第三話 転移術
旧書庫の奥、隠し区画で、今日も静流は、アヤメの指導のもと、魔術理論と陰陽式の融合に取り組んでいた。
「“転移術”を、やってみたい?」
静流が珍しく提案してきたのは、アヤメの午前の講義が一段落した頃だった。
「うん。いざという時に“ここ”へ戻ってこられる手段が欲しい。……この場所を、守りたいから」
静流の言葉に、アヤメは静かに頷いた。
「よろしいでしょう。では、“場所に縛る式”と、“空間跳躍の導線”を繋げる複合術式をご用意します」
パチン、と指を鳴らすと、足元に淡い光が走り、複数の魔法陣が幾重にも重なる。
「陰陽術では“転位”は主に儀式的手段で行われますが、魔術理論では座標固定による即時転移が可能です。併用するには、“魂の軸座”を一点に結びつける必要があります」
「……つまり、“僕自身の居場所”を、まず確立しなきゃいけないってことか」
「正解です」とアヤメが微笑んだ。
「では、まず“場所の記憶”を封じ込める印――“帰還印”の作成から始めましょう」
夕方。
静流は、書庫の中心に円を描き、自らの霊力を込めていく。傍らでは、クロが面倒くさそうに尻尾を揺らしていた。
「へぇ……転移ねぇ。便利そうじゃが、失敗したら空間に飲まれておじゃんじゃぞ?」
「やめてよ、そういう不安煽るの」
「まぁ、やるならちゃんと見ててやる。せめて骨くらい拾ってやるぞえ」
「励ましてるのか、呪ってるのか分かんないよ……」
苦笑しつつも、静流は真剣な眼差しで術式と向き合っていた。
足元の“帰還印”に、自身の「居場所となる記憶」を流し込んでいく。
「……これで、印は完成。次は、“空間跳躍式”」
アヤメが手を差し伸べる。
「これを覚えたら、あなたは“どこへでも行ける”ようになります。ですが――」
「“どこへでも行ける”ということは、“どこかに消えてしまう”可能性も孕む、ってことだね」
「その通りですわ」
静流は目を閉じ、深く息を吸った。そして、魔力を込める。
「――転移術、起動」
一瞬、空間が軋んだ。
重力が歪むような感覚。視界が波打ち、身体が“ほどける”ような錯覚。
「っ――!」
次の瞬間。
静流の姿は、ふっと掻き消えた。
しん……と静まり返る旧書庫。
ほんの数秒の後――
「……っ、戻った!」
静流が印の中央に再出現した。クロが驚いたように目を見開き、尻尾が膨らむ。
「お、ちゃんと戻ってきた!」
「裏庭にいってきた。……成功、したみたいだね」
静流は少し息を荒くしながらも、笑みを浮かべていた。
「おめでとうございます。……これで、あなたはこの書庫に“戻る力”を得たのです」
アヤメの声も、少しだけ誇らしげだった。
「でも……」
静流はふと眉をひそめ、呟く。
「転移した瞬間、なぜか“誰かの視線”を感じた気がした。……気のせい、かな」
その言葉に、クロはふと天井を見上げて言う。
「……この術、時空の隙間をかすめるんじゃ。妙なもんに引っかかっても不思議ではない」
「何かいたのかもね、あの“隙間”の向こうに……」
静流は背中に薄ら寒さを感じながら、もう一度“帰還印”を見つめた。
――この扉は、きっと片道きりではない。
だが同時に、「別の誰か」に通じる扉でもあるのかもしれない。
夜。
いつもの寝所。
静流は、窓辺に佇むクロに声をかけた。
「……クロ、もしもの時は、この術でここに戻るよ。」
クロはしばし黙っていたが、やがてそっぽを向いたまま言った。
「馬鹿もの。わしは、いつも汝のそばにいぞよ」
その言葉に、静流はふと笑った。
「うん、じゃあ……なにかあった時は、よろしく頼むよ」
障子の向こう、夜空に月が滲んでいる。
静流はふと思いついたように立ち上がり、ふとクロに目を向けた。
