沈黙の教室
**現代日本の教育現場に潜む闇の物語。文部科学省が定めるいじめ防止対策推進法では「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」をいじめと定義し、「受け手が苦痛と感じたらいじめと認定」される現実がある中、一人の教師が直面する良心と保身の狭間で繰り広げられる心理劇を描く。教育者としての理想と組織の論理に挟まれ、見て見ぬふりを続ける教師の内面的葛藤と、それが生み出す悲劇を静かに浮き彫りにしていく**。**
## 第一章 日常という名の欺瞞
朝の職員室は相変わらず慌ただしかった。コピー機の騒音、電話のベル、教師たちの雑談が混じり合って、一種の喧騒を作り出している。神代明彦は自分のデスクに座り、今日の授業準備をしながら、その喧騒を聞き流していた。
三十四歳。教師になって十二年目。最初の頃に抱いていた理想は、日々の現実に削られて、今ではずいぶんと色褪せてしまった。それでも完全に諦めたわけではない。時々、生徒の純粋な笑顔や真剣な眼差しに出会うとき、心の奥底で眠っていた何かが蠢くのを感じる。
「神代先生、おはようございます」
振り返ると、新任の高橋美咲が立っていた。二十三歳の彼女は、まだ教師になったばかりの初々しさを纏っている。その明るい表情を見ていると、昔の自分を思い出して少し胸が痛んだ。
「おはよう、高橋先生。今日も元気だね」
「はい。子どもたちに会えるのが楽しみで」
その言葉に偽りはないのだろう。明彦も昔はそうだった。毎朝、生徒たちに会えることが楽しみで、一日一日が充実していた。しかし現実は甘くない。生徒指導、保護者対応、山積みの事務作業、部活動の指導。気がつけば、教師という職業の理想的な部分よりも、現実的な負担の方が重くのしかかるようになっていた。
朝のホームルームが始まる前に、明彦は2年B組の教室に向かった。廊下を歩きながら、他のクラスの様子を横目で見る。どのクラスも似たような光景だった。一部の生徒たちが騒がしく話し、大多数は静かに座っている。そして時々、一人だけぽつんと座っている生徒の姿が目に入る。
教室に入ると、生徒たちの視線が一斉に向けられた。明彦は軽く会釈をして教壇に立つ。今日も一日が始まる。
「おはよう、みんな」
「おはようございます」
返事はまちまちだった。元気よく返事をする生徒もいれば、小さく口を動かすだけの生徒もいる。そして全く返事をしない生徒も数人いた。
明彦の視線が教室の後ろの方に向けられたとき、鈴木陽太の姿が目に入った。転校してきたばかりの生徒だ。小柄で色白、どこか儚げな印象を与える少年。机に突っ伏すようにして座っている彼の周りだけ、妙に空気が重いような気がした。
「それでは出席を取ります」
名前を呼んでいく。「青木」「はい」、「石田」「はい」、「上田」「はい」。上田雄介の返事は他の生徒より少し大きく、自信に満ちていた。クラスのリーダー格の生徒で、スポーツも得意、成績もそこそこ良い。しかし明彦は彼に対して微妙な違和感を抱いていた。表面的には模範的な生徒だが、時々見せる表情に、何か計算高いものを感じるのだ。
「鈴木」
明彦が名前を呼んだとき、陽太は顔を上げた。その瞬間、明彦は彼の目の周りに薄っすらと青いアザがあることに気づいた。しかし、それは一瞬のことで、陽太はすぐに顔を伏せてしまった。
「はい」
か細い声だった。
明彦は一瞬躊躇した。あのアザは何だろう。家庭内の問題だろうか、それとも...。しかし、出席を取っている最中に問い詰めるわけにもいかない。一旦保留にして、後で個別に話を聞こうと思った。
しかし、その「後で」が、なかなか来ないのが学校という場所の現実だった。
一時間目の国語の授業が終わると、明彦は次の授業の準備で忙しくなった。二時間目は別のクラス、三時間目はまた別のクラス。気がつくと昼休みになっていた。
職員室で弁当を食べながら、明彦は山本教頭と雑談を交わした。山本教頭は五十代後半のベテラン教師で、この学校の実質的な運営を担っている。
「神代先生のクラスはどうですか?落ち着いていますか?」
「はい、まあ、大きな問題はありません」
「それは良かった。最近、他の学校でいじめ問題が表面化して大変なことになっているところもあるみたいですからね。うちの学校では、そういうことがないように、日頃から注意深く見守っていきましょう」
山本教頭の言葉には、微妙なニュアンスが含まれていた。「問題が表面化」という表現。つまり、問題があっても表面化しなければ良い、という含意が感じられる。
「そうですね。注意深く見守ります」
明彦はそう答えたが、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。鈴木陽太のアザのことが気になっていたのだ。しかし、まだ確証もない段階で騒ぎ立てるべきではない、という気持ちもあった。
午後の授業を終えて放課後になると、明彦は部活動の指導に向かった。文芸部の顧問を務めているのだ。部員は五人と少ないが、文学への情熱を持った生徒たちが集まっている。彼らと過ごす時間は、明彦にとって一日の中で最も心安らぐひとときだった。
「先生、今度の文化祭で演劇をやりたいと思うんです」
部長の田中さくらが提案した。明るく快活な女子生徒で、将来は作家になりたいという夢を持っている。
「演劇?面白いね。どんな内容を考えているの?」
「いじめをテーマにした話を考えています。最近、そういうニュースをよく見るじゃないですか。私たちの世代が真剣に考えるべき問題だと思うんです」
明彦は一瞬、動揺した。いじめ。まさに今、自分が頭を悩ませている問題だった。
「それは...重いテーマだね。どういう切り口で描くつもり?」
「傍観者の視点から描きたいんです。いじめって、加害者と被害者だけの問題じゃないですよね。周りで見ている人たちの態度も重要だと思うんです」
傍観者。その言葉が明彦の胸に刺さった。
「確かに、それは大切な視点だね。でも、演劇でそういうテーマを扱うときは、十分に配慮が必要だよ。観客の中には、実際にそういう経験をした人もいるかもしれないから」
「はい、分かっています。だからこそ、真剣に取り組みたいんです」
さくらの真摯な態度に、明彦は感動を覚えた。同時に、自分の不甲斐なさも痛感した。生徒の方が、よほど問題意識を持っているではないか。
部活動が終わって生徒たちが帰った後、明彦は一人職員室に残って仕事を続けた。夕方の職員室は静かで、蛍光灯の明かりだけが机の上を照らしている。書類を整理しながら、明彦の頭の中では鈴木陽太のことがぐるぐると回っていた。
あのアザは本当に何だったのだろう。転んでできたものかもしれない。しかし、彼の様子を思い返すと、何か普通ではない感じがした。肩を丸めて歩く姿、誰とも目を合わせようとしない態度、そして今朝の、あの怯えたような表情。
明彦は立ち上がって窓の外を見た。夕日が校舎に長い影を作っている。生徒たちはもうほとんど帰ったのだろう。静寂が校内を支配していた。
翌日、明彦は意識的に鈴木陽太を観察した。朝のホームルームで彼の顔を見ると、昨日のアザは薄くなっているようだった。しかし、彼の様子は相変わらず暗い。
一時間目の国語の授業で、明彦は太宰治の「走れメロス」を教材に使った。友情や信頼をテーマにした作品だ。授業中、生徒たちに感想を求めたとき、陽太は一度も手を挙げなかった。当てられても、小さな声でぼそぼそと答えるだけだった。
休み時間になると、多くの生徒たちが友達同士で話したり、教室を出て行ったりする中で、陽太だけは机に突っ伏したまま動かない。まるで、自分の存在を消そうとしているかのようだった。
