第三十五話 敵をだますにはまず味方から
揺水窟からの転移の光が、夜の空気を切り裂いて消える。
クロが辿り着いたのは、風野郷の山間部、九重家の「陰陽寮・風野分院」――陰陽師の修行場所として知られる場所。
霊的防壁の向こうに、薄紅の灯りがほのかに漏れていた。
クロは傷を負ったままの“静流”を抱え、その門をくぐる。
「おお……おおお、クロさん!? それ……まさか静流さま!?」
駆け寄ってきたのは、静流の式神――アヤメ。
クロは荒い息のまま、無言で彼女に“静流”を預ける。
その身体はぐったりとし、胸にはまだ“紋”の名残が脈打っている。
だがアヤメは、それを見ても動揺しなかった。むしろ――微笑んだのだ。
「よかった……成功してたんだ。“身代わりくん”」
「……え! “身代わりくん”?」
クロが驚くように聞き返すと、アヤメは頷いた。
「ええ。“身代わりくん”です、クロ殿、安心なさいませ。……こちらへどうぞ」
彼女は襖を滑らかに開け、奥の一室へと案内する。
そこにいたのは、静かに布団に横たわる――本物の静流。
まるで眠るように、いや、実際に眠っているかのように穏やかな顔で、深い霊的結界の中に護られていた。
「ここで“転霊憑依”を解除すれば、魂は元の器に還ります」
アヤメの言葉に、クロはふっと息をついた。
「まったく……無駄な心配させおって。一言わしにも行って欲しかったのう」
そしてクロは、“身代わりくん”――名喰らいの霊撃を引き受けたその偽体の額に、そっと符を貼る。
その符には、こう記されていた。
【還霊術式――開門】
術式が起動する。
床に描かれた霊円がゆっくりと淡く光を帯び、符が焼け落ちるのと同時に、空気が波打った。
“身代わりくん”の体が、青白い霧となって解けてゆく。
その霧は、まっすぐに――布団の中の静流へと流れ込んでいく。
静流の指先が、わずかに震えた。
まぶたが、ひくりと動く。
そして――
「……っ……っ、あ……!」
静流は跳ねるように上体を起こした。
「……戻った……!?」
動悸とともに戻ってきた現実の空気と、体の重み。
クロがにやりと笑い、金色の瞳を細めた。
「お帰り、静流。ようやく、“身”と“魂”が揃ったの」
アヤメが横から微笑む。
「空蝉の術は完璧に機能しました。あの名喰らいの攻撃も、本体には一切届いていません。……まさに完封です」
アヤメが誇らしげに胸を張る。
布団の中で上体を起こした静流は、肩で息をしながらも、徐々に頬に色が戻ってきていた。
「……じゃあ、僕がさっきまで感じてた痛みや衝撃って……」
「ぜ〜んぶ、“身代わりくん”が引き受けてくれました。あなたは安全なここで、うとうとしてただけ。ね?」
「……よし。予定通りだ……って、ほんとにどこも、なんともないかな?」
静流が舐めるように見回して確認する。どうやら本当になんともないようだ。
「ったく……いつの間にそんな術式を……。静流、アヤメ、これをわしに説明したかのう?」
「うふふ、してないですね」
「ごめんね、クロ。これまだ実験中だったから」
クロが思わず叫ぶと、アヤメと静流はけろりと笑った。
「だって、“敵をだますにはまず味方から”っていうじゃない。仕方ないでしょう? 敵に見破られたら、身代わりじゃなく本体が狙われるかもしてないし」
「まあ理屈は分かるけどの。……しかしわしは、心臓止まるかと思ったぞ、あの夜刀の術……」
クロがぼやきながら、床にどっかりと座り込む。
その黒い毛並みは、まだところどころ焦げ跡が残っていた。
アヤメが心配そうに彼を覗き込んだ。
「クロ殿……そのお身体、まさか全部、《揺水窟》受けたんですか?」
「わしは式神じゃからのう。あそこにおった分は逃げようがないわ。風を打ち返されたとにはさすがに焦ったぞい……」
「おつかれさま……クロ。本当に、君いなかったら、名喰らいをたおせなかったよ」
