちの所属は様々だが、いずれも難しい試験を突破した精強なエリート集団だ。
一方、城壁外で魔物を間引いたり、別の街に行く馬車を護衛したり、必要な素材や薬草などを採集する役目を担っているのが、主に冒険者と呼ばれる者たちである。
彼らはギルドという互助組織を作っていて、王都に本部が、各地方の大都市にいくつかの支部が設けられている。
ギルド間で連絡を取り合える魔道具があり、王国のどこにある支部でも、冒険者ギルド本部と同じサービスを受けられるようになっているらしい。
冒険者ギルドの仕事は、多岐に渡っている。利用者も、様々な恩恵が受けられる。
まずは、利用者は誰でも、冒険者に依頼を出すことができる。
採集や護衛、魔物退治の他にも、下水道掃除など便利屋的な依頼、さらには酒場の給仕のアルバイトなんて依頼も出せるのだ。
次に、冒険者登録をした者が、出されている依頼を受注することができる。
依頼を達成したら難易度に応じて報酬が支払われるが、危険な依頼はソロでは不可だったり、高ランク冒険者でないと受注できない等の制限がある。
また、依頼の中には中・長期の雇用契約が可能となっているものもあり、職業斡旋所としての役割も果たしているようだ。
それから、素材やアイテムの買い取り、販売も行われている。
魔物退治や薬草採取などの依頼ついでに、買い取ってもらえそうな素材を売ることができるほか、ポーションや解毒薬などの回復アイテムを購入することもできる。
私の目的は、最後に述べた、アイテムの買い取りサービスだ。自作のポーションをいくらで買い取ってくれるか、確認するためである。
聖女の仕事の中には、ポーションの作製があった。水を聖属性の魔法で浄化した後に、治癒の魔力を込めていくのだ。
聖女の力によって作製できるポーションのランクは異なり、普通の聖女なら中級ポーションを安定して作製することが可能だった。中級ポーションは、傷口に振りかければ、比較的新しい切り傷や擦り傷をたちどころに治してしまう効果がある。
ちなみに、古傷や骨折、切断した手足すらくっつけることのできる、上級ポーションというものも存在する。上級ポーションは、聖女の中でも最も力の強い筆頭聖女がひと月に一本程度しか作ることのできない貴重品で、基本的に王侯貴族の手にしか渡らない。
本当は魔物退治の前線にいる冒険者たちに渡れば良いと思うのだが、神殿と王宮、貴族たちの権力構造を考えると、仕方のないことなのだとか。
そして、肝心の私の力だが……五回に一回、初級ポーションの精製に成功したら上出来、という程度だった。私の魔力は、他の聖女に比べてとても微弱なのだ。
初級ポーションの効果は、浅い切り傷擦り傷の治療や、少し深い傷の止血程度。薬草をそのまま貼り付けるよりはだいぶいいかも、という感じである。
ただ、ポーションは液体なので瓶に入れて持ち運ぶ必要がある。薬草よりもかさばるので、需要はそんなになかった。
だから私は、ポーション作製や治癒などで活躍する他の聖女たちが心地よく過ごせるように、率先して神殿内をくまなく掃除したり、洗濯当番を交代してあげたり、食事の用意を一手に引き受けたりしてきた。
空いた時間にポーションを作る練習をしていたのだが、結局上達することはなく、五本に一本の初級ポーションと、五本に四本のポーションにもなれない何かを生産し続けていたのである。
ポーションにもなれない何かは、虫刺されや植物の液によるかぶれに塗ればかゆみをしずめてくれたり、筋肉疲労を軽減して炎症をおさめてくれる程度。肩こりや腰痛も、塗っている間だけ一時的に改善してくれる。
さすがにこちらは冒険者ギルドで販売できるような類いではないと思うが、初級ポーションだけでも売れれば御の字である。
「よし、行こっかな」
なんとなく入りづらい門構えだから躊躇してしまっていたが、私が気持ちを整えている間に、どんどん冒険者らしき人たちが建物の中に吸い込まれていく。私は意を決して、ギルドの扉をくぐった。
早速私は初級ポーションの入った鞄を胸にぎゅっと抱えて、冒険者ギルドの買い取りカウンターに向かう。
「すみません、買い取りカウンターはこちらですか?」
「ん? お嬢ちゃん、見ない顔だが、冒険者登録は済んでるのか?」
「いいえ、してないですけど」
ギルドのおじさんの話によると、冒険者登録をすると発行されるギルドカードがないと、買い取り記録をつけられないらしい。
登録料は無料だし、ランクを上げなければ、緊急依頼などに駆り出されることもないそうだ。
一度作れば冒険者としての身分証明書にもなるギルドカードは、依頼料や買い取り料の振込先として登録され、好きなときにお金を引き出せるシステムだ。
依頼料や買い取り料が高額になる場合もあり、一気に大金を用意できないこともあるため、そのような仕組みが作られたという。
お金は王国内の冒険者ギルドなら、どこでも引き出せるそうだ。
「じゃあ、登録します」
「なら、まずはこの書類に記入してくれ」
私は書類の記入を始める。名前と年齢、職業。
クリスティーナ、十八歳。職業は……元聖女でいいか、後で変えられるみたいだし。
特技、技能。
特技は……うーん、掃除に洗濯、炊事、繕い物?
困った。武芸も魔法もからっきしで、それしか書くことがない。いいや、書いちゃえ。
技能欄には、一応、初級ポーション作製と書いておこう。
直接の治癒もできなくはないが、ほとんど効果がないと思われる……というかやらせてもらったことがないので、それを期待されて戦場に連れ出されても困る。
次に。
住所、もしくは拠点としている宿――。
「……あの。住所の欄なんですけど。私、家もないし宿も決まってなくて」
「あー、もしかして王都に来たばっかりなのか? なら、実家の住所でいいぞ」
「実家……えっと、神殿って書くわけにはいかないですよね」
「んん?」
そこでようやくおじさんは書類を覗き込む。
職業欄に記した『元聖女』の文言を見て、何事か察したらしい。
「お嬢ちゃんも苦労してるんだな……。じゃあ、ここは一旦空欄でいい」
「すみません……」
「とりあえずこの内容でギルドカードを作ってくるから、ちょっと待ってろ」
そう言ってギルドのおじさんは、カウンターの奥へと入っていった。
私はその間に、カウンターに貼られていた、アイテム・素材の料金表を眺める。
どうやら、買い取り価格は店頭販売価格の半額になるようだ。
例えば、薬草は販売価格が50ゴルドで、買い取り価格が25ゴルド。解毒草は販売価格が120ゴルドで、買い取り価格が60ゴルド。
中級ポーションは販売価格が500ゴルドで、買い取り価格が250ゴルド。中級ポーションに解毒草を調合した解毒ポーションは販売価格が1000ゴルド、買い取り価格が500ゴルド。
そして、初級ポーションは――。
「……販売価格100ゴルド、買い取り価格50ゴルド……」
私はがっくりと肩を落とした。50ゴルドでは、一宿一飯どころか、一食分の食事代にもならない。
ちなみにポーション用の空き瓶は、販売価格10ゴルド。空き瓶を五本買って一本しかポーションが作れなかったら、利益が全く出ない。
「……どうしよう……失敗ポーションは捨てて、瓶を買い足しながら作るとしても、初級ポーションは一日に二本以上作れたことないし。これじゃあ生活できないよ」
私の視線は、ふらふらと依頼用の掲示板へと向かう。掲示板の前には人だかりができていた。
受けたい依頼を発見したら、貼ってある依頼書を掲示板から剥がして、受注カウンターに持って行くようだ。
「やっぱりポーションは当てにしないで、普通にお仕事探すしかないか」
そもそも、私は落ちこぼれ聖女だから神殿を追い出されたのだ。最初から期待するだけ無駄だった。
「私が働けそうな場所はあるかなあ」
冒険者たちの後ろから掲示板を覗き込もうと頑張ってみるが、全然見えない。皆身体も大きいし、武器やら大きな荷物やらを携えているのだ。
私は諦めて、混雑が落ち着いてからゆっくり眺めることに決めた。
「待たせたな、お嬢ちゃん。ギルドカードができたぞ」
ちょうどその時、カウンターの奥からギルドのおじさんが戻ってきた。あとはこの小さなカードに私の魔力を流し込んで、魔力認証を登録したら、冒険者登録は完了である。
「これで登録完了だ。それで、お嬢ちゃんは素材の買い取り希望だったか?」
「あ、えっと、初級ポーションを売ろうと思ってたんですけど……ちょっと保留にして、お仕事の依頼を見てもいいですか?」
「ああ、わかった。なら、誰か説明できそうな奴……お、ちょうどいい奴がいるな。おーい、アンディ」
「はいはーい」
ギルドのおじさんが辺りをざっと見回して、一人の若者を手招きする。
おじさんの声に応えてこちらを振り返ったのは、ふわふわの茶髪に緑色の瞳をした、愛嬌のある顔立ちの青年だった。
年の頃は、私と同じくらいだろうか。身長も体格も平均的で、溌剌とした親しみやすい雰囲気を醸し出している。
防具は、革の胸当てで胸部を守る程度の軽装だ。ナイフを二本、腰の後ろでクロスさせるように装備している。
「おっちゃん、オレに何か用?」
「ちょっと頼みたいことがあってな。どうせ暇なんだろ?」
「ひっでえ! オレだって忙しい時はあるんだぜ!」
「あん? なんだ、珍しく忙しいのか? こちらの綺麗なお嬢ちゃんの案内を頼みたかったんだけどなあ」
ギルドのおじさんがそう言って私に視線を向けると、アンディと呼ばれた若者は、所在なくきょろきょろしている私に気がついたようだ。
私と目が合うと、アンディは緑色の目をちょっぴり見開いて、耳を赤くする。
「忙しいなら、他の奴に――」
「いやいや、ちょうど暇で退屈してたんだ! いいぜ、頼まれてやるよ!」
おじさんが他の冒険者たちの方へ視線を巡らせようとしたところで、アンディは慌てておじさんの肩を叩き、そう言った。
「ってことで、オレはアンディ! よろしくな、お姉さん、えっと……」
「あ、私はクリスティーナ。長いから、ティーナでいいよ。それより、忙しいんじゃないの?」
「いいや、全然! じゃあおっちゃん、後はオレに任せてくれよな!」
「ああ、頼んだぜ」
おじさんはそれだけ言って、次のお客さんの対応に入る。アンディはどう見てもギルド職員ではなさそうだが、忙しいときはこうやって冒険者と助け合ったりするらしい。
そうしている間に、掲示板の人だかりも少しはけたようだ。
「さあ、依頼を見るんだろ? こっちこっち」
アンディは冒険者たちの隙間をぬって、私を掲示板の前に連れ出してくれた。
「で、ティーナは、冒険者になるの? スキルとか特技とかはある?」
アンディは緑色の瞳をキラキラさせて、親しみやすい笑顔で尋ねてきた。私は少し考えながら答える。
「えっと、冒険者になるのは考えてないかな。仕事と住む場所が見つかったらいいなって思ってるんだけど」
「もしかして、街の外の出身?」
「うーん……この街の出身、なのかな? でも、今まで住んでた場所を出て行かなきゃいけなくなって。頼れる知り合いもいないし、お金もあんまり持ってないの」
「うわ……大変だな」
素直に自分の境遇を話すと、アンディに同情されてしまった。
「住むとこぐらい助けてあげたいんだけど、オレもこの街出身じゃなくて、安宿を借りてるんだよな……。となると、ティーナが探してるのは、住み込みの仕事?」
「うん、それが一番いいかな。掃除、洗濯、炊事……家事全般は得意よ」
「なるほどな。ちなみに、住む場所にこだわりはある? 商業地区に近い方がいいとか、綺麗な場所がいいとか」
「ううん、ないよ。屋根と寝床さえあれば、郊外でもクモの巣が張ってても全然平気」
「よしきた。だったら、あれなんてどうだ?」