昼休みに明彦が廊下を歩いていると、体育館の方から生徒たちの声が聞こえてきた。バスケットボールをしているようだ。明彦は何気なくその方向を見て、足を止めた。体育館の陰で、数人の生徒が一人の生徒を囲んでいるのが見えたのだ。
明彦は急いで近づいた。すると、上田雄介とその仲間たちが、鈴木陽太を囲んでいることが分かった。
「おい、鈴木。お前、なんで俺たちと一緒に遊ばないんだ?」
上田の声は一見すると友好的だったが、どこか威圧的なトーンが混じっていた。
「べつに...遊びたくないから」
陽太の声は震えていた。
「遊びたくないって、なんだそれ。クラスメートなんだから、みんなと仲良くしなきゃダメだろ?」
そう言って、上田は陽太の肩を強く叩いた。陽太はよろけて、壁に背中をぶつけた。
明彦は介入すべきか迷った。これは明らかにいじめの兆候だった。しかし、上田の言葉だけを聞けば、クラスメートとの交流を促しているようにも取れる。もし自分が割って入って、「これはいじめだ」と決めつけたら、逆に問題をこじらせることになるかもしれない。
結局、明彦は少し離れた場所で様子を見ることにした。
「そうそう、今度の体育祭でクラス対抗リレーがあるだろ?お前も出ろよ」
「僕は走るのが遅いから...」
「遅くたって関係ないよ。みんなでやるから意味があるんだ。な?」
上田は再び陽太の肩を叩いた。今度はさらに強く。陽太は痛そうな表情を浮かべたが、何も言わなかった。
その時、体育館から他の生徒たちが出てきた。上田たちは何事もなかったかのように散らばって行く。陽太は一人、壁にもたれたまま立ち尽くしていた。
明彦は陽太に声をかけようと思ったが、踏み出せなかった。どう声をかければいいのか分からなかったのだ。「大丈夫?」と聞いても、彼は「大丈夫です」と答えるだろう。そして、それ以上の追及は難しくなる。
結局、明彦はその場を立ち去った。職員室に戻りながら、自分の行動に疑問を感じていた。教師として、あの場面でもっと積極的に介入すべきだったのではないか。しかし、確証もない状況で動くのは危険だという気持ちもあった。
午後の授業を終えた後、明彦は鈴木陽太を個別に呼び出すことにした。しかし、教室に行ってみると、陽太の姿はもうなかった。他の生徒に聞くと、体調が悪いと言って早退したということだった。
明彦は複雑な気持ちで家路についた。電車の中で、窓に映る自分の顔を見つめながら、今日一日のことを振り返っていた。鈴木陽太の困った表情、上田雄介の威圧的な態度、そして自分の中途半端な対応。
家に帰ると、妻の由美が夕食の準備をしていた。
「お疲れさま。今日はどうだった?」
「うん...普通かな」
明彦は曖昧に答えた。由美に学校での出来事を話すこともあったが、今日のことは何となく言いづらかった。まだ自分の中で整理がついていないのだ。
夕食を食べながら、テレビのニュースでいじめ問題に関する報道が流れた。ある中学校で生徒が自殺し、その背景にいじめがあったという内容だった。
「また、こういう事件が起きたのね。学校の先生たちは何をしていたのかしら」
由美が心配そうにつぶやいた。
「学校の先生も大変なんだよ。いじめって、なかなか表面化しないものだから」
明彦は自分を弁護するような口調で答えた。
「でも、子どもたちの命がかかっているのよ。もっと注意深く見てくれなきゃ」
由美の言葉は正論だった。しかし、明彦には現場の複雑さも分かっていた。いじめを早期発見し、適切に対応するのは、言うほど簡単なことではない。特に、巧妙に隠されたいじめや、一見すると普通の人間関係に見えるような微妙なケースでは、判断が非常に難しい。
その夜、明彦は布団の中で鈴木陽太のことを考えていた。彼に対して何かできることはないだろうか。しかし、具体的な方法が思い浮かばない。明日、改めて話しかけてみようと思いながら、明彦は眠りについた。
しかし、翌日の朝、鈴木陽太は学校を休んだ。
## 第二章 見えない暴力
鈴木陽太が三日連続で学校を休んだとき、明彦はついに行動を起こすことにした。担任として、生徒の長期欠席を放置するわけにはいかない。
昼休みに明彦は鈴木家に電話をかけた。呼び出し音が何度か鳴った後、女性の声が聞こえた。
「はい、鈴木です」
「こんにちは。陽太君の担任の神代と申します。陽太君が三日間お休みされているので、お電話させていただきました」
「あ、先生。申し訳ありません。陽太が体調を崩してしまって...」
母親の恵子の声は疲れているように聞こえた。
「そうですか。風邪でしょうか?」
「はい...まあ、そのような感じで」
曖昧な答えだった。明彦は少し踏み込んで聞いてみることにした。
「最近、陽太君の様子で気になることがあったもので。学校で何か困ったことはありませんでしたか?」
電話の向こうで沈黙が続いた。明彦は息を詰めて待った。
「実は...」恵子が口を開いた。「陽太が最近、学校のことを話したがらないんです。以前はその日あったことを楽しそうに話してくれたのですが、転校してからは...」
「転校は環境の変化で大変だったでしょうね。何かご心配なことがあれば、いつでもご相談ください」
「ありがとうございます。でも、陽太は『大丈夫』としか言わないんです。でも、夜中にうなされることが増えて...」
恵子の声が震えているのが分かった。
「そうですか...。それでは、陽太君が復帰されるときは、私の方でもフォローさせていただきます。何かありましたら、遠慮なくご連絡ください」
「ありがとうございます」
電話を切った後、明彦は深いため息をついた。やはり、何かが起きている。しかし、具体的な証拠があるわけではない。生徒や保護者から直接的な相談があったわけでもない。こういう状況で、どこまで踏み込むべきなのか。
午後の授業で2年B組に入ったとき、明彦は陽太の空席を見て改めて胸が痛んだ。他の生徒たちは普通に授業を受けているが、陽太がいないことについて誰も何も言わない。まるで最初からいなかった人のように扱われている。
授業が終わった後、明彦は上田雄介を呼び止めた。
「上田君、少し話があるんだが」
上田は嫌な顔一つせず、明彦のそばに来た。
「はい、何でしょうか?」
「鈴木君のことなんだが、彼と何か問題があったりしないか?」
「鈴木?いえ、特に何もないですよ。なんで急に?」
上田の表情は自然だった。しかし、明彦にはどこか作られた自然さのように感じられた。
「彼が最近休んでいるので、クラスメートとして何か気づいたことがあればと思って」
「ああ、そういうことですか。確かに最近見ないですね。体調でも悪いんじゃないですか?僕らは特に何も...」
「そうか。もし何か気づいたことがあったら教えてくれ」
「はい、分かりました」
上田は軽く頭を下げて去っていった。明彦は彼の後ろ姿を見送りながら、釈然としない気持ちを抱えていた。
その日の放課後、明彦は文芸部の活動を見ていた。田中さくらたちは文化祭の演劇について熱心に議論している。
「いじめを見て見ぬふりをする周りの人たちの心理を描きたいんです」さくらが言った。「なぜ人は見て見ぬふりをしてしまうのか。正義感はあるのに、行動に移せない理由は何なのか」
その言葉が明彦の胸に突き刺さった。
「それは...難しいテーマだね」
「でも大切なことだと思うんです。多分、見て見ぬふりをする人にも、それなりの理由があるんですよね。怖いとか、面倒に巻き込まれたくないとか」
明彦は答えに窮した。さくらの言葉は、まさに今の自分の状況を言い当てているようだった。
