第二十九話 身代わりくん
朝霧が庭を淡く包むころ、分院の離れにある一室――静流の書斎では、彼が今日も机に向かっていた。
膝の上には古びた巻物。右手には符筆、左手には淡く光る蒼の魔術石。
部屋の奥に設置された式盤では、幾何模様がゆるやかに脈動し、空気に微かな魔力の震えをもたらしていた。
「……やっぱり、魔術の増幅位相と、陰陽式の霊位転送がうまく噛み合わないな」
静流は額に手を当て、呟くようにため息をつく。
彼がずっと、取り組んでいるのは陰陽術と魔術の融合研究。そのテーマは――
《異なる術理を矛盾なく組み合わせ、ひとつの術式として機能させること》。
いわば、魔術と陰陽術の“共鳴統合”の探究だ。
そして今、彼が試しているのは以前失敗した“分身くん”の改良版だった。
もともとの「分身くん計画」は、自律して動く自分そっくりの式神のような存在を作ることだったが――
有能過ぎて迷惑過ぎる分身くんができてしまった。
今回は、少しハードルを下げてみよう……と考えた静流は、“自律”ではなく“遠隔操作”という方向に切り替えた。
陰陽術の〈憑依術〉で自分の意識を分身体に移し、魔術の〈創造系呪式〉で形を与えた肉体を遠隔操作する――
くくく……これなら余計なことはしないから安心!
要するに「半自動式の分身」だ。完全な自律ではないが、用途によっては十分すぎる応用性がある。
たとえば、危険場所に行くとき、攻撃を受けて死ぬような大けがをしたとしても自分の体に傷はつかない。
「名付けて『身代わりくん』だ!! 最前線に立つのは、いつだって彼さ……保険だよ、保険」と、静流はひとりごちた。
符筆の先に込めた魔力が、巻物の上で一瞬揺らぎ、ぴたりと止まる。
魔力の波が整う。霊位の位相を合わせる。
次の一手で、ようやく分身体に“乗る”段階に入れるかもしれない。
ふと、静流は軽く肩を回してから、小さくつぶやいた。
「さて……今日こそ使える『身代わりくん』にしてみせるぞ」
式盤の光が収束し、霊位の転送座標が安定した。
静流は巻物の上に左手をかざし、右手の符筆で空中に素早く印を描いた。
「――転霊憑依」
淡い青光が弾けた瞬間、静流の意識はぐぐっと吸い上げられるような感覚に包まれた。
視界が暗転し、次の瞬間――
「……おおっ?」
彼の目の前に広がっていたのは、いつもの書斎――を、ほんの少し高い視点から見下ろす風景だった。
手を動かしてみると、すこし粘土細工のように柔らかいが、確かに反応する。
「うん、見える。聞こえる。動ける。よしよしよし……これは……」
ぐっと拳を握ってみて、静流は笑みをこぼした。
「大成功じゃないか……! ついに完成したな、遠隔操作式・半自律型・陰陽魔術式人形――名付けて、身代わりくん!」
興奮を抑えきれずに小さくガッツポーズを取る。
と、そこで――
何気なく机のほうを振り返り、静流は「それ」を見てしまった。
「…………えっ」
そこには――
ぐったりと机に突っ伏し、口を少し開けてうたた寝する【静流の本体】があった。
口元からはよだれが垂れ、目は閉じ、肩は上下しているが、意識はまったくない。
「ちょ、ちょっと待って!? え、ウソでしょ!?」
『身代わりくん』の体を通して、静流の驚愕がそのまま響いた。
「これ……完全に抜け殻じゃん!? てっきり意識は分岐してるもんかと……」
机に突っ伏した自分を、正面からじっと見下ろす。
寝息は立てているが、完全に魂が“抜けてる”。
「……いやいやいや、これは危険だろ。敵が来たら即アウトじゃん!」
慌てて頭を抱える。
確かに術式の時点で「憑依する=霊体を転送する」とは理解していたが――まさか、ここまで完全に“本体が使い物にならなくなる”とは想定外だった。
「……これって、外出先で『身代わりくん』が破壊されたら、俺の意識は帰ってこれるよね? それに……寝てる体を襲われたら抵抗できないから危険かも?」
冷や汗が伝う気がした。気がしただけで、本体じゃないから実際には流れてないのだが――。
「こわっ!! 保険のつもりがリスクじゃん!!」
思わず本棚のガラスに写った“自分(身代わりくん)”の姿に向かってツッコミを入れる。
だが、ふと冷静になると、その可能性も含めて「次の改良点」が見えてくる。
「……待てよ。逆に言えば、この状態が完全に成立してるって証拠じゃないか。身体から完全に意識が出た状態……つまり、真の意味で“霊体移行”ができたってことだ」
そう思えば……これは、十分すぎる成功と言える。
静流はぐるりと首を回し、もう一度、自分の本体を見下ろす。
――だらしなく寝ている自分の顔。
よだれを垂らし、髪がはね、口が半開き。
「…………もうちょっとカッコよく寝ろよ、俺……」
がっくりと肩を落としながら、静流は『身代わりくん』としての第一歩を踏み出したのだった。
“身代わりくん”の体で部屋を歩き回りながら、静流は腕を組んで考え込んでいた。
「……さて、問題はここからだな。身代わりくんが死んだとき、霊体が本体にちゃんと戻れるのかどうか」
そもそもこの術式、《転霊憑依》は“一方通行”ではない。理論上は、霊体が分身体から本体へと“帰還”するルートも確保してある。式盤にも、ちゃんと“還霊”のための逆位相チャネルを構築済みだ。
ただ、あくまで理論上の話。
実際にやってみて、意識が半分に裂けたり、記憶が混線したり、本体に入れなかったりしたら大問題だ。
「やっぱり自分で実験するしかないなぁ……誰かほかのモルモット、いや実験協力者が欲しいよ……」
ふと、本体を見下ろす。“自分”は変わらず机に突っ伏し、よだれを一滴垂らしていた。
静流は深く息を吐いて(という感覚を真似て)から、手のひらを前に向け、掌に霊力を込めた。
「還霊術式――開門!」
床に刻まれた術式盤の一部が、ふたたび淡く青白い光を放ちはじめる。
静流は目を閉じ、意識の焦点を少しずつずらしていった。
まるで水に沈んでいくような感覚。音が遠のき、感覚が薄れていく。
――どこかで、魂が自分の“座”に戻っていく感覚があった。
次の瞬間――
「……う、ぐ……っ!」
ぴくり、と本体の肩が動いた。目が、ゆっくりと開かれる。
目の前には、見慣れた机。視界の端に巻物と、よだれ……いや、これは自分の。
「……っは、戻った……!」
静流は上体を起こし、体に触れて確かめるように肩を回した。重みも、温度も、戻ってきている。
「……ふうっ、成功だ。ちゃんと還ってこられた……!」
だが、よだれを拭いながらつぶやく。
「……これ、外でやるには、絶対、警備役が要るな……。戻ってきたら死体、じゃ笑えない」
それでも――
術は成功した。
新しい可能性が、確かにひとつ、目の前に開かれたのだ。
静流は巻物を巻き直しながら、小さく微笑んだ。
「この術は『転霊憑依空蝉』となずけよう。……フフフ、『身代わりくん』の戦術運用の目処……立ったな」




