第八話 白霧の斜面探訪
――霧は目を隠し、心を映す。
風野郷・村外れの山道より
午後――空がやわらかい白に包まれる頃。
「ここから先が《白霧の斜面》……?」
山道の途中、森が急に開けた場所。前方にはなだらかな草斜面が広がっていた。だが、そこにはまるで水を流したような白霧がうっすらと漂っている。見通しが悪く、足元もどこかふわふわしているように感じる。
「空気が……ちょっと違う?」
「……霊域の気配ですね」
アヤメが本の中から静かに囁く。
「この霧、ただの水気ではありません。精神や記憶に影響を与える性質が……ほんのわずかに含まれています」
「面倒な場所じゃな」
クロが木の枝からぴょんと飛び降り、尾を揺らす。
「中に入れば、道はすぐ消える。霊を見失えば帰れん。主! 気張れよ」
「うん……」
静流は軽く息を吐いた。
ふと見ると、白が黙って霧の中を見つめている。
「……ここ、懐かしい匂い」
「来たことあるの?」
「ない。でも……遠い昔に似た霧、あった」
天然なのか、深い記憶なのか、白の言葉はどこか不思議な余韻を持っていた。
「じゃ、行こうか」
静流は一歩、斜面に足を踏み入れた。
白霧の中
数歩進むと、音が消えた。
鳥の声も、風のざわめきも、遠ざかる。
「……変な感じ。まるで、世界が一枚の布をかぶったみたい」
「そう思うのは、“視えないもの”が近づいている証拠です」
アヤメの声がふわりと耳に響く。
「ここでは、理性よりも“感じる力”が頼りになります。心を澄ませてください」
「……感じる……?」
静流は目を閉じた。
すると――
足元に、ふっと誰かの手のような気配。
「……誰か、いる……?」
目を開けると、そこに「少女」が立っていた。
ぼんやりとした姿。白い着物。長い髪。
だが、表情はない。
「……ゆめ、を……さがしてるの」
少女の口が、かすかに動いた。
「え……ゆめ?」
「さがしてるの……わたしの、ゆめ……あのひと、どこ……」
その言葉と共に、少女は霧の奥へすうっと溶けていった。
「今の……」
「残留思念、ですね」
アヤメの声が静かに言う。
「この斜面で“何か”を失い、霧に囚われてしまった者の記憶。完全な妖でも、ただの霊でもありません」
「じゃあ、助けられないの?」
「“誰かに気づかれる”ことで、彼らは少しずつ癒えていきます」
静流は少女がいた方向を、しばらく見つめていた。
――自分もまた、置いてきた夢がある。
都での栄光。陰陽寮での希望。見上げた背中。追いつけなかった距離。悔しさはあるものの、まったりした暮らしのほうが自分には好ましい。戦いは嫌いなのだ。
「でも……」
静流は霧の中、小さくつぶやいた。
「ここにいても、できることはある。僕は僕のやり方で、前に進む」
すると、霧の向こうから声が響いた。
「……主。ひとまず正気を保ってるようじゃな」
クロが軽口をたたきながら現れる。
「霧の中であれだけ長く静かに立っおれば、普通の奴は魂が薄くなるもんじゃが……」
「ちゃんと、霊力で結界張ってたし」
静流は微笑んだ。
「……さすが、主じゃ。ま、ちと鼻が高いのう。……ふっ、やれやれ。これでますます目が離せんわ」
その背後で、白がふわっと足元の霧を吹き払う。
「……光が、通るようになった」
見ると、霧の斜面に細い道ができていた。まるで誰かの祈りに応えるように、草が揺れ、霧が避けたのだ。
「それって……」
「主の心が、霧を裂いたんじゃ」
クロがにやりと笑った。
「立派なもんじゃ。さすがわしの主じゃのう」
「……ありがとう、静流さん」
灯乃の声が背後から届いた。
「なんか、すごく安心しました」
「えっ、来てたの!?」
「もちろんですっ。ちゃんと後ろで見守ってましたよ! ……クロさんが“入るな”ってしっぽで遮ってきたけど!」
「そ、それは用心のため……!」
笑い合いながら、静流たちは霧の道を引き返していく。
――霧の奥に、古き記憶の声がこだまする。
帰り道のはずだった。
だが、道はいつの間にかねじれ、静流たちは再び霧の奥へと誘われていた。
「……おかしい、確かにさっき来た道だったはず」
静流が木々の間を見回す。霧は濃くなり、風もぴたりと止んでいた。
「これは……結界が反転している」
アヤメの声が本の中で静かに響く。
「この霧、誰かが意図的に引き留めているわ。もしくは、“誰か”が会いたがってる」
「会いたがってる……?」
静流が言葉を繰り返した瞬間――
白が、一歩、霧の中へ進み出た。
「……ここに、いる。わたしの……知ってる声が、呼んでる」
「えっ、白……?」
「……やさしい声。……昔、誰かに、こうして名前を呼ばれた気がする」
白の銀の髪が霧に揺れ、肩越しに振り返る。
「……少しだけ、行ってもいい?」
その瞳は、どこか懐かしさと寂しさを帯びていた。
「……行こう。みんなで」
静流は、少しだけ勇気を込めて答えた。
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