「ただし」明彦は慎重に言葉を選んだ。「そういう心理を描くときは、それを正当化するのではなく、乗り越えるべき課題として捉えることが大切だよ」
「はい、もちろんです。最終的には、勇気を出して行動を起こす人を描きたいと思っています」
さくらの真剣な眼差しを見て、明彦は自分の不甲斐なさを痛感した。
翌日、鈴木陽太が久しぶりに登校してきた。しかし、彼の様子は以前にも増して暗かった。顔は青白く、目の下にはクマができている。服装も少し乱れていて、全体的にやつれた印象を与えた。
朝のホームルームで、明彦は陽太に声をかけた。
「鈴木君、体調はもう大丈夫か?」
「はい...大丈夫です」
か細い声だった。しかし、その目は明彦を見ていない。
「何か困ったことがあったら、いつでも相談してくれよ」
「はい...」
陽太はうなずいたが、その表情からは「相談なんてできない」という諦めが読み取れた。
一時間目の授業が始まると、明彦は陽太の様子を注意深く観察した。彼は授業中、ほとんど顔を上げることがなく、教科書を見ているふりをしながら、実際は何も見ていないようだった。
休み時間になると、多くの生徒が友達と話したり席を移動したりする中で、陽太だけは机に突っ伏したまま動かない。そして明彦は気づいた。他の生徒たちが陽太を避けるように行動していることに。
昼休みに明彦が職員室にいると、高橋美咲がやってきた。
「神代先生、少し相談があります」
「何だい?」
「私のクラスの生徒から聞いたんですが、2年B組で何かあったみたいなんです」
明彦の心臓が跳ね上がった。
「何があったって?」
「詳しくは分からないんですが、鈴木陽太君のことで...上田君たちが何かしているって」
「具体的には?」
「それが、よく分からないんです。生徒も『何となく変な感じ』としか言わなくて。でも、何か普通じゃない雰囲気があるみたいです」
明彦は深呼吸をした。ついに他の教師の耳にも入ったということは、事態が隠しきれないレベルになってきているということだ。
「分かった。私の方でも注意して見てみる」
「はい。何かお手伝いできることがあれば言ってください」
高橋の真摯な態度に、明彦は救われる思いがした。同時に、新任の彼女の方が問題意識を持っているという事実に、自分の不甲斐なさを痛感した。
午後の授業を終えた後、明彦は校内を巡回することにした。放課後の学校は静かで、部活動をしている生徒たちの声が遠くから聞こえてくる。明彦は体育館の方に向かった。
途中、校舎の陰で声が聞こえた。明彦は足音を立てないように近づいて様子を窺った。
そこには上田雄介とその仲間の佐藤、木村、そして鈴木陽太がいた。
「おい、鈴木。お前、先生に何か言ったりしてないだろうな?」
上田の声は低く、威圧的だった。
「何も...言ってません」
陽太の声は震えていた。
「そうだよな。お前みたいな奴が何か言ったって、誰も信じないよな?」
佐藤が冷笑した。
「僕は...何も言いません」
「当たり前だ。お前が悪いんだからな」
木村が陽太の胸を軽く小突いた。陽太はよろめいた。
「なんで俺たちがこんなことしなきゃいけないと思う?お前がみんなと仲良くしようとしないからだろ?」
上田の言葉には巧妙な論理のすり替えがあった。いじめを「仲良くするための指導」として正当化している。
「僕は...」
「僕は、じゃねえよ。もっとはっきりしゃべれ」
佐藤が陽太の頭を軽く叩いた。
明彦は介入すべきか迷った。これは明らかにいじめだった。しかし、生徒たちの会話を隠れて聞いていたことをどう説明すればいいのか。また、上田たちは巧妙に「指導」の体裁を取っている。
その時、陽太が小さく泣き始めた。
「なんで泣いてんだよ。男のくせに情けねえな」
木村が嘲笑した。
それを見て、明彦はついに動いた。
「君たち、何をしているんだ?」
明彦が姿を現すと、上田たちは素早く距離を取った。
「あ、先生。僕たち、鈴木君と話をしていただけです」
上田の表情は一瞬で「善良な生徒」の仮面をかぶった。
「話?どんな話だ?」
「鈴木君がクラスになじめないようなので、みんなと仲良くするにはどうしたらいいか相談に乗っていました」
上田の答えは完璧だった。表面的には何の問題もない。
明彦は陽太を見た。彼は涙を拭こうとしているが、その手が震えている。
「鈴木君、大丈夫か?」
「はい...大丈夫です」
陽太の答えも予想通りだった。
「そうか。それじゃあ、今日はもう遅いし、みんな帰りなさい」
「はい」
上田たちは軽く会釈をして去っていった。明彦と陽太だけが残された。
「鈴木君」
「はい」
「本当に大丈夫か?何か困ったことがあったら、遠慮なく相談してくれ」
陽太は明彦を見上げた。その目には複雑な感情が宿っていた。助けを求める気持ちと、諦めの気持ちが混じり合っているようだった。
「先生は...僕のことを信じてくれますか?」
その問いかけに、明彦は一瞬言葉を失った。
「もちろんだ。君のことを信じているよ」
「でも...証拠がなかったら、信じてもらえませんよね」
陽太の言葉には、大人への深い不信が込められていた。
「そんなことはない。君が困っているなら、証拠がなくても助けるよ」
しかし、その言葉を口にしながら、明彦は自分の偽善性を感じていた。本当にそうだろうか。証拠もなしに、上田たちを問い詰めることができるだろうか。保護者が出てきて問題が大きくなったとき、学校や教育委員会からの追求に耐えられるだろうか。
陽太は明彦の表情を読み取ったのか、小さく首を振った。
「大丈夫です。僕は大丈夫です」
そう言って、陽太は走り去っていった。
明彦は一人その場に立ち尽くしていた。夕日が校舎に長い影を作り、その影は明彦の心の暗さを象徴しているようだった。
その夜、明彦は家で食事も喉を通らない状態だった。妻の由美が心配そうに声をかける。
「どうしたの?元気がないけど」
「いや...仕事のことで少し悩んでいることがあって」
「生徒のこと?」
「まあ、そんなところかな」
明彦は曖昧に答えた。由美にいじめの疑いについて話すべきか迷ったが、まだ確証が持てない段階で家族を巻き込むのは適切ではないと思った。
「あなたって、生徒のことをいつも真剣に考えているのね。でも、あまり一人で抱え込まないで。同僚の先生に相談したり、上司に報告したりできることもあるでしょう?」
由美の言葉は正論だった。しかし、明彦には学校という組織の複雑さが分かっていた。山本教頭の先日の言葉を思い出す。「問題が表面化しないように」。
学校という組織では、問題を早期に解決することよりも、問題を表面化させないことの方が重要視される傾向がある。特に、いじめのような複雑で解決困難な問題については、その傾向が顕著だ。
明彦は自分の立場について考えた。教師として十二年のキャリアがあるとはいえ、まだ管理職ではない。もし今回の件で判断を誤れば、自分の評価に響く可能性もある。そして、評価が下がれば、将来の昇進にも影響する。
一方で、鈴木陽太の苦しそうな表情が頭から離れない。彼は明らかに助けを求めている。しかし、その助けを求める声は小さく、証拠も曖昧だ。
明彦は布団の中で天井を見つめながら、教師になったばかりの頃のことを思い出していた。あの頃は、生徒のためなら何でもするという気持ちがあった。しかし、いつからか、そういう純粋な気持ちより、現実的な計算が先立つようになってしまった。
翌日、明彦が職員室に入ると、山本教頭がやってきた。
「神代先生、少しお話があります」
明彦の心臓が跳ね上がった。
「はい」
「2年B組の件ですが、他のクラスの生徒から何か話を聞いているという情報が入っています。何かご存知ですか?」
明彦は一瞬躊躇した。正直に話すべきか、それとも...