「……ちょっとだけ、行ってみようか。夜の中庭。転移で」
「くっ、夜風にあたりたいのか。悪くないのう」
クロが軽く伸びをして、静流の足元に並ぶ。
ふたりの気配が重なった瞬間、静流が指先で小さく空間を撫でた。
「――転移!」
魔法陣の輝きが足元を包み、世界が軋む。
重力が傾くような感覚とともに、クロの毛並みがふっと風に揺れる。
一人ではなく、二人で跳んだ。
ほんの一瞬の無音。そして、ふたりの姿は、静まり返った中庭に現れた。
冷たい夜気が頬を撫でる。足元には夜露に濡れた白砂、上空には澄んだ月光。
クロはぴょん、と軽やかに飛び出して、石灯籠の上に着地した。
「ちゃんと、二人とも着いたのう」
「うん。思ったより、息が合ってたかもね」
静流は笑みを浮かべながら、周囲を見渡した。
この場所にも、彼は“印”を刻もうとしていた――帰るべき、もうひとつの拠点として。
「ここも、好きなんだ。この夜の静けさも、月の光も」
静流が言うと、クロは尻尾をふわりと揺らした。
「なら、忘れるでないぞ。どれだけ遠くへ行ってもわしと一緒に、ここに帰ってくるんじゃ」
「うん」
静流はそっと指をかざし、“帰還印”の光を再び灯す。
月の光に重ねたその印に、静かに魔力が溶けていった。
「……もう少し、遠くへ行ってみようではないか?」
静流が呟いた。中庭の静けさに包まれながら、空を見上げる。
「夜景の見える五重塔の屋根」
「くっ、あんな高いところ。落ちんるでないぞ!」
「その時は、一緒に落ちてね」
「冗談に聞こえぬのが怖わいわ。まあ、わしは天狗じゃから飛べるけどのう」
クロが肩をすくめるようにして応じる。
静流は再び“帰還印”の上に立ち、今度は塔の記憶を心に描く。
――都の北端、古い寺院の境内にそびえる五重塔。
幼い頃、父に手を引かれて登ったあの階段、夜に眺めた灯りの海。
その記憶を、転移術式の中枢へと注ぎ込む。
「……いくよ、クロ」
「うむ、景色でも、なんでも拝ませてもらおうぞ!」
ふたりが静かに息を合わせ、術式が起動する。
淡い蒼光が足元を包み、視界が一瞬揺らぐ。
静流とクロは、五重塔の最上層、屋根の端に着地した。
夜風が一気に頬をなでる。眼下には、都の景色が広がっていた。
灯籠の明かりが点々と並ぶ参道。
遠くには屋根瓦が幾重にも連なる町並みが続き、その間を縫うように川が銀の帯を引いている。
さらに向こうでは、朝廷の灯火が霞のように滲み、城の影が静かに浮かび上がっている。
「……すごいな」
静流が、思わず声を漏らす。
この都に転生して、初めて都全体を見渡した気がした。
「主の住んでる場所じゃ。どこも、ちっぽけじゃが……全部、主の一部じゃな」
クロがふと呟くように言った。
その言葉に、静流は頷く。
「そうか、全部、ぼくの一部なんだ。うん。……この風景、守りたいって思った。僕がこの世界で、生きている場所だから」
塔の先端に腰を下ろし、しばし風に身を任せる。
夜は深まりつつあるが、町にはまだ人の気配があった。笑い声、木戸の音、遠くの笛の音色。
生きている――この世界が、確かに脈打っている。
「……そろそろ戻ろうか。寒くなってきた」
「やれやれ。主」
「“帰還印”!――中庭へ、帰ろう」
光が瞬き、ふたりの姿が夜空から消える。
――再び、静まり返った中庭。
柔らかな光とともに、静流とクロが姿を現した。
「……無事、帰還っと」
「寒いけど、あの景色は忘れられないね!」
ふたりは黙って空を見上げた。月はまだ、高く、揺らめきながら輝いていた。
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