アンディが指さしたのは、掲示板の一番上に張られている依頼書だった。
『急募。城壁近く、林の中の一軒家。家事全般こなしてくれる方。通い、住み込み、どちらでも可。ただし送迎および馬での通勤は不可。給与、勤務時間、期間、待遇等は要相談』
「これ、三日前に持ち込まれた依頼なんだけどさ。条件が全部要相談な上に、場所がちょっと悪いだろ? しかも送迎も馬も不可っていうし。その上、依頼人が匿名希望。普段なら、家事系統の依頼ってわりと人気ですぐ埋まるんだけど、珍しく売れ残ってるんだよ」
「確かに、ちょっと怪しいね……」
「でも、他にめぼしい依頼はないんだよなー。特に住み込みとなると」
私は頬に手を当て、ううむ、と悩んだ。
けれど、確かにアンディの言うとおり、他に出ている依頼は力仕事や危険な仕事、技能が必要なものばかりで、私にできそうなものはない。
「わかった、これにする」
私がそう言うと、アンディは手を伸ばして、依頼書を剥がしてくれた。私がそれを受け取ろうとすると、アンディは首を横に振って、依頼書を持ったまま受注カウンターの方へ歩いて行く。
「えっと、アンディ?」
「あのさ、ティーナ。話を聞きに行くなら、オレも一緒に行くよ。何か危ないことがあるといけないし」
「え、でも、悪いよ。アンディには報酬出ないんだし」
「ほら、よく見て。募集人数が書かれてないだろ? ってことは、オレとティーナ、二人とも採用される可能性もあるってことだ」
確かに、依頼書には募集人数は書かれていなかった。
私も城壁の林までは行ったことがないから、アンディがいてくれると心強いのも事実である。
「じゃあ、お言葉に甘えよっかな」
「ああ、任せてくれ!」
そう言ってにかっと笑うアンディが何だか頼もしくて、私はにこりと微笑む。アンディは再び耳を赤くして、そっぽを向いてしまったのだった。
「……ねえアンディ。私のイメージする一軒家と、ちょっと違うんだけど」
「……ああ。オレのイメージとも違うな」
ギルドを通して依頼主に連絡してもらった私たちは、依頼主の待つ、『城壁近く、林の中の一軒家』へ向かった。そして、目的地に到着したわけなのだが――。
「地図、ちゃんと見たんだよね? 間違ってないよね?」
「ああ、間違いなくここのはずだけど……でも、これって、一軒家じゃなくて……」
「お屋敷、だよね」
林の中にひっそりと佇む洋館は、広大な敷地を占有していた。一軒家というより、お屋敷と呼んだ方が正しいだろう。
レンガの塀で周りを囲まれ、門には黒く尖った鉄柵がついている。鉄柵の横側には、ガーゴイルという魔物を模した魔除けの像が置かれていた。
鉄柵の向こう側には、荒れ放題になった庭と、レンガ造りの立派な建物が見える。手入れが行き届いていれば美しい館なのだろうが、今は不死系の魔物か何かが出てきそうな雰囲気があった。
なんだか、誰もいないのにどこからか視線が注がれているような、そんな不気味な感覚に襲われる。
「……やめるか?」
アンディは、小声で私に尋ねる。
しかし、私には他にできそうな仕事もない。ここでやめたら、今日の宿にも困ってしまうことになる。
外観がちょっぴり不気味なぐらいで、逃げるわけにはいかないのだ。
「やめないよ。すみませーん、ごめんくださーい」
「ちょっ……!」
怯えるアンディを無視して、私は声を張り上げる。
ややあって、返事の代わりに、鉄柵がギギギ、と音を立てて内側に開いていった。
鉄柵が開いた、ということは、先に進めということなのだろう。私は躊躇なく、建物に向かって伸びている石畳を歩いていく。
石畳の隙間からは、雑草がはみ出している。左右に広がる庭も、背の高い雑草に覆われていた。
「手入れが全然行き届いてないね」
「……ほ、本当に人が住んでんのか?」
「うーん、声をかけたら鉄柵が開いたってことは、住んでるんじゃない?」
ちなみにその鉄柵は、私たちが通り抜けると、再びギギギと音を立てて閉まった。アンディは「ひぃ」と小さく悲鳴を上げていたが、きっと魔道具か何かの類いだろう。私は特に気にすることもなく、案外長い小道を進む。
「ティーナ、本当に大丈夫なのか……?」
「そうねぇ、確かに大変そうだけど、その分お掃除のしがいがありそうだね」
「まじかよ……」
アンディは、あまりにも酷い状態の庭を見て、尻込みしてしまっているようだ。
だが、建物の外観を見る限り、普通の一軒家よりは広いが、神殿よりもずっと小さい屋敷である。洗濯や食事の用意はこれまでより少なく済むだろうし、モップをかける範囲も狭いはず。高窓の掃除にしたって、ステンドグラスを磨くより断然楽そうだ。
「それに、よく見て。この庭、雑草だらけと思いきや、ほら……あちこちに食べられそうな野菜とか、果樹とかが植えられてる」
「え? あ……本当だ、枯れかけてるけど。反対の方には薬草や解毒草、魔除けのハーブもあるな」
「ね? だから、ちゃんと人は住んでると思うよ」
「うーん……確かに……」
私の言葉に、アンディの不安は少しだけ解消されたようだ。だが、まだ眉尻を下げて、緊張したような表情でそろりそろりと歩いている。
「アンディ、やめてもいいんだよ?」
「……やめないさ。ここで逃げたら男が廃る」
先ほどとは真逆のやり取りと、気合いを入れ直すアンディに、私は思わずくすりと笑ってしまった。
私たちは、玄関扉の前に立つ。
玄関扉も、鉄柵と同様、自動的に内側へ開いていった。玄関ポーチには、埃をかぶった魔道具の明かりが、ぼんやりと灯っている。
「おじゃましまーす」
私は迷うことなく玄関ポーチへと足を踏み入れる。
アンディは、私の背中に隠れるようにしながら後をついてきた。
そんなアンディをチラリと見て、私は彼が冒険者ギルド内で暇そうにしていた理由が、少しわかったような気がしたのだった。
「ようこそお越し下さいました」
「ひぃっ!?」
私たちに声をかけてきたのは、全身真っ黒なお仕着せを着た、白髪の、腰の曲がった老女だった。アンディが後ろで小さく悲鳴を上げ、私の服をつんと引っ張る。
「ちょっと、アンディ! 引っ張らないでよ!」
「ご、ごめん」
「すみません、大変失礼しました。依頼を受けてきました、クリスティーナと申します」
私はアンディに文句を言ってから、お仕着せ姿の老女に向き直り、膝を折って軽く礼をする。
「す、すんません、驚いちゃって。オレはアンディです」
アンディも私にならって老女に挨拶をした。私の斜め後ろからだが。
老女は確かに無表情だし固い声だが、細い目の奥に覗く茶色い瞳は優しげだし、そんなに怯えるほど怖い人ではなさそうに思える。
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしは、ジェーンと申します。さるお方の、身の回りを整える役目を仰せつかっております」
「さるお方?」
「名は申せませんが、高貴なお方にございます。この館はご一族の別邸として建てられ、やがて住む者がいなくなり、長いこと放置されておりました。ですが、今はご一族の血を引く方が、お一人でお住まいになっておられます」
私はアンディと互いに目配せをする。
「ほら! やっぱり人が住んでる!」
「みたいだな」
ひそひそ声で短くやり取りをして、私たちは再びジェーンさんの話に耳を傾けた。
「詳しいお話はまた後ほど。あなた方にお願いしたいのは、主にこの館の清掃、補修でございます。主様がお過ごしになられる場所や身の回りのお世話はわたくし一人で間に合うのですが、他の部屋や庭には手が回りませんで」
なるほど、確かにこれほど荒れ果てた屋敷を、腰の曲がった老女一人で整えるのは大変だろう。
しかも、彼女は主の世話もしなくてはならないというのだから、人を雇う必要があるのも頷けた。
「お給金につきましては、試用期間中は日給1000ゴルド――」
「――1000ゴルド!?」
あまりの好待遇に驚いたのか、アンディが思い切り目を丸くして、話を遮る。
だが、試用期間で日給1000ゴルドは確かに破格だろう。私も驚いてしまった。
「――ゴホン。続けます。試用期間の後、依頼を延長するか否かは、あなた方の働きに応じて決めます。またその際は、改めて正式なお給金も、主様とご相談の上、決めさせていただきます。勤務時間ですが……クリスティーナ様、アンディ様は、王都内からお通いになられるのでしょうか?」
「私は住み込みを希望します」
「オレは……ちょっと、部屋を見てから決めてもいいっすか?」
「承知いたしました。でしたら、まずはお部屋の方へご案内いたします」
ジェーンさんはそう言うと、私とアンディの方へ向かってゆっくりと歩み寄ってきた。
歩き方がいびつだ。足か腰が悪いのかもしれない。ますます、一人では大変だろう。
「お部屋は離れをご使用いただきます。どうぞこちらへ」
ジェーンさんは私たちが通ってきた玄関扉から外へ出て、そのまま右の方へゆっくりと歩いてゆく。
「離れがあるんですね」
「左様にございます」
「……依頼書には、一軒家って書いてあったのに」
「今は扉が破損しているため使用できませんが、母屋と回廊で繋がっておりますので、一軒の家と見なせるかと存じます」
アンディがぼそりと言った疑問の言葉に、ジェーンさんは律儀に返答した。
こじつけのような気もするが、見るからにややこしい事情がありそうな雰囲気なので、『屋敷』とは書きたくなかったのだろう。
「離れは二階建てとなっております。一階にひとつ、二階にみっつお部屋がございますので、住み込みになさるのでしたら、ご自由にお使い下さい。清掃と補修は、ご自身の責任でお願いいたします。それで、勤務時間の件ですが」
「住み込みと通いで、どう変わるんですか?」
「住み込みならば問題ないのですが、通いの場合、暗い時間や悪天候の日は、林道を歩くのが困難になります。つまり、勤務可能時間が住み込みの方よりも短くなります」
私とアンディは、ジェーンさんの話に頷いた。
確かに、通ってきた林道は、馬も通れないほど細い悪路だった。その上、動物が多く生息しているようなので、暗い時間に歩くのは危険だろう。
「先ほど、試用期間の日給は1000ゴルドと申しましたが、それは通いの方の勤務時間に合わせた日給となります。住み込みの方で、その時間を超えて働いて頂いた場合、通常のお給金に加えてボーナスを支給させていただきます」
「ボーナス……!?」
日給1000ゴルドに加えて、ボーナスの支給。なんてオイシイ話だろう。
名前を言えない主に、たった一人の使用人。そして、破格の待遇。
とてつもなく厄介な事情がありそうな予感しかしないが、これ以上の仕事は探そうと思ってもなかなか見つからないだろう。私の心はもう完全に決まっていた。
「私、住み込みで働きます!」
「うーん、オレは……うーん」
アンディは、すごく悩んでいるようだった。私の方をちらちらと見ながら、唸ったり、首をひねったりしている。
「アンディ、私のことなら、気にしなくても平気だよ。ここまで一緒に来てくれただけでも、とっても感謝してる」
「いや……でも……」
「アンディ様は、依頼をご辞退されるのでございますか?」
「うーん……、いや、決めた。通いで働くよ」
アンディは折衷案をとることにしたようだ。ジェーンさんと私の顔を交互に見て、ひとつ頷く。
「辞退したい気持ちもあるけど、ティーナのことが心配って気持ちも本当だし。せめて毎日通って、顔見て安心したい」
「心配って、そんな。私、平気だよ」
「ただの自己満足だよ。オレのことは気にすんな」
「アンディ……」
にかっと笑うアンディが、なぜだかちょっと頼もしい。先ほどまであんなに怖がっていたのが、嘘みたいだ。
「ありがとう」