「少し気になることはありますが、まだ詳しくは分からない状況です」
「そうですか。もし何か具体的なことが分かったら、すぐに報告してください。ただし」山本教頭は声を低くした。「憶測だけで動くのは危険です。保護者の方々も敏感になっていますから、慎重に対応しましょう」
「はい、分かりました」
山本教頭の言葉には、明らかに「問題を大きくするな」というメッセージが込められていた。
明彦は複雑な気持ちで一日を過ごした。授業中、鈴木陽太の様子を見るたびに胸が痛んだ。彼の表情はますます暗くなり、クラスでの孤立も深刻になっているようだった。
放課後、明彦は文芸部の活動を見ていた。田中さくらたちの演劇の準備が進んでいる。
「先生、脚本ができました。読んでもらえますか?」
さくらが手書きの原稿を差し出した。明彦は読み始めた。
物語は、一人の生徒がいじめを受けているクラスが舞台だった。主人公は、そのいじめを目撃しながらも行動を起こせない傍観者の生徒。葛藤の末に、最終的には勇気を出していじめを止めようとするという内容だった。
「よく書けているね」明彦は感心した。「でも、現実はこんなに簡単じゃないかもしれないよ」
「どういうことですか?」
「勇気を出して行動を起こすって、言うのは簡単だけど、実際にはいろいろな障害があるものなんだ」
「例えば?」
明彦は言葉に詰まった。自分の体験を語るわけにはいかない。
「例えば...証拠がない場合や、加害者が巧妙に隠している場合とか。周囲の大人が理解してくれない場合もある」
「でも、それでも行動を起こすべきですよね?」
さくらの真っ直ぐな眼差しに、明彦は答えることができなかった。
## 第三章 崩壊する日常
鈴木陽太の状況はさらに悪化していた。朝の登校時から表情は暗く、授業中もほとんど反応を示さない。そして何より深刻だったのは、彼が完全にクラスから孤立してしまったことだった。
明彦は職員室で他のクラスの担任たちと情報交換をしていた。その中で、2年A組の佐野先生から気になる話を聞いた。
「うちのクラスの生徒が言ってたんですが、2年B組で変なことが起きているって」
「変なこと?」
「詳しくは分からないんですが、一人の生徒が他の生徒たちから完全に無視されているって。給食当番も掃除当番も、その子だけ仲間はずれにされるそうです」
明彦の胸に重い感情が沈んだ。それは明らかに鈴木陽太のことだった。
「それって...組織的ないじめじゃないですか?」
「そうですね。でも、表面上は何も起きていないように見えるから、証拠を掴むのが難しそうです」
佐野先生の言葉は、明彦の心に重くのしかかった。
昼休みに明彦が2年B組の教室を覗くと、生徒たちはいくつかのグループに分かれて楽しそうに話している。しかし、教室の隅で一人だけ、鈴木陽太が机に突っ伏していた。まるで透明人間のような扱いを受けている。
明彦は意を決して教室に入った。
「みんな、楽しそうだね」
「あ、先生」
上田雄介が振り返った。その表情は相変わらず爽やかで、問題など何もないという風に見える。
「陽太君、元気ないみたいだけど、体調悪いのか?」
明彦が陽太に声をかけると、教室の空気が微妙に変わった。生徒たちの視線が陽太に集まる。
「大丈夫...です」
陽太の声はかすれていた。
「みんなで一緒に過ごしたりしないのか?」
明彦がそう聞くと、上田が答えた。
「いえ、鈴木君は一人でいるのが好きみたいで。僕たちも無理に誘ったりしないようにしています」
その答えは一見すると配慮深く聞こえるが、明彦には陰湿な排除の意図が感じられた。
「そうか...。でも、クラスメート同士、お互いに気を使い合うことも大切だよ」
「はい、もちろんです」
上田の返事は完璧だったが、その背後で数人の生徒がくすくすと笑っているのが見えた。
明彦は陽太に近づいた。
「陽太君、何か困ったことがあったら、いつでも相談してくれよ」
陽太は顔を上げて明彦を見た。その目には絶望に近い感情が宿っていた。
「先生...」
陽太が何か言おうとしたとき、チャイムが鳴った。
「午後の授業が始まるよ。みんな席につきなさい」
明彦はそう言って教室を出たが、胸の奥に重苦しい感情が残った。
午後の授業では、社会科のグループワークがあった。明彦は他の先生の授業を見学する機会があったので、廊下から2年B組の様子を窺った。
生徒たちは4人ずつのグループに分かれていたが、鈴木陽太だけが一人で座っていた。担当の先生が「鈴木君もどこかのグループに入りなさい」と言ったが、どのグループも受け入れようとしない。結局、陽太は一人で作業をすることになった。
その光景を見て、明彦は胸が張り裂けそうになった。これは明らかに組織的な排除だった。上田たちが中心となって、クラス全体で陽太を孤立させているのだ。
授業後、明彦は社会科の田辺先生に声をかけた。
「田辺先生、2年B組の授業はどうでしたか?」
「ああ、神代先生。実は少し気になることがあったんです」
「何でしょうか?」
「鈴木陽太君のことなんですが、明らかに他の生徒たちから孤立していますね。グループワークでも一人だけ仲間に入れてもらえない状況でした」
明彦は深く息を吸った。
「やはり、そうでしたか」
「これは...いじめの可能性がありますね。担任として、何か対策を考えた方がいいのではないでしょうか」
田辺先生の指摘は正当だった。しかし、明彦にはまだ踏ん切りがつかない。
「はい、検討してみます」
曖昧な返事をしてしまった自分に、明彦は嫌悪感を抱いた。
放課後、明彦は校内を巡回していた。体育館の裏で、またも上田たちと陽太の姿を見つけた。今度は距離を置いて様子を見ることにした。
「おい、鈴木。お前のせいで、最近先生たちがうるさいんだよ」
上田の声は怒りを含んでいた。
「僕は...何もしてません」
「嘘つけ。お前が先生に何か言ったんだろ?」
佐藤が陽太の胸ぐらを掴んだ。
「言ってません...本当に何も」
「だったら、なんで先生たちが俺たちのこと見張ってるんだよ」
木村が陽太を壁に押し付けた。
「分からない...僕は何も」
「お前さ、もしかして俺たちのこと嫌ってる?」
上田の質問には罠があった。「嫌っている」と答えれば暴力の理由になり、「嫌っていない」と答えれば「じゃあ俺たちと仲良くしろ」という強制に繋がる。
「そんなことは...」
「そんなことは、じゃねえよ。はっきりしろ」
佐藤が陽太の頭を小突いた。
「僕は...みんなと仲良くしたいです」
陽太の苦し紛れの答えに、三人は冷笑した。
「だったら、明日からちゃんと俺たちの言うこと聞けよ。分かったな?」
「はい...」
「返事が小さい」
木村が再び陽太を押した。
「はい!」
陽太の大きな返事は、絶望的に響いた。
明彦は見ているのが辛くなって、その場を立ち去った。介入すべきだと分かっていながら、なぜか足が動かない。理由は分かっていた。恐れているのだ。問題が大きくなることを、責任を問われることを、評価が下がることを。
その夜、明彦は眠れなかった。鈴木陽太の絶望的な表情が頭から離れない。枕元の時計は午前3時を指していた。
「どうしてるの?」
隣で由美が目を覚ました。
「少し...考え事があって」
「生徒のこと?最近ずっと悩んでいるみたいだけど」
明彦は由美に話すべきか迷った。しかし、一人で抱えきれない重さになっていることも確かだった。
「実は...クラスでいじめが起きているかもしれないんだ」
由美は身を起こした。
「いじめ?それは大変じゃない」
「うん。でも、まだ確証がないというか...証拠が曖昧で」
「でも、疑いがあるなら調べるべきでしょう?」
「そうなんだけど、学校という組織は複雑で...」
明彦は自分の言い訳じみた説明に嫌気がさした。
「あなたって、昔はもっと積極的だったじゃない。生徒のためなら何でもするって言ってたのに」