静流が心から言うと、クロは少しむすっとした表情で尻尾を揺らした。
「ふん……当然じゃ。……けど、せめてアヤメはわしに教えてくれてもよかったのではないか?」
「うーん、だってクロさん、顔に出るじゃないですか。ぜったい顔に“こいつ偽物じゃぞ、余裕じゃぞ”って書くし」
「ぬ、ぬぬぬ……なんじゃとぉ!? そんなにわしの顔は素直か!」
「素直すぎです!」
「断言されたー……」
二人のやり取りに、静流もふっと笑った。
そのまま、アヤメがちょこんと茶托に湯呑みを三つ置いてくる。
「お二人とも、まずはこれで一息ついてください。とっておきの霊茶です」
ふわりと香る、月桂と山椒の香りが鼻に抜けた。
静流が一口すすって、「……は〜、生き返るぅ」と呟くと、アヤメがにんまり。
「でしょ? この配合、最近編み出したばかりなんですよ」
「こういうのばっか進化するの、ほんとすごいよねアヤメは……」
「戦術研究と、茶葉ブレンドは、陰陽寮の華です!」
「どんな華だよそれ……」
一同がどっと笑う。
と、そのとき。
部屋の障子が、すぅ……と何の気配もなく音も立てずに開いた。
「静流……ご無事、確認……よかった」
白髪の少年――霊龍《白鱗》の化身、“白”が、ふわりとした白衣をまとって入ってきた。
その手には、なぜか大きな湯たんぽと、湯呑みがひとつ。
「静流、身体、冷えてないか……? これ、あったかいやつ……あと、茶」
「いや今ちょうど飲んでたとこだよ!? タイミング絶妙すぎない!?」
静流が笑いながら突っ込むと、白は無表情のまま湯たんぽをそっと布団の中に差し込んでくる。
「布団の中、冷えがち……人間の身体は、復帰後がいちばん脆い。あたためて、守る」
「ありがとう……やさしさは嬉しいんだけど、ちょっと暑い……」
静流が顔をしかめると、今度は白が首を傾げた。
「? ぬくぬく、良いこと。ぬくい=正義」
「出た、白の天然理論……!」
クロが茶を噴きそうになりながら笑う。
「ほんまにこやつは……相変わらず筋金入りのぬくぬく主義じゃのう」
「ふふ……でも癒されますよね、白殿の行動って」
アヤメが微笑むと、白はこくんと頷く。
「癒し担当。……あと、結界担当。あと、布団の温度管理担当」
「最後だけ妙に現実的な役割だったよ!?」
「……あ、あとで氷枕も持ってくる?」
「頼むから加減してくれ……!」
静流が苦笑いしながら頭を抱えると、白はすぐに真顔で「了解、ぬくめすぎた」と言いながら、布団の端をちょっとだけ折り返して温度調整をはじめた。地味に仕事が細かい。
「……うん、白のこういうとこ、嫌いじゃないけどさ」
その様子を見て、クロがふと真面目な顔で呟く。
「しかし、こうして見とると……ほんとに静流は、式神に恵まれておるの」
「ほんとそれ。癒しと防御の白、斥候も火力もこなすわし、そしてなにより……」
「はいはい、“学問担当とお茶”のアヤメさんですよ!」
「お主自分で言ったな!」
「事実ですから!」
静流は思わず吹き出した。
あの名喰らいとの死闘、夜刀の陰謀――そして自分の中にあるという“融合の鍵”。
それでも。
――この三人がいてくれるなら、絶対に負けない。
「……ありがとう、みんな」
ぽつりと静流が呟くと、白がすぐ反応して近づいてくる。
「どういたしまして……静流、頭なでる?」
白が手を差し出してくるのを、アヤメとクロが噴き出して見守る中、静流は静かに布団に頭を沈めてつぶやいた。
「……とりあえず、今日は休む……色々、考えるのは明日からにする……」
「うむ。眠れ。お主の寝顔は、まあまあ、愛嬌があるからのう」
「ほっとけ……」
そして部屋には、あたたかく、穏やかな夜の静けさが戻ってきた。
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