第三十三話 名喰らい
蜘蛛の討伐から三日後のこと。
風野郷の東、旧道沿いの宿場町《早瀬宿》にて、ひとりの行商人が異変を訴えた。
名乗ろうとしても、自分の名が出てこない。周囲の者も彼の名を思い出せない。
静流が現場に向かったとき、男はすでに怯えきっていた。
「な……なんでだ。ずっと一つの名でやってきたはずなのに……帳簿にも、通行証にも、名前が……消えてやがる……!」
指差した行李の中には、確かに“氏名”の欄だけが墨で塗りつぶされたように黒く消えていた。
静流は男の背後にうっすらと浮かぶ“靄”を視る。
怨念ではない。もっと滑らかで、人の意識に擬態するような“知性ある残滓”――
「……やっぱり、“名喰らい”だ」
残留する痕跡は、間違いなく例の封印と同系統。既にこの男から名前と、いくつかの記憶が奪われている。
「依代を渡り歩いている……」と静流は呟いた。
その晩、似たような報告が他の村や宿場からも上がってくる。
ある旅神官が、名前も所属もわからなくなり、ふらふらと人の多い町へと彷徨い出ていた。
ある村の子供が、急に自分を“誰か”だと信じ込んだまま戻らなくなっていた。
名を喰らわれた者たちは、例外なく――“水面を見ると怯える”症状を見せた。
静流はそこで気づく。
「……水鏡。あれは“真名”の写しだ」
そして数日後。村の奥にある古井戸の底から、一枚の古い青銅鏡が引き上げられる。
裏面には、あの蜘蛛の巣にあったのと同じ“空間歪曲”の紋様。鏡面の中央には、薄く禍々しい文様が浮かび上がる――《水鏡紋》。
「これは、“封印の依代”……いや、もっと違う役割だ。たぶん――監視具だ」
「監視具?」と灯乃が首をかしげる。
「誰かが、この鏡を通して……村の中、あるいは俺たちを監視してたんだ。井戸の中に隠されてたのは、鏡を表に見せないため。けど、術式は“一方向”。鏡を通して外を覗く――“水鏡術”の応用だよ」
リナが口元を引き結ぶ。
「つまり……あたしたち、ずっと見られてた?」
静流は、鏡の裏をじっと見つめた。
そこには焼け焦げたような刻印――見覚えのある、禍々しい文様があった。黄泉の文字。封門のしるし。そして、まるで誰かの“目”を模したような、異様な刻み。
「こんな術具が村の中に“置かれて”いた……。しかも、“名喰らい”と連動するような監視術……これは偶然じゃない。これは《黄泉封門流》の……それも、かなり高度な術者の仕業だ。……この“術者”が何者か、突き止める必要があるね」
静流は、しばし鏡をじっと見つめたのち、きっちりと符を貼り封じた。
***
その夜、風野郷の外れにある廃祠で、不審な旅人の姿が目撃された。
黒衣に身を包み、白粉のように蒼白な顔。
背は高く、細身。けれど目を合わせた者は、まるで氷水を浴びたように動けなくなる。
「くくく……久しいですね、九重の者」
その旅人――烏丸 夜刀は、古の呪符を掌に浮かべ、廃祠の祭壇に囁いた。
烏丸 夜刀――陰陽師社会から追放された異端。式神を捨て、鬼と同化する“人外融合”の禁術使い。その存在は、静流の過去と深く繋がっている。
「“名喰らい”は、無事、放たれました。次は、“鍵”を解く段階です」
祭壇の裏、静かに脈打つ“鏡”が応えるように微かに震えた。
「紫苑の息子……静流。君が受け継いだ力……あれこそ、我らが追い求めた“融合の極点”だ。あれを奪うまでは……我が術は完成しない」
風もないのに、祠の奥から“ざぁっ”と波の音のような囁きが響いた。
夜刀の目が細くなる。
「次は、“揺水窟”の……“あの遺跡”を起こすとしよう」
***
数日後、風野郷の西街道沿いの巡回中、灯乃とカシワは異変を察知した。
「静流様、ここ……道端に行き倒れてた行商人、さっき保護したんだけど」
診療所の片隅、布団の上で意識を取り戻した男は、ぼんやりと宙を見つめながら呟いた。
「……あれ? ……俺、誰だっけ?」
名前が出てこない。自身の素性も、旅の目的も、なにも。
「完全に“名”が抜け落ちてる」静流が表情を曇らせる。「しかも、周囲に小さな式痕がある。“喰われた”直後のものだ……」
男の背には、うっすらと――水に波紋のような痕が残されていた。“水鏡紋”だ。
「この文様……」式神のアヤメ(文車妖妃)の声が静流をサポートする。「神官や呪術士の間で、古い“水神系”の儀式に使われてた意匠。東の“揺水窟”に伝わる禁跡と関係してるかと」
「揺水窟か……あそこは確か、今は封鎖されてるはず」静流が目を細めた。
そして、その夜。
夜の市に潜む、黒装束の影。
誰にも気取られぬまま、行商人の帳場に現れた男は、白皙の肌に深い影を落とした瞳を持つ。
「……貴殿、近ごろ村を渡り歩いておられたそうですね。記憶が曖昧だと……それは、大変でしたね」
男は丁寧な口調で語りかけながら、懐から一枚の“水鏡”を取り出す。
「貴方の名前、ここに映るかもしれません。さあ、見てみましょうか」
鏡に映ったのは、ただの水面――かと思われた次の瞬間、光が吸い込まれ、“男”の名がゆらぎ、そして泡のように弾けて消えた。
夜刀の唇が、微かに歪む。
「……名の残滓すらない。実に良質な依代になりますね」
彼の背後には、ぼんやりと揺れる“何か”の気配――それは、かつて《封界石》の奥に眠っていた“名喰らい”そのもの。
夜刀は、それを操り、依代を次々と増やしていたのだ。
目的は一つ――
「静流、君の中に眠る《融合の鍵》……魔と陰陽の接合点。その“真名”こそが、私の求める“門”の鍵となる」
彼の視線の先には、静流の幻影が映っていた。
そして――
翌朝。風野郷の祠にて。
灯乃が異変に気づく。
「おかしい……毎朝掃除してる巫女さんが来てない……しかも、名前が――出てこない」
そこに現れたのは、リナだった。
「この場所にも、“水鏡紋”の痕跡がある。揺水窟を調べるべきね。この犯人の行動範囲、そこを起点に広がってる可能性があるんじゃない?」
静流は頷き、符を取り出す。
「……揺水窟。あの封印が、今も残っていれば、道を塞げるかもしれない。ということは、犯人は、きっともう次の一手を打ってくるかもしれないな。急がなくては」
闇の中に潜む“言霊の化け物”と、それを導く闇陰陽師の影が、確かに動き始めていた――。