由美の言葉は的確だった。確かに、昔の自分だったら、迷わず行動を起こしていただろう。
「そうだね...昔は単純だったから」
「単純って、悪いことじゃないと思うけど。特に、子どもたちの命や心に関わることなら」
由美の言葉に、明彦は返す言葉がなかった。
翌日、学校に行くと、さらに深刻な事態が明彦を待っていた。高橋美咲が血相を変えてやってきたのだ。
「神代先生、大変です!」
「どうした?」
「鈴木陽太君のお母さんから電話がありました。陽太君が昨夜、手首を切ったって」
明彦の頭が真っ白になった。
「今は?陽太君は?」
「救急車で運ばれて、今は病院にいます。命に別状はないそうですが...」
明彦は椅子に座り込んだ。ついに最悪の事態が起きてしまった。
「お母さんは何と?」
「『学校で何が起きているのか説明してほしい』と。今日の午後、学校に来られるそうです」
明彦は山本教頭に報告しなければならなかった。職員室を見回すと、教頭は校長室にいるようだった。明彦は重い足取りで校長室に向かった。
「失礼します」
「どうしました?」
山本教頭が振り返った。校長の田村先生も同席している。
「2年B組の鈴木陽太の件で、緊急事態が発生しました」
明彦は昨夜の出来事を報告した。校長と教頭の表情が険しくなった。
「それで、いじめがあったという確証はあるのですか?」
校長の質問は冷静だったが、その視線は鋭かった。
「確証と言えるほどのものは...しかし、状況から判断すると、かなり可能性が高いと思われます」
「神代先生は、これまでそのことをご存知だったのですか?」
教頭の質問に、明彦は窮した。
「疑いは持っていましたが...まだ調査の途中でした」
「調査?具体的にはどのような調査を?」
校長の追及が続く。明彦は自分の曖昧な対応を説明せざるを得なかった。話をすればするほど、自分の不作為が明らかになった。
「分かりました。午後の保護者面談までに、事実関係を整理してください。そして今後の対応策も検討しておいてください」
「はい」
明彦は校長室を出ると、膝の力が抜けそうになった。ついに事態は取り返しのつかないところまで来てしまった。
昼休み、明彦は2年B組の生徒たちを呼び出した。上田、佐藤、木村、そしてクラスの中心的な生徒たち数人。
「昨夜、鈴木君が大変なことになった。君たちは何か知っているか?」
明彦の問いかけに、生徒たちは口々に否定した。
「え、何があったんですか?」
上田の表情は驚きに満ちていたが、明彦にはそれが演技のように見えた。
「鈴木君が自分を傷つけてしまったんだ」
生徒たちがざわめいた。しかし、明彦は彼らの反応に真の驚きを感じなかった。
「僕たちは何も知りません。鈴木君とはほとんど話もしませんし」
佐藤の答えも用意されたもののように聞こえた。
「本当に何もしていないか?彼を仲間はずれにしたり、無視したりしていないか?」
「いえ、そんなことしてません。ただ、鈴木君の方が僕たちと関わりたがらないみたいで...」
木村の答えには巧妙な責任転嫁があった。
明彦は生徒たちの表情を見回した。彼らは皆、一様に「無実」の表情を作っている。しかし、その完璧さがかえって不自然だった。
午後、鈴木恵子が学校にやってきた。明彦と山本教頭、田村校長が応対した。
恵子の顔は疲れ果てていた。目は赤く腫れ、憔悴しきった様子だった。
「先日お電話でお話しした通り、陽太の様子がおかしいと思っていたんです。でも、本人は何も話してくれなくて...」
恵子の声は震えていた。
「昨夜、陽太が『もう学校に行きたくない、死にたい』と言い出して。それで...」
恵子は言葉を詰まらせた。
「お母さん、お辛いでしょうが、学校で何が起きていたのか、陽太君から何か聞いていることがあれば教えてください」
校長が慎重に言葉を選んで聞いた。
「陽太は『みんなが僕を嫌っている』『学校に行くと苦しくなる』と言っていました。でも、具体的に誰が何をしたかは教えてくれませんでした」
明彦は胸が苦しくなった。
「学校として、今回の件を重く受け止めています。すぐに調査を開始し、問題があれば適切に対処します」
校長の言葉は官僚的で、心がこもっていないように聞こえた。
「調査って...今まで何をしていたんですか?陽太が苦しんでいることは分かっていたはずです」
恵子の言葉が明彦に突き刺さった。
「申し訳ございません。私の監督不行き届きでした」
明彦は頭を下げた。しかし、それは形式的な謝罪に過ぎないことを、自分でも分かっていた。
面談が終わった後、明彦は一人教室に残った。夕日が差し込む教室で、鈴木陽太の空席を見つめていた。
あの席に座っていた少年が、昨夜死を選ぼうとした。そして自分は、それを防ぐことができたかもしれないのに、何もしなかった。いや、正確には「できない理由」を探し続けていた。
明彦は自分の行動を振り返った。いじめの兆候に気づいていた。しかし、確証がないという理由で積極的な行動を取らなかった。組織の論理を優先し、個人の良心を後回しにした。
文芸部の田中さくらが書いた脚本の言葉が蘇った。「勇気を出して行動を起こす」。生徒の方が、よほど問題の本質を理解していた。
その夜、明彦は妻の由美に全ての事情を話した。
「それは...あなたにも責任があるわね」
由美の言葉は冷静だったが、明彦には厳しく響いた。
「分かってる。でも、どうしたらよかったのか...」
「どうしたらよかったかじゃなくて、これからどうするかでしょう?」
由美の指摘は的確だった。
「そうだね...今からでも、できることをやらなきゃ」
明彦は決意を固めた。もう逃げるのはやめよう。鈴木陽太のために、そして教師としての自分のために、正面から問題と向き合おう。
## 第四章 真実への扉
翌朝、明彦は決意を持って学校に向かった。昨夜、ほとんど眠れなかったが、頭はかえって冴えていた。もう迷いはない。何があっても、鈴木陽太のために真実を明らかにする。
職員室に着くと、高橋美咲が駆け寄ってきた。
「神代先生、陽太君の容態はどうですか?」
「命に別状はないそうだ。でも、まだ入院している」
「そうですか...。何かお手伝いできることがあれば、何でも言ってください」
高橋の申し出に、明彦は心を強くした。少なくとも一人、味方がいる。
朝のホームルームで、明彦は2年B組の生徒たちに向き合った。鈴木陽太の席は空のままだった。
「昨日話した通り、鈴木君が入院している。君たちには正直に話したい。彼は自分を傷つけてしまった。その背景には、学校での人間関係の問題があったと思われる」
教室がざわついた。
「今日から、このクラスで何が起きていたのか、徹底的に調査する。もし誰かが鈴木君を苦しめていたなら、それは絶対に許さない」
明彦の言葉に、上田雄介の表情が変わった。それまでの余裕が消え、わずかに動揺が見えた。
「でも先生、僕たちは何もしてませんよ」
「本当にそうか?鈴木君が一人で給食を食べていたのを見たことがある。掃除当番から外されていたのも知っている。それは偶然か?」
明彦の追及に、教室の空気が緊張した。
「それは...鈴木君が自分から一人でいたがったんです」
佐藤が反論した。
「自分から一人でいたがる生徒なんていない。誰かが彼を孤立させたんだ」
明彦は席を立って教室を見回した。
「今から一人ずつ、個別に話を聞く。正直に話してくれた生徒には何の問題もない。しかし、嘘をついたり隠したりした場合は、厳しく対処する」
休み時間に明彦は、まずクラスの中で比較的大人しい生徒から話を聞き始めた。最初の何人かは「何も知らない」「見ていない」という答えばかりだった。しかし、女子生徒の一人、田村ゆかりが口を開いた。
「先生...実は、見てしまったことがあるんです」
明彦の心臓が跳ね上がった。