「へへっ」
私が笑顔でお礼を言うと、アンディは鼻の頭をかいて、やはり耳を赤くした。
その後私たちは、そのまま離れの掃除をすることになった。まずは自分が住むことになる場所を整えなくてはならない。
ジェーンさんは、後でまた様子を見に来ると言い残して、母屋へと戻っていった。
「さて、じゃあ時間がかかることからやっていこっか。まずは、寝具の洗濯からね」
「おう。洗剤類はこっちか。水も、魔道具で出せるみたいだな」
「洗濯物は、庭の裏手に干していいって言ってたね。よく晴れてるから、今洗えば夜寝るまでには乾きそう」
アンディに手伝ってもらいながら、シーツを洗って干し、洗えない物は外に持って行って埃を払う。
使うことにした部屋は、一階にある小部屋だ。
一階には、その部屋の他にも大部屋が一つあるので、小部屋の掃除が終わり次第そちらも綺麗にしたい。
そして、いずれ全ての部屋を使えるようにしたいと思っている。
寝具を干している間に、室内を掃除していく。
動かせる家具は大部屋の方へ一度移動させ、動かせない家具や窓の埃を払い、床を掃き、換気が済んだら濡れ拭きをして磨き上げていく。
換気の合間には、家具やトイレ、バスルームの清掃だ。
やることがたくさんあるので、休んでいる暇もないように感じるが、椅子とテーブルだけは先に綺麗にしておく必要がある。
疲れたときに一休みしたり、食事をとれるようにするためだ。休みたくなってから椅子を掃除するとなると、へとへとになってしまって効率が悪い。
「ふぅ……疲れたぜ……。なあ、ティーナ、少し休憩しないか?」
「あ、休憩する?」
先に音を上げたのは、アンディの方だった。ちょうど椅子とテーブルの拭き上げが終わったところだ。
アンディは力仕事を率先してやってくれていたから、重労働だっただろう。
「それなら、いい物があるの。手を洗ってくるから、ちょっと待ってて」
私は洗濯のときに使った石鹸と、水を出す魔道具で手を洗うと、自分の持ってきた鞄から、瓶を二本取り出した。瓶の中には、非常に薄い褐色の液体が入っている。
「はい、どうぞ」
大部屋の椅子に座っているアンディに瓶を一本手渡すと、私も彼の向かい側に腰掛けた。
「ん? これ何?」
アンディは、不思議そうに液体を眺めている。
「これ、ポーションの瓶だよな。でも、透き通るほど薄い色……お茶みたいな色だ」
アンディは液体の観察をやめて、私の方へ向き直る。答え合わせをしたいらしい。
「なあ、ポーションの色が作った人の魔力色によって変わるってのは知ってるけど、普通はもっと濃い色だよな?」
「うん」
私は、頷いた。
アンディが言った通り、ポーションは作った聖女によって色が異なる。私は褐色だが、他の聖女のポーションは、青系や緑系が多い。
筆頭聖女のポーションは、月光を集めたような銀色に輝いていて、とても神秘的だったのを覚えている。
「これはね、初級ポーションになりそこねた、失敗ポーションなの。売り物にはならないんだけど、肌に塗れば虫刺されのかゆみを抑えたり、肩こり腰痛筋肉痛をちょっと軽くしたりしてくれるよ」
「へぇー。どうしてこんなもん、持ってるんだ?」
「私、元聖女なの。無能すぎて、出て行かなくちゃならなくなったんだけどね」
私が苦笑しながらそう言うと、アンディは、申し訳なさそうな顔をした。
「……悪い。変なこと聞いたな」
「ううん、いいの。行き場のない孤児だった私を拾って、成人まで育ててくれた神殿には、本当に感謝してるから」
私は手に持っていた瓶の蓋を開けて、縁に直に口をつけ、瓶を傾けた。薄褐色の液体は、苦いけれど独特な香りがあって、慣れたら不思議と美味しく感じられる。
「えっ、それ、飲んで平気なのか?」
「うん。苦いけど、慣れたら癖になるよ」
通常、ポーションは傷口にかけて使う物だ。だから、迷いなく飲み始めた私を見て、アンディが目を丸くするのもわかる。
「飲むと口内炎とかの痛みを抑えてくれるほか、胃腸の調子も少し良くなるの。それにね……ふふ、とにかく飲んでみて」
「あ、ああ……ティーナが飲んでも平気なんだから、大丈夫なんだよな……よし」
アンディは瓶の蓋を開けて、おそるおそる顔に近づける。そして、ひと口含むと――。
「にがっ!」
アンディは思い切り顔をしかめた。慣れていないと、確かにびっくりするかもしれない。
「でも、耐えられないことはないでしょ?」
「あ、ああ。まあ、渋いお茶よりちょっと苦いぐらいだな」
「それより、どう? ちょっぴり、身体が軽くなってこない?」
「え? あ……言われてみれば、だるさが減ってるかも」
驚いたように自分の身体を確認しているアンディを見て、私は微笑んだ。
市場に出せない失敗ポーションでも、経口摂取すれば、軽い治癒の効果――体力をごくわずかに回復することができるのだ。
私がこのことに気づいたのは、何年前だったか……きっかけは、やけになったか何かだったと思うけれど、初級ポーション以下で何の価値もないと思っていた失敗ポーションが、少しは役に立つと知って、ちょっとだけ救われたのである。
ちゃんとしたポーションを精製できる他の聖女たちには、さすがに言い出せなかったので、それからは失敗ポーションは自分で飲んで消費していた。
「私ね、この失敗ポーションがあったおかげで、広い神殿のお掃除も、大量のお洗濯も、疲れ知らずでやってこれたの。売り物になるポーションは作れなかったけど、結果的に、これも少しは神殿の役に立ったかなって思ってるよ」
「そっか……ティーナは、すごいんだな」
「ううん、全然だよ。私には、たくさんの人を治療できる力がなかったから」
「でも、縁の下の力持ちだったってことだろ? なら、ティーナは、たくさんの人を間接的に救ったんだ」
「間接的に……?」
これまで、そんなこと、考えてもみなかった。
私は何の利益も生み出さないのに、ただで神殿に置いてもらっている身で、だから掃除や洗濯や炊事を頑張ってきただけで――それが間接的に人を救うだなんて、ちょっと大袈裟だ。
――けれど、悪い気はしなかった。
私は、ふふ、と声を出して笑う。
「ありがと、アンディ。元気出た」
「おっ、ティーナもポーション効いてきたか? じゃあ掃除の続き、するか!」
耳を赤くしたアンディは、残っていたポーションを飲み干し、椅子から立ち上がった。私も同じように立ち上がる。
「……ん?」
「どうした?」
――ふと、どこからか視線を感じたような気がしたのだ。
だが、辺りを見回しても、何の変わりもない。気のせいだったのだろう。
「何でもないよ。さ、次はバスルームのお掃除ね!」
「なら、オレは窓拭きと、床の仕上げをやっとくよ」
「助かる! ありがと!」
そうして、私たちはまたそれぞれ持ち場に戻って掃除を再開したのだった。
掃除を再開した私たちは、先ほど飲んだ失敗ポーションのおかげもあって、どんどん作業を進めていった。みるみるうちに、離れの一階小部屋はぴかぴかに磨き上げられていく。
「よし、こんなもんか?」
「すごい! これなら快適に暮らせそう!」
「へへっ。さっきのポーションのおかげだな」
「ううん、アンディが頑張ってくれたからだよ」
「ティーナもな」
私たちはお互い褒め合って、ハイタッチをする。
小部屋は窓も壁も床も、チェストや天井の照明魔道具に至るまで、すっかり綺麗になっていた。
部屋に併設されているトイレとバスルームも、カビ取りのつけ置きが終わったらお掃除完了である。
「あとは大部屋にある簡易キッチンを掃除して、寝具を取り込んで……とりあえずこれで生活できるわ」
「だな。あと問題は、メシと生活必需品だけど……」
「それに関しましては、ご心配には及びません」
「ひぇっ!?」
突然私たちの背後に、ぬっと現れたのは、手にランチバスケットを抱えたジェーンさんだった。アンディは大袈裟に驚いて、飛び上がっている。
「あ、ジェーンさん、お疲れ様です。小部屋のお掃除がもう少しで終わるところなんです」
「そのようでございますね。仕事が早く丁寧で、このジェーン、感心しております」
ジェーンさんはそう言って初めて小さく微笑みを浮かべ、手に持っていたバスケットを私に差し出した。
「遅くなりましたが、お二方の昼食でございます。試用期間の間は、こうしてわたくしが昼食をお持ちいたします」
「わぁ、ありがとうございます! いただきます」
「なあ、ジェーンさん。さっき昼食って言ったけど、朝と夜は出ないんすか? オレは街に戻るからいいんだけど、ティーナはここに住み込みになるだろ? 買い物も行けないと思うからさ」
「えっ、そんな、とんでもない! 私、一日一食で十分ですよ!」
「は?」
「はい?」
私がそう言うと、アンディとジェーンさんはそろって固まり、目を丸くした。
「んん? 二人とも、なんで驚いてるんです?」
その反応が不思議で、私は首を傾げる。二人はますます困惑して、目を見合わせた。
「あのなあ、ティーナ。遠慮して倒れたりしたら、もっと迷惑かけちまうぞ」
「なんで? 遠慮なんてしてないよ」
「おいおい、普通は一日三食とるだろ?」
「ええ。人によっては二食、あるいは四食の方もいらっしゃいますが、ここ王都では一日三食が一般的です」
「えっ、そうなの? ……あ、そういえば」
私は反対側に首をひねって、ようやく、あることに思い至った。
「私、神殿にいたとき、皆さんの食事を一日に三回用意してたの。朝昼夜、どれでも好きな時間に食べていいっていうから、私は昼にいただいてたんだけど……いつも、神殿に詰めてる人数にしては量が多いって思ってたんだよね。もしかして、皆さん、毎食召し上がってたのかしら?」
「……なあ、ティーナ。きみ、神殿でちゃんと大事に扱われてたのか? よく見れば洋服もつぎはぎだし……」
「ん? もちろん、良くしてもらってたよ。お洋服は、他の聖女様たちからもらったの。お下がりのローブとか、買い出し用の服とか。そこから下着とかも繕ったわ。破れてても補修すれば使えそうな服もあったから、困ったことはないよ」
「……っ」
アンディは、何故か言葉を詰まらせ、眉尻を下げている。ジェーンさんは目を潤ませ、片方の手を口元に当てていた。
「……ジェーンさん。オレ、ティーナと出会ってからまだ半日だけどさ、この子、本当に良い子だと思うぞ」
「ええ、アンディ様。心得ております。澄み切った瞳、痩せたお身体、清掃の際の手際の良さ……疑う方が気が引けるというものです」
アンディとジェーンさんは、何か通じ合ったかのように、頷き合っている。何がなんだかわからないが、私だけ蚊帳の外のようだ。
神殿にいた頃は、そっとその場を離れて聞かないように気を遣ったりしたのだが、今は小部屋の出入り口をジェーンさんがふさいでいるので、逃げ場がない。
「ティーナ、オレにできることがあったら、何でも協力するよ」
「クリスティーナ様、わたくしもです。必ず主様を説得いたしますので、試用期間だけと言わず、ぜひともここにいらして下さい」
「え? ええ?」
アンディの気合いの入った申し出もだが、ジェーンさんまでそんな風に声をかけてくれるなんて、驚きである。特にジェーンさんは、私たちを見定めるような固い雰囲気はすっかり消え、メイドらしく世話焼きの顔が表面に出てきていた。
ジェーンさんは改めて私たちに向き直ると、最初に比べて熱のこもった口調と表情で、話し出した。
「クリスティーナ様、主様が母屋への出入りをご許可くださるまで、わたくしがこちらに朝昼晩とお食事をお持ちします。三食お召し上がりになるのも、仕事の一環、義務といたします。アンディ様、勤務前後の行き帰りの際に、買い出しをお願いできますでしょうか。もちろん経費はお支払いしますし、その分遅めに出勤し、早めに退勤して頂いて構いません」
