第九話 忘却の竜窟
霧の奥 “忘却の竜窟”
斜面のさらに奥に、ぽっかりと開いた小さな窪地。
その中心には、苔むした石碑が立っていた。何も刻まれていない、ただの石。
だが、白が近づくと――
石碑から光があふれ、幻のような映像が霧の中に浮かび上がった。
――かつて、山を守護していた霊龍がいた。
――その名は《白鱗》、天の霊脈と繋がり、霧を晴らし、傷ついたものを癒す存在。
――けれど、ある時代に、彼はその力を使い果たして“記憶”と“名前”を失った。
――そして魂だけが、新たな主を探してこの地に留まり続けた。
「……わたし、だったんだ」
白が石碑に手を触れた。
「ここで、終わって……忘れて……でも、また……出会えた」
静流はゆっくりと白のそばに立った。
「この山を守っていたのが……君だったの?」
「たぶん。でも、それは“昔のわたし”。今は……静流の式神、白」
穏やかで、まっすぐな声だった。
静流はしばらく考え、それから小さく笑った。
「じゃあ……その名前、今度こそちゃんと、僕が覚えておくよ。“白”って名前で」
白はふわりと微笑んだ。
「……それ、嬉しい」
霧が晴れ、光が差す
霧が徐々に薄れていく。
さっきまで漂っていた“迷い”や“引き留める力”が、ふっと溶けるように消えていった。
「これが、白の記憶……」
アヤメが静かに本のページを閉じる。
「記録に残されることもなく、ただ霧の中に留まり続けた存在。それでも誰かが“忘れない”と約束すれば、魂はもう迷わないのですね」
クロも尾をふって言った。
「ふむ……霊龍の再生か。悪くないのう、主。これで式神としても一皮むけるのではないか?」
「え、白が?」
「そうじゃ。記憶を得た式神は、より本来の力に近づく。霧の浄化も、回復術も、これから先もう一段階強くなるぞ」
「すごい……」
静流は思わず白を見る。
白は、静かに、手を差し出してきた。
「……これからも、よろしく」
「うん、こちらこそ」
その手を、しっかりと握った。
村へ帰る道すがら
「じゃあ結局、“夢を探してた少女”って、誰だったんでしょうか……」
灯乃がふとつぶやく。
「白の記憶と、あの子の想い……どこかで繋がっていたのかもしれませんね」
アヤメが答える。
「あるいは、霧が見せた幻。あるいは、まだ“語られぬ何か”」
「……なら、また来ないとだね」
静流はふと、霧の消えた斜面を振り返った。
その先に、ほんのわずかに揺れる小さな影。
白い着物の少女が、遠くからこちらを見て――すっと手を振った気がした。
「……“また来てね”って言ってるような、そんな気がした」
「それじゃ、また来ましょう!」
灯乃が元気に笑い、背中の竹カゴを揺らす。
道は、晴れている。
《白霧の斜面》――“見えないもの”が教えてくれたのは、誰かと出会うこと、そして自分を知ることの大切さだった。
***
風野郷の朝、村の門をくぐると、ちょうど朝の市が始まる頃だった。
小さな露店が並び、朝採れの野菜や山の実がかごいっぱいに積まれている。囲炉裏の煙があがり、パンと味噌の匂いが風に乗って漂っていた。
「わっ、お腹すきました~……!」
灯乃がカゴを抱えながら目を輝かせる。
背負った薬草は、任務分を大きく上回っていた。
「先に薬草を分院に届けて、それから……ちょっとゆっくりしようか」
静流が微笑むと、灯乃が満面の笑みを返した。
分院にて
「こりゃまた立派な山銀花じゃのう……」
ババ様こと、分院の古老・安積ノ婆が、手際よく薬草を水に浸けながら感心の声を上げる。
「ほぉ、鬼灯草もあるとは。これ、あの斜面の方かい? あそこはちぃと“霧の思念”が強い場所じゃったが……何かあったのかね」
静流と灯乃が顔を見合わせる。
「……霧の中で、ちょっとだけ昔の記憶に触れました。式神の白に関わる、古い出来事かもしれません」
静流がそう言うと、安積ノ婆はゆっくりとうなずいた。
「なるほどな……それが“見える”というのは、確かに陰陽師の資質じゃ」
その言葉に、灯乃がこっそり静流の袖を引っ張る。
「ね? 私の目、役に立つでしょう?」
「……まあ、うん。否定はしない」
村はずれの東屋にて
昼下がり、静流と灯乃はいつもの東屋で一休みしていた。
白は座布団の上に正座して、静かにお茶を飲んでいる(飲んでるように見えるが、ほとんど減っていない)。
その隣で、クロはごろりと日向で寝そべり、アヤメの声が木陰から静かに聞こえてくる。
「ねえ、静流さん」
灯乃が不意に口を開いた。
「うん?」
「……あの霧の中で、誰かの夢が残ってたでしょ。“陰陽師になりたかった少女”って」
静流は頷いた。
「うん。はっきりとは見えなかったけど、確かに“想い”が残ってた」
「私、ちょっとだけ思ったんです。もし……あの子の夢が残っていたなら、私もその続きを、少しずつでも叶えてみたいなって」
その言葉に、静流は目を細める。
「……うん。きっとそれが、霧の中の誰かが“見てた夢”の続きになるのかもしれないね」
「だからやっぱり――弟子入り、お願いしますっ!」
「えええっ!? またその話!?」
「明日のお弁当も用意してきます! “霊力強化おにぎり”って名前でどうですか!」
「やめろ、食べるのが不安になる名前つけるな!」
「今度は本気ですから! 掃除も炊事も、結界の見張りも、何でもやります!」
クロがふっと目を開けた。
「ま、女の子ひとりぐらい増えても悪かねぇ。飯が旨くなりゃ、俺は文句ねぇぞ」
「クロまで……っ!」
「静流様。弟子ができるというのは、修行の“中継点”ですわ」
アヤメの声がどこかくすぐったそうに続ける。
「それだけ、あなたが“導ける”存在に成長してきたということです」
静流は肩をすくめ、ため息をついた。
「……まあ、だったらまずは“式神の呼び出し”の手順から。明日、朝イチで講義ね」
「はいっ!!」
ぱぁっと灯乃の顔が輝く。
こうして、風野郷での静流と灯乃の“ゆるくてちょっと不思議な師弟生活”が、ひとつの節目を迎えたのだった。
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