「何を見たんだ?」
「体育館の裏で、上田君たちが鈴木君を囲んでいるのを...鈴木君、泣いていました」
「いつのことだ?」
「先週の木曜日です。でも、上田君たちは『仲良くなろうとしているだけ』って言うし...」
ゆかりの証言は重要だった。しかし、まだ断片的だ。
「他に何か見たことや聞いたことはあるか?」
「クラスのLINEグループがあるんですが、鈴木君だけ入れてもらえないんです。みんなでそれとなく無視するように言われていて...」
「誰に言われた?」
「上田君です。『鈴木はクラスに馴染もうとしないから、みんなで距離を置こう』って」
明彦は深呼吸をした。ついに具体的な証拠が出てきた。
昼休みに明彦は他の生徒たちからも聞き取りを続けた。一度証言者が出ると、他の生徒たちも話し始めた。
山田健太は言った。「上田君が『鈴木と一緒にいる奴も仲間はずれにする』って言ってました」
鈴木花子は言った。「給食当番のとき、鈴木君の分だけわざと最後に配るように言われてました」
佐々木太郎は言った。「体育の時間、チーム分けで鈴木君だけ最後まで選ばれないようにしてました」
証言が重なるにつれて、組織的ないじめの全貌が明らかになってきた。上田雄介が中心となって、クラス全体で鈴木陽太を孤立させる仕組みを作っていたのだ。
午後、明彦は上田、佐藤、木村の三人を個別に呼び出した。まず上田から話を聞いた。
「上田君、正直に聞く。君は鈴木君に対して何をしたか?」
上田はまだ余裕を見せようとしていた。
「何もしてません。僕たちは普通に接していただけです」
「普通に接していて、なぜ彼があんなことになったと思う?」
「それは...鈴木君の問題じゃないですか。僕たちのせいじゃありません」
明彦は他の生徒たちの証言を一つずつ上田に突きつけた。
「田村さんは君たちが鈴木君を囲んで泣かせているのを見たと言っている」
「それは...仲良くなろうとしただけです」
「山田君は君が『鈴木と一緒にいる奴も仲間はずれにする』と言ったと証言している」
「そんなこと言ってません」
「鈴木さんは給食当番で差別的な扱いをするよう指示されたと言っている」
上田の表情が徐々に変わってきた。これまでの余裕が消え、焦りが見え始めた。
「みんな嘘を言ってます。僕は何もしてません」
しかし、証言が積み重なるにつれて、上田の言い訳は苦しくなった。
最後に明彦は決定的な質問をした。
「上田君、鈴木君が昨夜自分を傷つけたことを知っているか?」
「え...」
「君たちの行動が、一人の人間をそこまで追い詰めたんだ。それでも『何もしていない』と言えるか?」
上田の顔が青ざめた。初めて、事態の深刻さを理解したようだった。
「僕は...そんなつもりじゃ...」
「どんなつもりだったんだ?」
「鈴木君が...みんなと馴染もうとしないから、少し距離を置いただけで...」
「距離を置く?組織的に無視して、仲間はずれにして、それが距離を置くことか?」
明彦の追及に、上田はついに泣き始めた。
「すみません...すみませんでした」
佐藤と木村からの聞き取りでも、同様に事実が明らかになった。彼らは上田の指示に従って、組織的に陽太を孤立させていたのだ。
その日の放課後、明彦は山本教頭と田村校長に報告した。
「生徒たちの証言から、組織的ないじめがあったことが確認できました」
明彦は収集した証言をまとめて報告した。
「そうですか...やはり、そういうことでしたか」
校長の表情は複雑だった。
「今後の対応はどうしますか?」
「まず、加害生徒たちへの指導が必要です。そして、保護者への報告も」
「分かりました。神代先生、これまでの対応について、反省すべき点はありますか?」
教頭の質問に、明彦は率直に答えた。
「はい。もっと早期に積極的な調査をし、対応すべきでした。私の判断の甘さが、事態を深刻化させました」
「そうですね。今後は、このようなことがないよう、より注意深く生徒たちを見守っていただきたい」
その夜、明彦は鈴木恵子に電話をかけた。
「鈴木さん、学校での調査が終わりました。いじめがあったことが確認できました」
「そうですか...やはり」
恵子の声には、悲しみと同時に、ようやく真実が明らかになったという安堵も感じられた。
「申し訳ありませんでした。もっと早く気づいて対応すべきでした」
「先生...陽太が学校に戻れるでしょうか?」
その問いに、明彦は即答できなかった。
「必ず、陽太君が安心して学校に来られる環境を作ります。約束します」
翌日から、明彦は本格的な対応を開始した。まず、加害生徒たちとその保護者を呼び出しての指導。次に、クラス全体への説明と今後の方針の徹底。そして、何より重要なのは、陽太が戻ってきたときの受け入れ体制の整備だった。
上田雄介の保護者が学校にやってきたとき、その父親は激しく反発した。
「うちの息子がいじめをしただなんて、信じられません。息子は優秀で、そんなことをする子ではありません」
しかし、明彦は冷静に事実を説明した。収集した証言、生徒たちの証拠、そして何より上田自身の自白。
「お父さん、息子さんを信じたい気持ちは分かります。しかし、事実は事実です。大切なのは、息子さんがこの経験から学び、成長することです」
最終的に、上田の父親も事実を受け入れ、息子への指導に協力することを約束した。
佐藤と木村の保護者も同様だった。最初は否定的だったが、証拠を示すと、事実を受け入れざるを得なかった。
一週間後、明彦は病院に鈴木陽太を見舞いに行った。陽太は以前より痩せていたが、表情には少し生気が戻っているように見えた。
「陽太君、体調はどう?」
「はい...少しずつ良くなっています」
「学校で調査をした結果、君が受けていたいじめの事実が明らかになった。加害者たちには厳しく指導した」
陽太の目に涙が浮かんだ。
「本当ですか?僕の話を信じてくれたんですか?」
「ああ。君は何も悪くない。悪いのは君をいじめた生徒たちと、それを見抜けなかった私たちだ」
「先生...ありがとうございます」
陽太が初めて見せた笑顔に、明彦は胸が熱くなった。
「陽太君、学校に戻ってこられるようになったら、今度は楽しい学校生活を送れるよう、私が責任を持つ。約束する」
母親の恵子も涙を流していた。
「先生、ありがとうございます。陽太が『学校に戻りたい』と言い始めたんです。先生を信じてみようって」
明彦は改めて自分の責任の重さを感じた。同時に、教師という職業の本当の意味も理解した。生徒の命と心を預かる仕事なのだ。
## 第五章 新しい始まり
三週間後、鈴木陽太が学校に復帰した。明彦は朝のホームルームで、クラス全体に改めて話をした。
「今日から陽太君がクラスに戻ってきます。これまでのことは水に流して、新しいスタートを切りましょう」
陽太が教室に入って来たとき、クラスの空気は以前とは明らかに違っていた。これまでの排除的な雰囲気はなく、むしろ申し訳なさそうな表情を浮かべる生徒が多かった。
上田雄介は席を立って、陽太の前に立った。
「鈴木君...本当にごめん。僕たちがしたことは、絶対に許されないことだった」
教室が静まり返った。
「僕は...君を苦しめるつもりじゃなかった。でも、結果的に君をとても傷つけてしまった。本当にごめんなさい」
上田の謝罪に、陽太は小さくうなずいた。
「ありがとう...でも、もう大丈夫です」
その瞬間、教室の空気が変わった。これまでの重苦しい雰囲気が消え、新しい可能性を感じさせる空気に変わった。
明彦は授業を通じて、クラスの変化を実感した。陽太に話しかける生徒が現れ、グループワークでも自然に輪に入れてもらえるようになった。完全に元通りとはいかないが、確実に良い方向に向かっている。
昼休み、陽太が明彦のところにやってきた。
「先生、ありがとうございました」