「えっ、三食いただくのがお仕事の一環?」
「買い出し、了解っす!」
私は戸惑いながら、アンディは元気よく、ジェーンさんに返事をした。
「では、そのように。後ほど買い出しのリストをお持ちいたします」
ジェーンさんは満足そうに頷くと、ランチバスケットを清掃済みのテーブルに置いて、母屋へと戻っていった。
「そーゆーわけで」
アンディはランチバスケットの布をどけ、テーブルに敷きながら話し出した。話しながら、彼はバスケットの中身を手際よく広げていく。
「オレが買い出し担当になったから、ティーナが必要な物もついでに買ってくるぜ。何かほしい物はあるか?」
「そしたら、ポーション用の空き瓶がほしいな」
「お安い御用だぜ。何本?」
「えっと、五本。ちょっと待ってね」
私はそう言って、小部屋の隅に置いてあった鞄から、ポーションを一本取り出した。
失敗ポーションではなく、ちゃんと成功した初級ポーションである。中には、失敗ポーションよりも濃い琥珀色の液体が入っていた。
私が戻ると、テーブルの上には、ランチの準備がすっかり整っていた。
パンにサラダに、果物が少し。ジャーの中には温かいスープも入っている。
「これを売ったお金で、空き瓶五本買えると思うの」
席に着く前に、アンディに瓶を差し出すと、彼は両手で瓶を受け取った。
「これ、初級ポーションか。うん、このぐらいの色味のポーションなら、確かに見たことあるな。よし、任せといて」
「ありがとう! 助かるわ。ポーション精製は、諦めずに続けたいと思ってたから」
せっかく女神様からいただいた聖女の力だ。神殿を出ることになっても、この力は磨き続けるべきだろう。そうすれば、いつか誰かの役に立つかもしれないから。
アンディが自分のナップザックにポーションをしまい、席に着くのを待って、私たちは遅い昼食をとり始めた。
「ところで、ポーションってどうやって作るんだ?」
何故かパンを私の方へ余分に押しつけながら、アンディは尋ねた。
「えっとね、水に魔力を込めていくの。それだけ」
私は、そんなに食べられないよ、とアンディの皿に返しながら、答える。アンディは少し眉尻を下げた。
「魔力を込めるだけ? 薬草を混ぜたりは?」
「薬草? それは特に教わってないけど……」
「ふーん、そうなのか」
ポーションと薬草の効果は、確かに似通っているから、そう思われるのも仕方がない。聖女と同じ、聖属性の魔力が薬草に宿っているからだと聞いたことがある。
だが、薬草には治癒の効能しかない。ポーションは傷の表面を浄化することもできるし、治癒の効果も薬草より高いのだ――私の失敗ポーションを除いて、だが。
「オレはてっきり、薬草を抽出したものがポーションなんだと思ってたよ。ポーションって青っぽい色が多いし」
「まあ、色は関係ないと思うけど、確かに効果は似てるもんね」
「じゃあさ、明日、瓶を買ってきたら見せてくれよ、その精製の作業」
「うん、いいよ」
私がそう約束すると、アンディは「楽しみだ」と言ってニカっと笑ったのだった。
ランチを終えたら、干してあった寝具を取り込む。これで小部屋の清掃は完了である。
あとは、大部屋のキッチンだ。
先ほどのジェーンさんの話を聞いた感じだと、自分で調理をすることはなさそうだが、湯を沸かしたりはするだろうから、シンクとコンロは使えるようにしておきたい。
食器棚もチェックする。湯沸かし用の鍋やグラスは、生活にもポーション作りにも必要だ。
神殿には空き瓶がまさしく売るほど用意されていたので、規定の瓶でポーションを作っていた。けれど、今は空き瓶をただで入手することができない。
なら、今は規定の瓶ではなくて、鍋やグラスなどで練習すればいいではないか。売り物になるポーションが精製できたときに、瓶に詰めればいい。
食器棚を開けて中を確認していると、ジェーンさんがアンディを呼びに来た。どうやら、もう買い出しに行く時間らしい。
「そっか、もうそんな時間か。なんかあっという間だったな」
「ひいきの店主との顔合わせがございますので、わたくしも同行いたします。早めに戻りますが、クリスティーナ様は、離れから出ないようお願いいたします」
「わかりました! 戻ってくるまでに、大部屋のお掃除も進めておきます」
この建物にはまだまだ掃除する箇所がたくさんある。ジェーンさんに言われなくても、当分離れでの仕事は終わらないだろう。
「無理すんなよ。じゃあ、また明日な!」
「うん、またね、アンディ」
アンディたちを送り出すと、静寂な空間が訪れた。
天井の蜘蛛の巣も取ったし、不気味要素はだいぶ減ったと思うのだが、それでもまだ誰かに見られているような気配が残っている。
本当に不死系モンスターがいるとは思えないが、別の何かが棲んでいるのだろうか。
「ま、いっか」
私は視線の主を探すのを放棄して、キッチンの掃除に戻った。
魔物は怖いが、死霊は怖くない。聖属性の魔力を、微量でも保有する私は、彼らにとって天敵だ。遠くから見られはしても、襲われることはない。
小動物や虫も然りだ。こちらから巣を荒らしたり危害を加えたのでなければ、自分の勝てない相手を襲ってはこないだろう。
あ、でもネズミだったらちょっと嫌だ。色々なところを齧るから。
けれど、掃除しているときに何かが齧られている形跡は見つけられなかったから、ネズミではないだろう。
「ふんふふーん♪ らんらららー♪」
私は鼻歌を歌いながら、シンクをピカピカに磨き上げていく。
視線を送ってきていた謎の気配が、小さく揺らいだような気がした。
失敗ポーション休憩を挟みつつ、キッチンをある程度磨き終える。そのまま大部屋の掃除に突入していたら、いつの間にか日が傾いてきていた。
「あー、時間が経つのって早い」
私はそうぼやいて、大部屋の照明を点ける。埃は明るいうちに払っておいたので、抜かりはない。
天井にぶら下がっている照明用の魔道具は、神殿にあった簡素なものとは違って、ずいぶん立派だ。
確か、シャンデリアとか言っただろうか。わずかな振動で透明な飾りが揺れ、それに光が反射してきらきらと輝く、貴族に人気の照明器具らしい。
自分には縁のないものだと思っていたので、細かい部分の掃除の仕方がわからない。あとでジェーンさんに聞いてみた方が良さそうだ。
「明日になったら、窓掃除と、カーテンも洗わなくちゃね。あとは……お庭も少し手を入れたいな」
家庭菜園らしきところは、おそらくジェーンさんが世話をしているのだろう。だが、それ以外の場所は雑草が伸び放題だ。広大な敷地なので、草むしりも大変そうである。
「キリもいいし、そろそろポーション作っておこうかな」
私は先ほど洗っておいたグラスに、水を入れる。規定の瓶と同じぐらいの水量……グラスに半分ぐらいだろうか。同じグラスが七つあったので、全てに同量の水を注ぎ、トレーに載せてテーブルに運ぶ。
「ふぅ」
椅子に腰掛け小さく息をついた私は、目を瞑り、七つのグラスにまとめて浄化の魔法をかける。手のひらからぼんやりとした光が発せられ、私の周囲に広がっていく。
光の色は、オレンジよりも少し深い黄色。これが私の魔力色である。光量が少ないのは、私の魔力が弱いせいだと思う。
「うん、もういいか。すう……はあ……」
私は浄化の光をおさめると、深呼吸を繰り返す。ここまでの作業は簡単なのだが、この後、治癒の魔力を込めていくのが難しいのだ。
実際、浄化の魔法は十本ぐらい同時にかけても均一に仕上がるが、治癒の魔法は一本ずつでないとできない。
「よし」
気合いを入れて、一杯目のグラスに治癒の魔力を込め始める。琥珀色の光の粒が点々と現れ、浄化を施した水に降り注いでいく。光の粒は徐々に増えていき、濃度を増して、水に吸い込まれていく。
しかし、水から霧散していく魔力もかなり多い。ポーション精製の鍵になるのは、この霧散していく魔力よりも多くの魔力を一気に注ぎ、固定させることだ。
魔力を効率よく固定するためには、その前の浄化の作業で不純物をしっかり取り除いておく必要があるらしい。
特に、植物の液や動物の角など、他の薬の素材になるようなものが混ざっていると、互いに干渉し合って治癒の効果が減ってしまう――初めて治癒魔法に挑戦したときだったか、筆頭聖女様自ら、私にそう教えてくれたことがある。
なら、解毒ポーションなどはどうやって作っているのかと興味本位で聞いたら、「お前ごときにはまだ早いわ。余計なことを考えず、まずはまともなポーションを作ってみたらどうかしら」と怒られてしまった。
そして、基本のポーション精製すらロクにできないからだろう。神殿には、怪我や病気の治癒のために訪れる人がいるのだが、治癒希望者たちの前に出させてもらったことは一度もない。
練習相手もいなかったし、本番で恥をかかないようにしてくれたのだと思う。筆頭聖女様は、お言葉こそ厳しいし、一見無理そうなことを仰ることも多いが、優しいお心を持っているのだ。
彼女は、性格も良い上に、月のように輝く長い銀髪と紫色の瞳の、美しい容姿をしている。生家は由緒正しい侯爵家で、幼い頃から王太子殿下の婚約者という、世の中の全てを持っているようなお方だ。
神殿に拾われる前のことを一切覚えておらず、親の顔も知らない私とは、住む世界が違う人なのである。
「あっ」
余計なことを考えながら魔法を使っていたからだろうか。また、精製に失敗してしまった。
魔法の発動をやめると同時に、グラスの中の魔力が霧散していく。
「あーあ。失敗ポーションだ……」
できあがったのは、ほぼ透明な、薄い褐色の液体。私はため息をついて肩を落とした。
「できたてのポーションですか。独特な香りがするのですね。香ばしくて、良い香り……どこかで嗅いだことがあるような……」
「へっ!?」
私が驚いて振り返ると、すぐ近くにジェーンさんが立っていた。作りたての失敗ポーションの入ったグラスを、眺めていたようだ。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ございません」
「い、いえ……」
ポーション精製のときは集中しているから、物音に気がつかないことも多いが、こんなに近くにいるなんて。彼女は気配を消す達人ではないだろうか。足腰が悪いはずなのに、不思議である。
「クリスティーナ様、少し早いですが、夕食をお持ちいたしました。わたくしは、これから主様のお世話に戻らなくてはなりませんので。お好きなときに召し上がってください」
「わかりました。ありがとうございます」
ジェーンさんは夕食の入ったバスケットを、テーブルの上に置いた。アンディの分がないので昼よりも少なく見えるが、これまで一日一食生活だった私にとっては、充分すぎる量だ。
「それと……アンディ様から伺ったのですが、クリスティーナ様のポーションを飲むと、体力が回復するとか。おひとつ、頂いてみてもよろしいですか?」
「はい、もちろんです! ひとつでもふたつでも、お好きなだけ持って行ってください。鞄の中にもまだ残ってますから」
「それでは、お言葉に甘えて、ありがたく頂戴いたします。こちらのグラスと、瓶に入ったものを一本、頂いてよろしいですか?」
「どうぞどうぞ!」
私が鞄の中から失敗ポーションの瓶を取り出すと、ジェーンさんは丁寧に礼を言って受け取った。そうして彼女は、瓶とグラスを持って、母屋へと戻っていったのだった。
――まさか、ジェーンさんに渡したこの失敗ポーションがきっかけで、私の身にあんなことが起きようとは。
このときの私は、全く想像もしていなかった。
翌朝。
まだ日が昇りきる前に、私は目覚めた。
皆が起き出す前に朝食の支度を……と思って起き上がったところで、ここが神殿ではなかったことを思い出す。
