第三十九話 《揺水窟》──境界を越える者 2
一方その頃、風野郷の神灯の広場では、祭が終わったはずの夜に異変が起きていた。
風もないのに、霊灯が不規則に揺れ始める。
そして突如――
ぱちっ――乾いた破裂音とともに、一枚の“名告札”が黒く焦げ、音もなく崩れ落ちた。それは、《静流》と記された札だった。
陰陽寮・風野分院にて、白と一緒に静流の本体を守っていたアヤメが、蒼白な顔で振り返る。
「……今の、霊視で感じた……。名告札が……燃えた?」
近くにいた白が即座に霊的遠視能力を操作し、視界を投影する。
アヤメたちのいる静流の部屋の天井に映し出された映像には、神灯の広場に並ぶ名告札のひとつが、音もなく黒く焼き消える様子が再現されていた。
「……消えた、確かに。“静流”の名が……」
白の声に、アヤメが眉をひそめる。
「風もないのに、霊灯が次々に揺れている……“名”そのものが、世界から手放されつつあるのか……?」
「これはただの霊的反応ではない……。風野郷そのものの“法”が、書き換わり始めてる……」
そのとき、空気がぴたりと張りつめた。
そして、低く、どこからともなく届く声が空間に響く。
「――名とは、存在の約束。ならば、その約束が破られれば……存在もまた、消える」
夜刀の声。
直接届いているわけではない。だが、確かに魂を撫でるような、侵食する響きが広がっていく。
「さあ……“融合の極点”へ。名の揺らぎが始まった今こそ――世界に、もう一つの“真実”を刻む時です」
《揺水窟》にて、静流と夜霞が鏡を通して交わり、
《陰陽寮・分院》では、アヤメと白が“消えゆく名”の危機に気づく。
二つの“名”が交差し、今――この世界の“根本”が、音もなく歪み始めていた。
アヤメはが震えながら、決意を固めた。
「白。今のうちに《名継の陣》を用意して」
「まさか……静流さまの名を、誰かに“継がせる”つもりですか?」
「違う。静流様に奪われた名をもう一度与えるの! そうすれば、静流様は元に戻れるかもしれないでしょう。バックアップを取る。最悪の事態を考えておくに越したことはない。あの子の“名”が世界から完全に消される前に……せめて、“記録”を残さなければならないわ」
白が歯を食いしばる。
「それで静流は本当に元通りなの?」
「わからないけど……まだ間に合ううちに、やるの」
アヤメの手が、震えながらも術式の円を描きはじめた。
白い指先が、ひとつひとつの霊符を丁寧に配置していく。
「どうか……消えないで、静流さま……」
「“あなたの名前”を、この世界に繋ぎとめる……! 名を……奪わせはしない!」
名の気配がわずかに集まりはじめる。
だが、それはまるで、今にもこぼれ落ちそうな一滴の水のように、儚かった。
***
喰らう影が咆哮をあげる。
《第二の依代》──名を持たぬ者たちの怨嗟の残滓は、ついに形を得て、巨大な大蛇のような姿を取り、今まさに静流と夜霞を飲み込もうとしていた。
「下がれ、静流!」
その声と共に、疾風が巻き起こる。
黒い狐だったクロが、くるりと空中で身を捻り――次の瞬間、風を裂く羽音とともに、本来の姿へと転じた。
黒耀の天狗――漆黒の翼と赤い面を纏い、風を司る古の妖怪が、そこに立っていた。
「わしが前を抑える。……おぬしは、“戻れ”!」
両腕を広げたクロの背から、暴風が放たれる。
その烈風は瘴気を引き裂き、《第二の依代》の影の体を抉った。
だが、影は呻きながら再び膨れ上がる。止めるには至らない。
静流は歯を食いしばり、叫んだ。
「……《転霊憑依》《シキガミ・リンク》! 空蝉――解除!」
指先で霊式の輪を裂くように印を結ぶ。
「還霊術式――開門ッ!」
閃光とともに、術式が反転。
静流の身体がふわりと浮かび、霊体だった“式の姿”が脱け、魂が本体へと還っていく。
その瞬間、静流の目が強く光を取り戻した。
――風野郷、陰陽寮・風野分院。
「っ……!」
静流の瞳が開かれるのを見て、アヤメが目を見開く。
「……戻った。戻ってきた……!」
白も息を詰め、無言でうなずく。
霊的投影に映っていた《第二の依代》の影が、徐々に形を崩しはじめる。
クロが、本体へと還った静流を確認し、凛とした声を放つ。
「――今じゃ、“わしの風”で仕留める!」
翼が大きく広がる。
黒耀天狗・クロが術式の空を裂き、風を纏って舞い上がった。
「風牙断輪!」
彼が振るった一閃が、空気を震わせて直撃する。
《第二の依代》が雄叫びを上げながら裂け、名の残滓が爆ぜるように四散した。
その後、しばらくして――
***
陰陽寮・静流の部屋。
傷と疲れの残る身体を起こした静流のもとへ、黒い狐の姿に戻ったクロがひょこりと現れた。
「おう、静流、生きとったか。ちゃんと戻れるだろうとは思っておったがのう」
「クロ……《第二の依代》は……?」
「わしが吹っ飛ばしておいたわ。“名の泥”も跡形なくのう。じゃが……あの夜霞の小僧も、同時に消えおった」
「……え?」
静流の声が震える。
クロはしばらく沈黙し、ぽつりと呟いた。
「残念じゃが、たぶん……あやつ、自分の“名”を捧げて、影を封じたんじゃ。……自ら、器に戻るようにしてな」
静流は、言葉を失った。
アヤメと白もまた、その報せに表情を曇らせる。
「……ありがとう、夜霞」
静流は胸元に手を当てた。そこに、もう彼の名は響かない。
だが確かに、ほんの一時でも、彼は“名前”を得て生きた。
そのことを、静流は――忘れないと心に誓った。
第一部完結です。第二部までにサイドストーリーを投稿予定です。第二部の予定がまだ未定です。
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