「何を?」
「僕のために戦ってくれて。一時は、もう誰も信じられないと思っていました。でも、先生が真実を明らかにしてくれて...」
明彦は複雑な気持ちだった。確かに最終的には真実を明らかにしたが、もっと早く行動していれば、陽太をここまで苦しませることはなかった。
「陽太君、実は私は君を裏切っていたんだ」
「え?」
「君がいじめられているのに気づいていながら、すぐに行動を起こさなかった。保身を考えて、見て見ぬふりをしていた部分があった」
陽太は明彦を見つめた。
「でも、最後は僕のために戦ってくれました。それで十分です」
「ありがとう。でも、これからは絶対に同じ間違いはしない。約束する」
放課後、明彦は文芸部の活動を見に行った。田中さくらたちは文化祭の演劇の練習をしていた。
「先生、聞きましたよ。2年B組のこと」
さくらが話しかけてきた。
「そうか...」
「やっぱり、現実は難しいんですね。でも、先生は最後にちゃんと行動を起こしたじゃないですか」
「最後に、というところが問題だったんだけどね」
「でも、行動を起こさない人もたくさんいます。先生は勇気を出した」
さくらの言葉に、明彦は少し救われた気持ちになった。
「君たちの演劇を見て、学んだことがたくさんあったよ。生徒に教えられることが多い」
「それなら、先生にも演劇に出てもらいましょうか?見て見ぬふりをしてしまう大人の役で」
さくらの提案に、明彦は苦笑した。
「それは...リアルすぎるかもしれないね」
一か月後、文化祭で文芸部の演劇が上演された。いじめを見て見ぬふりをする周囲の人々を描いた作品だったが、最後には勇気を出して行動を起こす人物が登場する。
観客席には2年B組の生徒たちも座っていた。鈴木陽太も、上田雄介も、みんな真剣に劇を見ている。
劇の最後、主人公が「見て見ぬふりをしていた自分を変えたい」と決意を語る場面で、明彦は胸が熱くなった。それは、まさに自分自身の体験だった。
上演後、生徒たちから大きな拍手が起こった。明彦も拍手をしながら、この一年間の出来事を振り返っていた。
その夜、明彦は家で由美と話していた。
「結局、あなたは正しいことをしたのよ」
「でも、もっと早く行動していれば...」
「後悔しても仕方ないでしょう。大切なのは、これからよ」
由美の言葉は的確だった。
「そうだね。もう二度と、同じ間違いはしない」
「あなたなら大丈夫。生徒のことを真剣に考えている先生だもの」
翌年の春、明彦は新しいクラスの担任になった。そのクラスにはいろいろな生徒がいた。活発な生徒、大人しい生徒、勉強が得意な生徒、苦手な生徒。
明彦は初日のホームルームで生徒たちに言った。
「このクラスでは、一人一人を大切にします。誰かが困っていたら、みんなで助け合いましょう。そして、もし何か問題があったら、遠慮なく私に相談してください。必ず、最後まで責任を持って対応します」
生徒たちは真剣に聞いていた。
授業中、明彦は一人一人の生徒の表情を注意深く観察した。困っている生徒はいないか、孤立している生徒はいないか。以前なら見過ごしていたかもしれない小さなサインも、今では見逃さない。
休み時間には教室を巡回し、生徒たちの様子を見て回る。一人でいる生徒には声をかけ、グループから外れている生徒がいないか確認する。
「先生、なんだか今年は違いますね」
同僚の高橋美咲が声をかけてきた。
「違うって?」
「すごく積極的に生徒たちと関わっているじゃないですか。以前も熱心でしたけど、今年は特に」
明彦は少し恥ずかしくなった。
「去年、いろいろと学ばせてもらったからね」
「そうですか。私も見習わなきゃ」
ある日の放課後、一人の生徒が明彦のところにやってきた。新しいクラスの男子生徒、田中翔太だった。
「先生、相談があります」
「どうした?」
「実は...クラスの何人かが、僕のことを無視するんです」
明彦の心臓が跳ね上がった。しかし、今度は違う。迷いはない。
「詳しく話してくれ。いつから?誰が?どんな風に?」
明彦は翔太から詳しく事情を聞いた。そして、即座に調査を開始した。関係する生徒たちからの聞き取り、クラスの観察、必要に応じて保護者への連絡。
一週間後、問題は解決した。まだ初期段階だったため、大きな傷を作る前に対処できたのだ。
「先生、ありがとうございました」
翔太が笑顔で礼を言った。
「何か困ったことがあったら、いつでも相談してくれ」
「はい」
その姿を見て、明彦は深い満足感を覚えた。これが教師の本当の仕事なのだ。
夏休み前の最後の日、明彦は文芸部の活動を見に行った。今年の文芸部では、「勇気」をテーマにした作品作りに取り組んでいる。
「先生、今度の作品のテーマは『小さな勇気』なんです」
新しい部員の一人が説明した。
「小さな勇気?」
「大きな勇気じゃなくて、日常の中で発揮する小さな勇気を描きたいんです。困っている人に声をかけるとか、間違っていることに『おかしい』と言うとか」
明彦は感心した。
「それは素晴らしいテーマだね」
「先生も何か体験談があったら教えてください」
明彦は少し考えた。
「そうだね...勇気を出すのに遅すぎるということはない、ということかな。大切なのは、最終的に正しい行動を取ることだと思う」
その夜、明彦は鈴木陽太からの手紙を読んでいた。彼は高校に進学し、新しい環境で頑張っているという内容だった。
「神代先生へ。高校生活が始まって三か月が経ちました。最初は不安でしたが、今では友達もできて、楽しく過ごしています。先生が教えてくれたことを忘れずに、困っている人がいたら手を差し伸べるようにしています。本当にありがとうございました」
明彦は手紙を何度も読み返した。そして、改めて教師という職業の意味を考えた。
生徒たちの人生に大きな影響を与える仕事。一つの判断、一つの行動が、生徒の未来を左右する可能性がある。だからこそ、常に誠実で、勇気を持って行動しなければならない。
明彦は窓の外を見た。夏の夕日が校舎を照らしている。明日からは夏休みだが、九月になればまた新しい学期が始まる。新しい課題、新しい出会い、そして新しい成長の機会が待っている。
明彦は改めて決意を固めた。これからも生徒たちのために、真の教育者として歩み続けよう。見て見ぬふりをするのではなく、勇気を持って行動する教師として。
そして、もしまた困難な状況に直面したとしても、今度は迷わない。生徒たちの笑顔と成長のために、どんな困難も乗り越えてみせる。
夕日が沈み、夜が訪れた。しかし、明彦の心には新しい朝への希望が宿っていた。教師として、人間として、本当に大切なものを見つめ直した一年だった。そして、これからの道のりに向けて、確かな足取りで歩んでいこうと思った。
## 第六章 継承される意志
教頭昇進の打診から一週間後、神代明彦は校長室で田村校長と向き合っていた。窓の外では桜の蕾がほころび始め、新年度の気配が漂っている。
「結論を出されましたか?」
「はい。教頭職をお受けします。ただし、条件がございます」
明彦の言葉に校長の眉が動いた。
「生徒との関わりを絶たないこと。週に一度は授業を持ち、スクールカウンセラーとの連携会議に必ず出席させていただきます」
「それは...通常の教頭業務と並行して可能でしょうか?」
「時間管理は自分で工夫します。どうしてもこの条件が受け入れられない場合は、現職続行を希望します」
沈黙が数秒続いた後、校長が苦笑いを浮かべた。
「分かりました。あなたらしい条件ですね。承認しましょう」
春の人事異動で明彦は教頭に就任した。執務机が職員室奥の個室に移され、書類の山が視界に入るようになった。しかし、約束通り毎週火曜日は2年D組の現代文を担当し、放課後は校内を巡回していた。