「……そうだ……ここ、林の中の一軒家の離れ……」
一軒家の離れ。自分で言っておいて何だが、やはり違和感がある。ここは一体、誰の邸宅なのだろうか。
朝食の支度をしなくていいのだから、本当はまだ寝ていても良いのだが、なんとなくいつも通りに目は覚めてしまうものである。ベッドは今までとは段違いの暖かさで、逆に居心地が悪いぐらいだった。
「今日は窓掃除と、大部屋のシャンデリアの仕上げをして、廊下と階段と二階の埃をざっと払って……」
私は着替えをしながら、やることと順序を頭の中で組み立てていく。
そういえば昨夜、この小部屋の扉を閉めたら、探るような視線は感じなくなった。何かが棲んでいるのは大部屋か、大部屋に面した窓の外なのかもしれない。
「まだ屋敷のご主人はお休みになっているだろうから、静かにできる作業から始めよっかな」
私は小さく気合いを入れて、屋内のバスルームで窓を開けずにできる作業――カーテンの洗濯から、始めたのだった。
一階のカーテンを全て手洗いしていたら、そこそこ時間が経っていた。なにせ、大部屋には何箇所も窓があるのだ。
バスルームと庭を何往復かして、全てのカーテンを干し終わったところで部屋に戻ると、テーブルの上に朝食のバスケットが用意されていた。
「本当に三食用意してくれてるんだ……ありがとう、ジェーンさん」
ジェーンさんの姿は見えないが、私は母屋の方に向かって手を合わせた。
こんなにたくさん食事をとることは、これまでなかったので、胃が驚いているようだ。だが、これも仕事の一環と言われている。
ゆっくり味わいながらいただいていると、失敗ポーションを飲まなくても、疲れが癒やされるような心地がした。
「……なんか、いいなあ。自由だなあ」
私は、ふにゃりと笑って、呟いた。
神殿にいたときと違って、ここでの生活は、急かされることがない。自分のペースで、自分のやりたいところから、自分のやり方で作業を進められる。
料理をしている途中で洗濯物を押しつけられたり、洗濯を干しているときに靴を磨くように言いつけられたり、掃除の途中でバケツを倒されたりすることもない。
屋敷の主人は何か訳ありっぽいけれど、あちらから関わってこない以上、私は自分の仕事をマイペースに進められる。
アンディもジェーンさんも、私に対して無理難題を押しつけてこないし、怒鳴ったりもしない。まるで、昔私を拾ってくれた、定年退職してしまった神官様や、名前も知らないけれど必ず挨拶をしてくれた神殿騎士様みたいだ。
世の中にはこんなに優しい人たちがいるのか、と正直驚いている。神殿は、特別、戒律が厳しいのだ。
「優しくしてくるジェーンさんのためにも、早く離れのお掃除を終わらせて、お庭の整備に移らなくちゃ!」
私は気合いを入れ直して、食べ終わった食器をシンクでちゃちゃっと洗う。相変わらず謎の視線は私を追いかけてきたが、もう気にならなくなった。
「ティーナ、おはよ!」
「あっ、おはよう!」
大部屋の外窓を掃除していたところに現れたのは、アンディだ。買ってきた荷物を抱えて、母屋の玄関の方へ向かっていく。
玄関扉の横には、昨日はなかった大きな箱が置かれていた。アンディはその箱の中に、荷物を入れていく。
「ポーションの瓶も買ってきたから、後で渡すよ」
「うん、ありがとう! とっても助かる」
私が微笑んでお礼を言うと、アンディは照れたように、ニカっと笑った。
「今日は窓掃除だな。オレも手伝うよ」
「ふふ、ありがと」
この二日間で、私は何度「ありがとう」と言っただろう。
こんなにたくさん、心から「ありがとう」が湧き出してくるのは、生まれて初めてじゃないだろうか。
神殿から出るときに抱いていた、これからの人生に対する不安は、もうすっかり消え去っていた。
最初は怪しいと思っていた依頼だが、こうしてやって来てみれば、こんなに居心地がよい。
きっと、女神様のお導きがあったのだろう。私はとても強運だ。
「ふふんふーん♪」
私は再び、機嫌良く窓掃除を再開した。
昨日は気になっていた謎の視線すらも、なんだか温かく見守ってくれているように感じられる。
「ん?」
視界の端で、母屋のカーテンがわずかに揺れた。
三階の部屋だ。そこに屋敷の主人がいるのかもしれない。
だが、カーテンが揺らいだのも一瞬だけで、私には部屋の主の姿を見ることはできなかった。
その後、アンディにポーション精製の様子を見せたり(珍しく初級ポーションの精製に成功して、自分でも驚いてしまった)、引き続き掃除をしていたら、あっという間にアンディが買い出しに行く時間になった。
「ティーナ、ジェーンさん、じゃあまた明日!」
「うん、また明日!」
「はい。買い出し、お願いいたします」
そうしてアンディは街へと帰っていった。離れの玄関から彼を見送っていると、そのまま、ジェーンさんが私に話しかける。
「クリスティーナ様。主様より、明日から、母屋への出入りをご許可いただきました」
「えっ、本当ですか! ありがとうございます!」
ジェーンさんは頷く。離れの掃除も今日でほとんど終わってしまうだろうから、その提案はありがたい。
「ただし、申し上げたとおり、明日からでございます。本日中……いえ、夜が明けるまでは、絶対に母屋へは入らないでください」
「わかりました。ちなみに、アンディは?」
「アンディ様には、庭と外観の整備、補修を行っていただきます。ところどころ、壁にヒビの入っている部分や、錆びて開かなくなっている扉がございますので」
「なるほど、手分けしてお仕事する感じですね。頑張ります!」
ジェーンさんはくすりと控えめに笑った。
「クリスティーナ様は、少々頑張りすぎでございますよ。もう少し、ゆるりとなさったらよろしいのに」
「えっ? 十分ゆっくりさせてもらってますよ?」
「……少しずつ、『休む』ということも覚えて参りましょうね」
「んん……?」
私は首を傾げるが、ジェーンさんは優しい笑みを浮かべたまま、何も言ってくれない。
かと思うと、少ししてジェーンさんは突然、「あっ」と小さく声を上げた。
「いけません、うっかり忘れてしまうところでございました。クリスティーナ様、昨日頂戴したポーションは、まだ残っていますでしょうか?」
「あ、はい、まだまだありますよ! 今日もお昼に一度作ったんです。何本お渡ししましょうか」
「では、本日も、二本いただいてもよろしいでしょうか。それと……初級ポーションもお持ちではございませんか?」
「はい、持ってます。ちょっと待ってくださいね」
私はジェーンさんを大部屋の椅子に座らせ、食器棚の空きスペースに入れておいたポーションを取り出す。
ポーション瓶に入った初級ポーションが二本と、空き瓶を二本。それから、小皿を逆さにして蓋にしてあるグラスを二つ。空き瓶が不足しているので、失敗ポーションはグラスのまま保管していたのだ。
「瓶に入っている方が、初級ポーションです。神殿から持ってきていた分はアンディに渡してしまったので、昨日作ったやつと、今日作ったやつ、合わせて二本なんですけど」
「左様でございましたか。お代はお給金に上乗せでお支払いいたしますので、どうか、その二本も、売ってはいただけませんか?」
「お代なんていいです! どうせ二束三文ですから。初級ポーション二本と、失敗ポーション二本、お役に立てたら、何よりも嬉しいです!」
神殿にいた頃、売り物にもならない私のポーションは、市場に出回ることなく自分だけで消費していた。水仕事が多いので、あかぎれやしもやけを、しょっちゅう作っていたのだ。
昨日今日みたいに、ゆっくりポーション精製の時間を取れることも少なかったので、一週間に一、二本初級ポーションが作れるかというところだった。
だから、私のポーションが誰かの役に立つことなんて初めてだ。
ポーションをお金に替えることなんて、仕事を得た今は、正直もうどうでもいい。優しいジェーンさんや屋敷のご主人様が活用してくれる、そのこと自体がこの上なく嬉しかった。
「ありがとうございます。大切に頂戴いたします」
失敗ポーションを二本の空き瓶に詰め直して、しっかりと蓋を閉める。ジェーンさんは、四本の瓶が載ったトレーを、丁重に受け取った。
「あ、失敗ポーションの方は飲めますけど、初級ポーションの方は苦すぎてとても飲める物ではないので、傷口にかけたり塗ったりして使って下さいね」
「承知いたしました。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます!」
そうしてジェーンさんは、足元に注意しながら、ゆっくりと母屋へ戻っていった。本当はトレーを運ぶのを手伝ってあげたいのだが、今日はまだ出入りが許されていないから、仕方がない。
私のポーションに需要があるのなら、もう少し作っておこう。私はそう思い、空いたグラスを洗って、再び水を計量したのだった。
ポーション作りに没頭しているうちに、日が沈み、夜が訪れた。月のない、暗い夜だ。
私は、昼間に干したカーテンを取り込みに、急いで庭へ出ていた。
「もう、私としたことが、すっかり忘れてた!」
ずっと精製に集中していたから、こんなに暗くなるまで、全然気がつかなかった。
カーテンだから干しっぱなしでも良いが、これが寝具だったら、冷たくなりすぎて眠りに就くのが大変になっていただろう。
「大部屋の分は最悪明日でもいいけど、さすがに小部屋の分は今日中に付け直さないと」
林の中にある家だし、あの謎の視線を除いて、誰かが見ているわけでもない。けれど、一応プライベートな場所なのだから、隠しておいた方が落ち着くだろう。
「小部屋の分は端っこに干したんだよね……うん、これね」
地面につかないようにカーテンを丸めて、両腕で抱える。と、そのとき。
「ん?」
ふと、昼間のように、母屋の三階のカーテンが揺れた気がして、私はそちらに視線を向けた。
室内に揺れるわずかな光を受けて、カーテンに影が映っている。
「……んん?」
――そこに映る姿は、異形のものだった。
だが、映ったのも一瞬のこと。影の主は、すぐに窓際から離れてしまったようだ。
「あそこ、お屋敷のご主人のお部屋よね。ペットでも飼ってるのかな?」
あまり良く見えなかったが、人間の上半身の影と、翼と尻尾の影が見えたように思う。
異形の上半身の影は見えなかったが、おそらく、屋敷の主人の影と重なっていてカーテンには映らなかったのだろう。
大きな翼と太い尻尾のあるペットに心当たりはないが、きっと私の知らない動物に違いない。
神殿では動物を飼っていなかったし、犬や猫なら神殿を訪れる人たちが連れてくる場合もあった。鳥や蛇を飼っている人もいると聞いたことがあるし、世の中には私の知らない動物もたくさんいる。
「ジェーンさんは『主様がお一人で住んでる』って言ってたけど、ペットたちがいるなら寂しくないわね」
屋敷のご主人の境遇はわからないながらも、ジェーンさんと二人ではきっと寂しいだろうと心配していた。私など、人のいっぱいいる場所で育ったから、なおさらだ。
けれど、心許せるペットがご主人の側にいてくれるのなら、一安心である。
「さてと。お部屋に戻って、カーテンを取り付けなきゃ」
私は鼻歌交じりで離れへ戻り、手際よくカーテンを取り付けていく。
洗い立てのカーテンをつけると、部屋の中も明るくなったような気がして、私はにこにこと微笑んだ。
翌朝、私はまた、日が昇る前に目が覚めた。
長年しみついた習慣というものは、なかなか侮れないものだ。
「今日からは、母屋のお掃除をしてもいいんだよね。でも、最初だし、とりあえずジェーンさんを待ったほうがいいか」
どのみち、ジェーンさんは大部屋に朝食を置きに来るはずだ。それまでの時間を利用して、昨日取り込み忘れていたカーテンを全部付け直してしまおう。
大部屋の扉を開くと、今日も朝から謎の視線に出迎えられた。いつも見守られているのにも、もうすっかり慣れてしまった。
「そういえば、母屋に移ったら、視線さんともお別れなのかな?」
私がそう呟くと、謎の気配は、慌てたように小さく揺らいだ。もしかしたら、見ているだけではなく、声も聞こえているのかもしれない。
「んー、どこの誰かも知らないし、どこから見ているのかもわからないけど……視線さん、夜にはここに戻ってくるから、心配しないで! 寂しいかもしれないけど、お仕事なんだ。ごめんね」
私が辺りを見回し、微笑みながらはっきりとした声でそう言うと、謎の気配は思い切り動揺したようにあちこち動き回り、ふっとかき消えてしまった。
「あれ? 消えちゃった? 声、かけないほうが良かったかなあ」
視線さんは、恥ずかしがり屋なのかもしれない。悪いことをしてしまった。
けれど、どこかへ行ってしまったものは仕方がない。私は考えるのをやめて、カーテンの取り付け作業を始めたのだった。
その後。
食事を終えた私は、再び迎えに来たジェーンさんと一緒に、母屋へと向かった。
「まず、注意点を申し上げておきます。三階には、決して立ち入らないようご注意下さい。主様の私室および生活空間がございますので」
「わかりました。あの、私、お屋敷のご主人様には、ご挨拶しなくていいんですか?」
「それには及びません。いずれ、主様の方から、お呼びがかかるかと思いますので」
「そうですか……」
私は肩を落とした。雇い主である屋敷のご主人には、心から感謝しているのに、挨拶もさせてもらえないだなんて。
もしかしたら、ジェーンさんが私を認めてくれただけで、まだご主人にはきちんと認められていないのかもしれない。
そんな風に考えていたら、すかさずジェーンさんがフォローしてくれた。
「ご心配なさらずとも、クリスティーナ様は主様に歓迎されておりますよ。母屋への出入りをお認めになったというのが、証拠でございます」
「え? それって、離れの掃除が終わったからじゃないんですか?」
「いいえ。クリスティーナ様だからこそでございますよ。現に、アンディ様はまだ、母屋への出入りを認められておりませんでしょう」
「そっか……」
母屋に呼ばれたのは、てっきり、離れでやることがなくなったからだと思っていた。
だが、どうやらそれだけではないらしい。私の心に、喜びとやる気がみなぎってくる。
アンディが呼ばれなくて、私が呼ばれた理由はわからないが、期待されているのなら応えなくてはならない。
「私、認めてもらえたんですね。なんだか、嬉しいな。もっともっと頑張りますね!」
「その意気です。ですが、くれぐれもご無理はなさらないでくださいませ。では、ひとまず一階から、ご案内いたします」
ジェーンさんはそう言って、屋敷の一階と二階を、一通り案内してくれたのだった。
そうして、心配する間もなく。
私がとうとう屋敷のご主人との面会を果たしたのは、母屋の掃除に取りかかり始めた翌日のことだった。
「クリスティーナ様、主様がお呼びでございます。朝食がお済みになりましたら、直接、三階までお越し下さい」
「えっ! は、はい、わかりました! 急いで食べます!」
「ゆっくりで結構でございますよ」
ジェーンさんはそう言ったが、雇い主を待たせていると思うと、ゆっくりもしていられない。私はできる限り急いで朝食を済ませ、持っている服の中で一番まともに見えるワンピースを着て、母屋へと急いだのだった。
三階には初めて足を踏み入れたが、案外、質素な内観になっていて驚いた。
まだ掃除が済んでいないのだが、二階にあるギャラリーや、一階にあるボールルーム、応接間などは、いくらぐらいするのかもわからない贅沢な調度品がたくさん置かれていた。外から初めてこの屋敷を見たときの不気味なイメージからはかけ離れた、豪華な内装だったのだ。
それが、三階の廊下には、美術品の一つも置かれていない。あるのは、庭に咲いているわずかばかりの花が活けられた花瓶が一つと、それが載せられている背の高い小ぶりのテーブルだけ。
カーテンは全て閉め切られ、昼間だというのに魔道具のランプが灯っている。
ジェーンさんが立っていたのは、廊下の突き当たりにある部屋の前だった。
「ジェーンさん」
「お早かったですね。少々お待ちくださいませ」
ジェーンさんは私に気がつくと、私に小さく会釈をして、扉をノックした。
「主様、クリスティーナ様がいらっしゃいました」
「ああ。通してくれ」
返ってきた声は、低く通りの良い男性の声だった。
「どうぞ」
「……失礼いたします」
ジェーンさんが道を譲り、私は室内に入る手前で深く礼をする。
以前ジェーンさんが高貴な方だと言っていたし、屋敷を見れば実際そうなのだろうと思っていたので、私は目線を下げたままで最敬礼をした。
「礼はいい。中に入れ」
「ありがとうございます」
返ってきたのは、ぶっきらぼうな言葉だ。その言葉通り、私は視線を下げたまま室内に一歩足を踏み入れる。
「クリスティーナと申します。この度は、私を雇っていただき、ありがとうございます」
「堅苦しい挨拶もいい。疲れるだろう。顔を上げてくれ」
言葉こそ無骨なものだが、そこには、緊張して固くなっている私への気遣いが、はっきりとにじんでいた。
私が言葉通り顔を上げると、背の高い、立派な身なりの若い男性と目が合った。
――まっすぐに私を見つめる、黄金色の瞳。鋭く形良い目を縁取る、長い濃紺の睫毛。高く整った鼻梁。薄い唇はまっすぐに結ばれている。
闇を溶かしたような、濃紺の髪は少し長めだ。耳には、細長い金色のピアスが揺れている。
二十代半ばぐらいだろうか。美しい――私がこれまで見たどんな男性よりも、美しく、繊細な容貌を持つひとだった。
私が屋敷の主人らしき男性に見とれていると、彼は、ふっと口元を緩めて話し始めた。
「クリスティーナ嬢。実際に顔を合わせるのは、初めてだな」
「え? あ……はい、初めまして……?」
彼の変な物言いがひっかかったものの、私はとりあえず適当に返事をする。彼は、何が面白いのか、目を細めて私をじっと見つめていた。
じっと見つめられるのは居心地が悪いはずなのに、その視線には、なんだか既視感があって――。
「あっ! もしかして……」
「……悪かったとは思っている。だが、こちらにも事情があってな……プライベートは見ないように気を遣ったつもりだ」
「やっぱり! 視線さん!」
申し訳なさそうに頷く彼を見て、私は彼があの謎の視線の主だったのだと悟った。
なるほど、屋敷の主人が直々に私たちを観察していたから、直接顔を合わせていないのに私を信頼し、母屋への出入りを認めてくれたのだ。
「無断で監視して、済まなかった」
「いえ、全然平気です! むしろ見守られてるみたいな感じでしたし」
「しかし、君に話しかけられた時には動揺したよ。まさか、この魔法に気が付いていたなんてな」
「ふふ、なんとなくです」
私がにこりと笑うと、彼も安心したように表情をゆるめた。
「改めて、私の名は、ギルバート・フォレ・レモーネ・メリュジオン。この屋敷の主人だ」
「ええと、メリュジオン様……って、ええ? メリュジオン様?!」
メリュジオン。
それはこの王都の名であり、王国の名でもあり、すなわち、彼は――。
「お、王家の方……! 大変失礼いたしました!」
私は慌てて、再び最敬礼をとった。私は頭をフル回転させて、王族の名前を記憶から引っ張り出す。
ええと、ギルバート様……国王陛下ではない。王太子殿下でもない。そもそも、王太子殿下はまもなく十八歳になるところで、成人と同時に筆頭聖女様と結婚されるから、明らかに年上の彼は王子様のどなたかではない……。
「顔を上げてくれ。先ほども言ったが、堅苦しいのは好きではない。互いに疲れるだろう」
「は、はい」
「クリスティーナ様。主様は、国王陛下の末の弟君。王弟殿下にあらせられます」
「王弟殿下……」
ジェーンさんが補足してくれて、私は顔を上げる。ギルバート王弟殿下は、笑みを消して重々しく頷いた。
「王弟という言葉も、殿下という言葉も好きではない。私のことはギルとでも呼んでくれ」
「そ、そんな、恐れ多いです!」
「では、ギルバートと」
「う……ぎ、ギルバート様」
「ああ、それでいい」
ギルバート様は、満足そうに頷くと、部屋の中央に設えられたソファーに座るよう、私に促した。
私が素直に従うと、ギルバート様はテーブルを挟んだ向かい側に座る。
「それで、私は君を継続して雇用したいと思っているのだが、君はどうだろうか」
「ぜひお願いします!」
「ふ、即答だな」
「はい。私、今の生活がとっても気に入ったんです」
「そうか。ならば、正式な雇用条件を定めようか」
そうして、私はギルバート様に言われるがまま、雇用条件を決めていった。
試用期間よりもさらに良いお給金と待遇が提示され、私の出入りできる範囲が、ギルバート様の寝室と執務室を除く全ての部屋に拡張された。
ギルバート様は、この私室の隣にある執務室から、遠隔通信魔法と転送魔法によって、自らの治める領地の執務をこなしているそうだ。
また、ギルバート様は詳しくは話してくれなかったが、病気のようなものを抱えているらしい。
私のポーションを飲んだら少し改善したらしく、これからも私のポーションが必要なのだとか。
そのため、これから毎日、私の作った失敗ポーションを届けてほしいとのことである。
「初級ポーションじゃなくて、失敗ポーションでいいんですか?」
「ああ。初級ポーションは苦すぎて飲めないからな。……だが、失敗ポーションという言葉は座りが悪いな。私にとっては、失敗でも何でもない、優秀な聖女の成功ポーションなのだから」
「ゆっ……!?」
ギルバート様はそう言うと、ふむ、と顎に手を当てて少し考える仕草をした。
私が驚きのあまりあんぐり口を開けてしまったのには気が付いていないようだ。助かった。
「君のあのポーションは、何かに似ていると思って、ずっと考えていたのだが……ようやく思い出した。昔、一度だけ南国から輸入した、黒い薬湯によく似ている。何という名だったか……確か……」
ギルバート様はようやく腑に落ちたという顔をして、口角を上げてその名を告げる。
「――そうだ。珈琲だ」
「こーひー? ですか?」
「ああ。豆を煎った香ばしい匂い。苦みの奥にわずかに残る果実の酸味。心安らぐ香りと、癖になる味わい――薬湯でなく、嗜好品にもなり得ると感じたのを覚えている」
ギルバート様は、懐かしそうに目を細めた。どんな表情をしていても、絵になるお人だ。
「君のポーションは、その珈琲の風味に良く似ている。まあ、君のポーションの方が、琥珀色で美しいが。……よし、決めたぞ」
ギルバート様は、鷹揚に頷いて、私の顔を見て微笑む。その笑顔がまた破壊的に美しい。さっきから眩しすぎて、瞬きの回数が増えている気がする。
「君が失敗ポーションと呼ぶそれは、これから琥珀珈琲と呼ぶことにしよう」
「琥珀珈琲……! なんだかお洒落です!」
琥珀色の、珈琲という薬湯に似た、ポーションもどき。失敗ポーションには勿体ない、素敵な命名である。
「貴女が自分のことをどう思おうと、周りが貴女のことをどう思おうと、クリスティーナ嬢、君は私の大切な聖女だ。――君をしばらく観察していて確信した。やはり君は、あの時、私を救ってくれた聖女なのだと」
私は、ギルバート様のストレートな言葉に赤面する。
それと同時に、後半の言葉に首を傾げた。あの時、とは……無能な私が、かつて、誰かを救ったことなどあっただろうか?