四月十日、新任教員研修で明彦が講師を務めることになった。壇上から見下ろすと、鈴木陽太の姿が目に入った。教育実習を経て正式採用された彼は、緊張した面持ちでメモを取っている。
「いじめ対応の基本は『早期発見』と『迅速な対応』です」明彦の声が講堂に響く。「しかし最も重要なのは、教師自身が『見て見ぬふり』という誘惑に打ち克つ覚悟です」
陽太のペンが止まり、真っ直ぐな視線が明彦に向けられる。五年前の自分と重なるその眼差しに、明彦は言葉に熱を込めた。
「皆さんがこれから直面するであろう葛藤。組織の論理と個人の良心の狭間で...」
研修終了後、陽太が近づいてきた。
「神代先生、いや...教頭先生。今日の講義、とても勉強になりました」
「鈴木先生、と呼びたまえ。君も立派な同僚だ」
陽太の頬が緩んだ。「はい。でも、まだ実感が湧かなくて。昨日まで学生だったのに」
「最初は誰もがそうだ。大切なのは...」
「失敗を恐れず、生徒と向き合うことですね」陽太が先に言葉を継いだ。「神代先生から学びました」
その夜、明彦は自宅の書斎で新しい学校案内の原稿を書いていた。由美が紅茶のカップを置きながら覗き込む。
「随分と力入ってるわね」
「今年からいじめ防止プログラムを全面改訂するんだ。生徒同士のピアサポート制度に、SNSパトロールチーム...」
「でも、本当に効果があるの?」
由美の問いに、明彦は手を止めた。窓の外で夜桜が風に揺れている。
「完璧な対策なんてない。でも、手を拱いているよりましだ」
二週間後、陽太から緊急の連絡が入った。1年B組の女子生徒が三日連続で欠席しているという。
「体調不良とのことですが、クラスメートの様子がおかしいんです」陽太の声に焦りが滲む。「給食の配膳でわざと食器を乱暴に扱ったり、休み時間に囁き合ったり...」
明彦の眉間に皺が寄った。「家庭訪問は?」
「明日の午後を予定しています。同席していただけませんか?」
「了解した。ただし主導は君だ。私は影から支える」
翌日、細雨の降る住宅街。陽太が制服姿の少女――小林美羽の家のインターホンを押す。母親の憔悴した顔がドアの隙間から現れた。
「先生...もうどうしていいか」母親の手に握られたスマホ画面には、匿名アカウントからの誹謗中傷が並んでいる。
陽太が息を吞む。明彦は背後で静かに頷いた。
「お嬢さんにお会いできますか?」
物音のしない二階から、痩せた少女が降りてきた。リストカットの痕が袖から覗く。
「美羽さん」陽太が膝を折り目線を合わせる。「君は何も悪くない。先生たちが必ず守る」
少女の睫毛が震えた。「でも...クラスのみんなが」
「みんなじゃない」明彦が初めて口を開いた。「加害者は少数だ。大多数は沈黙しているだけだ」
その夜、職員会議が緊急招集された。明彦の提案で、ICT専門業者によるSNS調査が決定する。反対するベテラン教師もいたが、陽太が実習時代の経験を語り説得した。
調査結果は残酷だった。匿名掲示板に「死ね」の文字が百回以上。美羽の写真を加工した画像がクラスの半数以上に拡散されていた。
「警察への通報も視野に入れます」明彦の宣告に職員室が騒然とする。
「学校の評判が...」生徒指導主任が呟く。
「評判より命だ!」陽太の声が弾けた。「私自身の経験が証明しています」
沈黙を破ったのは校長だった。「神代教頭の判断を支持します」
翌日から、明彦と陽太のチームワークが発揮された。加害生徒の特定、保護者への説明、美羽の心のケア。同時に、全校集会でデジタルリテラシー教育を実施し、生徒会主導のいじめ撲滅キャンペーンを開始した。
一月後、美羽が登校を再開した日。陽太は教室のドア前で深呼吸していた。
「大丈夫か?」明彦が肩に手を置く。
「はい。でも...」
「迷いが生じたら、あの日の自分を思い出せ」
陽太が頷き、ドアを開けた。教室から拍手が湧き起こる。生徒たち手作りの「おかえり」メッセージが黒板を埋め尽くしていた。
## 第七章 無音の共鳴
梅雨の晴れ間、明彦は教育委員会主催の全国大会で講演していた。壇上のスクリーンに「沈黙が生む暴力」の文字が映し出される。
「教師の無関心が、いじめの最大の共犯者です」マイク越しの声がホールに響く。「しかし逆に、教師の小さな気付きが救いの連鎖を生みます」
聴衆の最前列で、陽太が熱心にメモを取っている。隣には教え子の小林美羽が同席していた。高校進学を控えた彼女は、いじめ経験者としての講演を依頼されていた。
「私を救ってくれた先生方は、完璧なスーパーヒーローではありませんでした」美羽の澄んだ声がマイクを震わせる。「でも、逃げずに向き合ってくれた。その姿勢が、私に勇気をくれました」
拍手が鳴り止まない中、明彦は袖の内側で震える手を握り締めていた。講演後に駆け寄ってきた教育委員長が感慨深げに呟く。
「神代教頭の取り組み、全国モデルにしたいですね」
「いえ」明彦が首を振る。「モデル化すると形骸化する。大切なのは、各現場が自分事として...」
その時、携帯が震えた。学校からだった。教頭代理の声に血の気が引く。
「三年生の修学旅行で、バス内のいじめ動画が流出しました」
新幹線の窓に顔を映しながら、明彦は思考を巡らせる。動画には女子生徒が座席に閉じ込められる様子。加害生徒の父親が県議会議員だと知る。
「マスコミが殺到しています」教頭代理の声が焦る。「校長は対応を...」
「すぐ戻る。それまでに三つのことを」明彦の指示は冷静だった。「第一に被害生徒の保護。第二に証拠保全。第三に...」躊躇なく言い切る。「加害生徒の自宅へ直行調査を」
事件から三日目、学校はメディアの包囲網に囲まれていた。明彦は議員事務所からの圧力を跳ね返し、教育委員会の反対を押し切り、厳正な調査を推進した。
「教頭!これ以上やればあなたの立場が...」校長が赤面して詰め寄る。
「立場より真実です」明彦の目が冷たい炎を宿す。「この学校で、もう二度と沈黙させない」
その夜、陽太が教頭室に現れた。眼鏡の奥の目が充血している。
「私も調査チームに入れてください」
「君は担任だ。客観性が...」
「だからこそです!生徒たちの本音を引き出せます」
議論の末、陽太は被害生徒の心のケアを担当することに。深夜まで続く協議の中で、明彦はふと五年前の自分を思い出す。権力と対峙する恐怖、保身の誘惑...しかし今は、震える手を隠しながらも前へ進む。
調査結果発表の日、マスコミが詰めかける体育館。明彦は壇上で淡々と事実を読み上げる。
「本校は、いかなる権力にも屈せず真相を究明しました」カメラのフラッシュが炸裂する。「加害生徒は出席停止。被害生徒への補償と再発防止策を...」
その夜、自宅の書斎で由美が新聞を広げていた。「『権力に屈せぬ学校』か。あなた、ついにヒーローね」
「違う」明彦がコーヒーカップを置く。「ヒーローごっこは終わった。これが...普通の教師の在り方だ」
**終章 終わらない朝**
五年後の春。定年を迎えた明彦は、非常勤講師として教室に立っていた。ホワイトボードに『走れメロス』の一節を書いていると、廊下から慣れ親しんだ足音が近づく。
「神代先生、お久しぶりです」
振り返ると、スーツ姿の鈴木陽太が立っていた。教頭の職章が胸に光る。
「やあ、鈴木教頭。順調そうだな」
「はい。でも...」陽太が鞄からファイルを取り出す。「新しいタイプのいじめが発生していて」
AIを悪用した深偽動画、仮想通貨を使った恐喝...時代は変わっても、子どもの残酷さは形を変える。
「君なら大丈夫だ」明彦が窓の外を見る。桜の木の下で、小林美羽が教師として初登校する後輩を迎え入れている。
「先生」陽太が真剣な面持ちで問う。「どうすれば...」
「答えはもう教えた」明彦がチョークを置く。「『見て見ぬふり』との戦いは、教師の永遠のテーマだ」
チャイムが鳴り、教室に生徒たちの笑い声が溢れる。新たな物語の始まりだった。