「クリスティーナ嬢、これから毎日、私に琥珀珈琲を用意してほしい。そうして、私の心と身体を支えてほしい。――頼めるか?」
「……っ、はい。もちろんです!」
優しく目を細めて問うギルバート様に、私はますます赤面しながらも、大きく頷いた。
なんだか手玉に取られている気がするが、この美しく孤独な彼の支えになれるなら、これ以上嬉しいことはない。
「嬉しいよ、ありがとう。……ただし」
そこでギルバート様は、笑みを消して真剣な表情をした。
笑みを消した鋭い金色が、私の青い瞳を射貫く。
私は、何を言われるのかと身構え、こくりと息を呑んだ。
「週に一度、大地の日の朝だけは、琥珀珈琲を二杯、届けてほしい。そして、大地の日の夜から豊穣の日の朝までは、絶対に私の部屋を訪れてはいけない。良いか、絶対にだぞ」
「……? はい、わかりました。そんなことでしたら」
「……ああ、良かった。ありがとう」
私の答えに、ギルバート様は安心したようだった。絶対に忘れないようにと、心の中にしっかりとメモしておく。
この国で定められた曜日は、七つ。
星月、灯火、慈雨、樹木、黄金、大地、豊穣。
豊穣の日が終われば、また星月の日から週が始まる。
そういえば、私が母屋への出入りを許可されたのが、豊穣の日の朝からだった。
前日、大地の日の夜に、この部屋のカーテンにペットらしき何かの影が映っていたのを思い出した。
だが、この部屋にはその姿は見当たらないし、声も聞こえない。ペット用品らしき物も、パッと見、なさそうだった。
「あの、ところで、ギルバート様。ペットとかは、飼ってらっしゃいますか?」
「……いや? 飼っていないが」
「そうですか……?」
なら、あの日見た翼や尻尾の影は気のせいだったのだろう。私は気を取り直して、他の契約条件についても確認を進めていったのだった。
それからというもの。
私の朝は、朝食をいただいてから母屋の三階を直接訪れ、ギルバート様に失敗ポーション改め琥珀珈琲を給仕し、しばらくの間彼の話し相手になってから通常業務に入る、というものに変わった。
ギルバート様と顔を合わせる時間が増えるにしたがって、彼との仲も少しずつ打ち解けていった。
ギルバート様にとって、こうして私と話をする時間は、そもそもの目的であった『琥珀珈琲を飲んで体調を改善させる』ということよりも大切な、安らぎのひとときになっているのだという。
そして、それは私も同じだ。
彼と話をする穏やかでゆったりとした時間は、徐々に、私自身にとっても大切な時間に変わっていった。
ギルバート様と二人の時間を過ごした後は、昼食や休憩の時間を除いて、日が沈むまでの時間をそのまま母屋で働く。
休憩時間と夜間は離れで過ごすというのは、今も変わっていない。
ギルバート様は、母屋の清掃が進んだらそちらに移り住んでもいいと言ってくれているのだが、離れでの自由気ままな暮らしは気に入っているので、今はまだ首を縦に振ってはいなかった。
ちなみにギルバート様からは、丸一日休みの日を週に二回とってもいいと言われていた。
だが、街に出てもすることがないし、ここでの仕事はやりがいがあるから、仕事をして過ごす方が楽しい。
悩んだ結果、ジェーンさんにそう伝えたら、「わたくしも似たようなものですから、無理にとは申しません」と理解を示してくれた。
行きたい所ができた時は、街に詳しいアンディにでも相談してみようと思っている。
けれど、何故かギルバート様も「街歩きをするなら、私が案内するから、必ず声をかけてくれ」と言っていた。
まあ、ジェーンさんから「護衛を雇わなくてはなりませんし、わたくしもご一緒することになりますが」と言われて、項垂れていたが。
ギルバート様も領主としての執務が忙しいようだし、たまには息抜きがしたいのだろう。
私は執務を手伝えない分、琥珀珈琲と身の回りのお手伝いで彼を支えようと、改めて気合いを入れ直したのだった。
アンディは相変わらず街から屋敷に通っており、買い出しと庭の整備、屋敷外観の補修を担当している。
休憩時間は、離れの大部屋で一緒に食事をとったり、琥珀珈琲を飲みながら話をしたりした。
アンディの勤務は毎日ではなく、数日おきに変わったようで、顔を合わせない日は冒険者ギルドで依頼を請け負っているのだそうだ。
そんな事情もあってか、彼はまだ、母屋への出入りを許可してもらっていない。
「そろそろ出入りの許可、降りないのかな? アンディ、頑張ってるのにね」
「まあ、こればっかりは仕方ないよ。オレからしたら、オレがダメでティーナがオッケーっての、納得いくし」
「そうなの?」
「うん。……オレはさ、何やってもダメなんだよ」
いつも元気に見えるアンディだが、今日は朝からちょっと落ち込んでいるようだ。冒険者の仕事で、何かあったのだろうか。
「何やってもダメなんて、そんなことないよ。アンディ、私がこの依頼を選んだとき、勇気を出して私に同行してくれたでしょ?」
「……でも、結局、オレはビビってばっかで、役立たずで」
「そんなことないってば」
確かにあの時アンディは、屋敷の外観やジェーンさんを見て怯えている様子だった。それでも、街の郊外まで行ったことのなかった私にとっては、とても頼りになったのだ。
「私は、アンディがいてくれて心強かったよ。それにね……私も、これまでずっと、自分が役立たずだったって思ってた。けど、本当はそうじゃなかったんだって教えてくれたのは、アンディだよ?」
「……え?」
「アンディは、私が神殿の掃除や雑用しかできなかった、って言ったときに、こう言ってくれたでしょ? 私が、縁の下の力持ちだって。間接的に、人を救ってたんだって」
私は、実際に役立たずだった。無能すぎて、神殿を追い出されてしまった。
けれど――アンディの言葉を聞いて、これまでの十五年間が無駄ではなかったと、初めてそう思えたのだ。
「あの言葉、とっても嬉しかったんだよ。私は私にできることを頑張れば、それが誰かの役に立つんだって気付いたから」
私が微笑みながらそう言うと、アンディは瞳を揺らした。同時に、アンディを観察していたのだろう例の視線もまた、揺らいでいるような気配がした。
「ね、ギルバート様、聞いてたでしょ? この通り、アンディはいい子で、私の大事な友達なんです。そろそろ、認めてあげてくれませんか?」
「えっ?」
私が空中に向かって話しかけると、ギルバート様の気配は、また少し揺らいだのだった。
その後、アンディの出入り許可は、あっさり降りることとなった。
ただし、ギルバート様は私と挨拶した時と違って、ご自身の正体は明かさず、「病気療養中の地方貴族だ」として、ファーストネームしか名乗らなかった。
アンディが去った後に、ギルバート様にその理由を聞くと、今は自分の正確な居場所を隠しておきたいからだと言っていた。
冒険者であり人付き合いも多そうなアンディが、うっかり自分のことを話してしまわないか、心配なのだそうだ。
「それにしても、大事な友達、か」
「はい。アンディは、私が神殿を出てから初めてできた友達なんです」
「ふ、そうか。友達か」
ギルバート様は、琥珀珈琲を飲みながら、機嫌良さそうに微笑んだ。最近は、琥珀珈琲を火の魔道具で軽く温め、ティーカップに注いで優雅に嗜むのを好んでいる。
「ちなみに、君にとって私はどんな存在だ?」
「もちろん、とっても大切な方です!」
私が笑顔で即答すると、ギルバート様はさらにご機嫌になった。私の答えがお気に召したらしい。
かと思うとギルバート様は、すぐそばに立っている私をちらりと見上げて、何やらソワソワし始めた。
「……なら、私も君のことを、彼と同じように呼んでも良いか?」
「ふふ、ぜひぜひ! 私のことはティーナと呼んでいただけたら嬉しいです」
「そうか。ありがとう、ティーナ」
ふわりと微笑むギルバート様は、気をつけていないとつい見惚れてしまうほど美しい。
けれど、彼の本当に美しい部分は、その麗しい容姿ではなく、中身の方なのだと私はもう知っている。
彼が病に冒されながらも、私たちの前で苦しい顔を全く見せないこと。
苦しいはずなのに、いつも忙しく執務をしていること。
忙しい執務の合間に、自分のことは差し置いて、私やジェーンさんのことをきちんと気にかけてくれていること。
いずれも、普通はなかなか出来ることではない。彼は、自分の心を律して他者を気にかける、優しさと強さと責任感を持ち合わせた人なのだ。
「ついでと言っては何だが、そろそろ君も私のことをギルと――」
「そっ、それはまだ恐れ多いです!」
「……ふ。『まだ』、か。なら今はいい」
ギルバート様は、再び琥珀珈琲を口に含むと、また機嫌良く微笑んだのだった。
アンディも、ジェーンさんも、ギルバート様も、みんな私にとっては大切な人達である。
大好きな人達のために、自分ができることをする。彼らも、彼らにできることをする。それが、彼らを助けているのだから、無理に苦手なことをする必要なんてない。
彼らは私に何かを強制することはないし、かと言って期待されていないわけでも、蔑ろにされているわけでもない。
私はアンディみたいに屋根に登って雨漏りを補修することはできないし、ジェーンさんみたいにお洒落なコース料理は作れない。もちろん、ギルバート様のように、難しい書類仕事をすることなんて不可能だ。
けれど、私はアンディの話し相手になり、ジェーンさんに代わって屋敷を綺麗な状態を保ち、琥珀珈琲でギルバート様を支えることができる。
きっと、それでいいのだ。
聖女としてのつとめや期待から解放されて、私は自由だ。
毎日ギルバート様の身の回りを綺麗に保つのも、琥珀珈琲を淹れるのも、仕事ではあるけれど、私自身がやりたくてやっていることだ。
私は、私を私として見てくれる、大切な人たちと一緒に生きていく。
私はいま、自由なのだ――。
――――
こうしてのんびりと暮らしていた私の身に、色々な出来事が降りかかることとなるのは、まだまだ先のことである。
ギルバート様と一緒の食事の席に呼ばれるようになったり、ガチガチに変装をして念願の街歩きに出かけたり。
大地の日の夜、偶然彼の秘密を知ってしまったり。
それを見た私があまり驚くこともなく、「私はギルバート様のお姿ではなく、お心が大好きなんです。……あ、でも、そのお姿も素敵ですよ」と笑顔でフォローしたら、ギルバート様の態度が蜜を溶かしたように甘く変わって、困惑したり。
けれど、ギルバート様の中で私が特別になっていくのがくすぐったくて、嬉しくて、自分の中でも日を追うごとに彼が特別になっていくのを自覚したり。
ギルバート様に言われて、ポーションに薬草のエキスを試しに入れてみたところ、薄い琥珀色どころか黄金色に輝く、中級以上の効果のポーションが出来上がって、驚いたり。
冒険者ギルドに持ち込むべきか悩んだ結果、ギルバート様預かりで、信頼のできる商人と直接取引をすることに決まり、それが多くの人の命を救うことになったり。
突然城壁を破って魔物が現れ、怖がりのアンディが双剣を手に魔物の前に立ちはだかり、私とジェーンさんを守ってくれたり。
ギルバート様が強力な魔法で魔物のボスを倒したものの、大怪我を負い、私が無我夢中で治癒魔法をかけたら、なんと全快してしまったり。
それを機に城壁修復が始まり、修復作業に当たっている冒険者たちに琥珀珈琲を差し入れたら、これで商売をしてみないかと持ちかけられ、ちょっとしたカフェブームが巻き起こったり。
希少な素材がポーション液に混入して、あっさり上級ポーションの精製に成功してしまったり。
陰で色々なことをやらかしていたらしい筆頭聖女様と神殿の罪がどこかから露見し、大変なことになったり。
ギルバート様が王宮に復帰することになり、色々根回しの末、私が彼の妃に据えられることになったり。
まあ、本当に色んなことが起きるのだが、それはまた別のお話――。
――――
★ギルバートの回想★
メリュジオン王家には、代々、呪いがかけられている。
一時代に一人、王族の誰かに必ず発現する呪いだ。
その呪いは、建国王の時代に端を発する。
建国王の妃は、神に連なる女性だったと言われている。
彼女の母親は女神であったが、父親は人間だった。
彼女はある日、母の怒りを買ってしまい、二人の姉妹共々呪いをその身に受けてしまった。
毎週、大地の曜日の夜になると、自分の身体の半分が、蛇に変わってしまうという呪いである。
しかし、彼女の母は、一筋の光明を残した。
彼女の呪いは不完全であり、真に愛する者と結ばれることができれば解けるというものだった。
ただし、そのためには、呪われた姿を伴侶に一生隠し通すか、半人半蛇の姿を見られた上でも愛し続けてくれる伴侶を得なくてはならないのだ。
だが。
彼女の呪いは、ついぞ解けなかった。
ある時、妃の秘密を知ってしまった建国王は、彼女を憎み悲しんだ。
彼女はみるみるうちに翼の生えた蛇の姿に変わり、そのままどこか遠くへ飛び去ってしまったという。
悲劇は、彼女が王都を去っても終わらなかった。
建国王の時代が終わり、王家の血を繋いでいくうちに、呪いもまた王家の血筋に継がれていったのだ。
王家は、呪いのことを必死に隠した。
半人半蛇の姿は、人類の敵である魔物を彷彿とさせる。
もちろん私たちには理性もあるし、人を喰ったりもしないのだが、人類の王が魔物の仲間であるという噂が流れれば、メリュジオン王家は、庇護してきた国民の手によって滅亡するだろう。
よって王家は、それ以降、メリュジオンの呪いをひたすら隠してきた。
特に、大地の日の夜は絶対に人目に触れないところで過ごさなければならない。
厄介なのは、呪いが発現した者が命を落とすと、年齢を問わず、別の王族に呪いが移ることだ。
そのため、呪いが発現した者は、厳重に警護……否、監視されることとなる。
みだりに王宮の外に出て魔物として討伐されたり、自死を選んだりされては困るからだ。
――私も、そうだった。
呪いが自分の身に降りかかったのは、ちょうど十五年前、春の日の夜。私が八歳だった時のことだ。
当時呪いを宿していた叔母が、とある事件に巻き込まれ、侍女や従者たちと共に若くして亡くなってしまったのだ。
その知らせを受けた次の大地の日。
夕方になって、王族だけが広間に集められ、騎士も使用人も、要職に就く者たちも一切出入りが禁じられ。
物々しい雰囲気が漂う中――日が沈むと同時に、私の身体に、変化が起こった。
魔力が乱れ、息が苦しい。
熱がある時のように、身体中に寒気がして、節々が痛む。
喉をかきむしり、ようやく苦しみが引いたその時――私の足が、青黒い鱗に覆われた蛇のものに変わっていたのだ。
背中には、空を飛べるほどの大きさではないものの、びっしりと鱗の生えた翼が現れていた。
腕までも、一部青黒く変色している。
――化け物。
私は、慟哭した。
他の者の反応は、様々だ。
顔を覆っている者。
異形に変じた私を見て恐れおののく者。
自分ではなくて良かった、とほっとしている者。
当時の国王であった私の父も、王太子だった年の離れた長兄も、化け物をみるような目で私を見ていた。
私の母は王家の血を引いていないのでその場にいなかったのが幸いだが、私はもう、この王宮に居場所がないことを悟った。
こうして私は、八歳にして王宮を出ることとなった。
従者や侍女は、信頼できる最低限の人数に減らされた。
王都から遠く安全な地に封じられ、王領の一つと公爵位を賜り、官僚に手伝ってもらいながら領主の仕事を覚えていった。
領主の仕事を覚えるのと同時に、私は、王宮にいた頃から興味のあった魔法の研究を続けていた。
私が完成させた中でも特に有用な魔法が、遠隔地に一瞬で手紙を届けることのできる、転送魔法だ。
研究の末、送受信それぞれの場所に魔法陣を設置すれば、もっと確実に、もっと遠くまで、手紙以外の物も転送が可能になることもわかった。
そして、今から三年前のこと。
私の転送魔法の発明は、最終段階に移行していた。
その頃には手紙だけでなく、無機物有機物問わず、様々な物を領地から王都にまで転送することが可能となっていた。
あと試していないのは一つ――魔力と意思を持つ生命体だけだ。
だが、実験のために犬猫や、まして人間を使うわけにはいかない。
魔物も然りだ。そもそも、私の境遇を考えると、魔物を生け捕りにして実験をしているなどという噂が立つのもまずい。
ならば、実験体はたった一つしかない。
そう、私自身である。
私なら、魔法の発動中になにか不測の事態が起きても対処することができる。
理論も完璧。新鮮な食品も、魔力を持つ植物も、鮮度や魔力を落とすことなく転送に成功している。
失敗の可能性は、限りなく低かった。
そして私は、大地の日の夜――唯一監視の目が一切付かなくなる日を選んで、実験を決行したのである。
結論から言えば、私の転送魔法は、半分だけ成功した。
転送自体は成功したのだが、指定の転送場所に飛ばなかったのである。
指定していたのは、邸内にある施錠済みの実験室だったのだが、なぜか私は、遠く離れた王都の神殿裏に転送されたのだ。
原因は……、何だったのだろうか。
結局魔法陣の不具合は見つけられなかったし、その後新たに書いた魔法陣での転送はうまくいった。
それこそ、神の悪戯とでも考えるしかなかった――その当時は。
今になって、私は理解した。
あれはまさに神の御業だったのだと思う。
私が運命と出会って、連綿と続くこの呪いを断ち切るために、神がお与えくださった奇跡――。
神殿の裏に転送され、周囲の気配を探っていた私の耳に届いたのは、若い女性の鼻歌だった。
「んんんー♪ らんららー♪」
聞いたことのない、異国風の曲だ。近づいてくる声の主から離れようと、私は急いで身を翻そうとするが――、
「……っつ!」
自分の姿が異形と化していることを、私はすっかり失念していた。建物の角に強かに翼を打ち、痛みに動けなくなる。
「んん? どなたかいらっしゃるんですか?」
声の主は、私の存在に気がついたようだった。私は慌ててフードを深く被り、マントを身体に巻き付けて姿を隠す。
しかし、願いもむなしく、女性は建物の陰で丸まっている私に話しかけてきた。
「えっと、どう見ても大人の方っぽいし、孤児ではないわよね……もしかして、怪我でもなさってるの?」
「わ、私は、その……少し疲れてしまっただけだ。しばらく休ませてもらったら、帰るから……」
私はさらに深くうつむいて、顔を隠した。女性は覗き込んでくるような無礼はしなかったものの、私のことが気にかかって仕方がない様子だった。
「お疲れだったら、いい物がありますよ! これ、売り物にならないポーションなんですけど、飲むと少しだけ体力を回復してくれるんです。ちょっと苦いんですけど、良かったらどうぞ」
そう言って女性は、私の目の前にポーションの瓶を置く。瓶の中の液体は、月明かりを反射して、薄い琥珀色に輝いて見えた。
「他にも何かお手伝いできることはありますか? 神殿には、少しの寄付でお泊まりいただけるお部屋もありますよ」
「いや、結構だ」
「そうですか……。では、ゆっくり休んで、お気を付けてお帰りください」
「ああ」
私にはこの時、直感のようなものがあった。目の前に立つ彼女が信頼できる人だという、普段の自分からしたら信じられないような直感。
「……そうだ、一つだけ頼み事をしても良いだろうか」
「はい、何でしょう!」
「私はしばらくしたら魔法でここを去るが、その際、ここに魔法陣が残ってしまうのだ。後ほど水をかけてインクを流し溶かし、消去してもらうことはできないだろうか」
私は、この後、転送魔法陣を構築し直し、領地に戻らなくてはならない。だが、魔法陣がこのままここに残っていては、防衛面や研究の流出など、様々な面で不都合がある。
彼女に、その後始末を任せようと思ったのだ。
「わかりました、お安い御用です!」
「それから、この件はどうか内密にして貰えると助かる」
「はい、もちろんです。お約束します」
そうして私は、彼女の気配が一旦離れたのを確認して、転送魔法陣の再構築を始めた。
彼女の残していったポーションは、体内の魔力を整え、異形化による身体の痛みを消し、体力を回復してくれた。もちろん、毒が入っていないか魔法で鑑定してから口にする。
それは苦くて香ばしくて――昔どこかで飲んだ薬湯のような味がした。
あれから三年。
私は、王都の地に再び足を踏み入れていた。
かつて呪われし叔母が暮らしていた、王族所有の別邸。
煌びやかな物が好きだった叔母の生活空間となっていた一階、二階は肌に合わず、最も質素で実務的な造りとなっていた三階で生活することに決めた。
王都に拠点を移すことに決めた理由はいくつかあるが、その一つが、三年前に私を手助けしてくれた彼女を探すことだった。
神殿に勤める若い女性。
異国の鼻歌。
琥珀色のポーション。
手がかりはそれしかなかったし、あのひとときしか彼女と言葉を交わしていない。
それなのに未だ、私の心には彼女のくれたあたたかな光が灯っている。
普通なら見過ごすはずの、行き倒れか物乞いと思われる怪しい服装の男に、優しく声をかけてくれた。
売り物にならないものとはいえ、気軽にポーションを施してくれた。
それに何より、ポーションにたっぷりと満ちていた、琥珀色のあたたかい純粋な魔力――。
この時の私は、全く考えていなかった。
まさか探していた彼女が、自ら私の元へやってくるだなんて。
そして彼女が、私の最愛となり、王家の呪いを断ち切ってくれるだなんて――。
スローライフもののハイファンタジー長編のベースとして書いてみた中編作品です。
ナーロッパ書いてみたかったんだ……!
最後までお読みくださり、ありがとうございました♪
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連載版はじめました!
ぜひお越しください♪