第十三話 夜泣き石事件
――風野郷・村外れの祠《夜泣き石》
秋の夜更け、風が冷たく肌を撫で、落ち葉をすべらせながら静かに吹き抜けていく。
その中に混じって、かすかに聞こえた。
「……ひぃ、ひぃん……ぐすっ……」
また、あの声――子どもの、すすり泣くような声が夜の静寂を割った。
静流は目を閉じた。胸の奥に、小さな痛みが刺す。もう四日目になる。丑三つ時になると決まって、分院の赤ん坊たちが一斉に泣き出す。
「これで四日連続……。そして、また赤ちゃんが一斉に泣いて……」
何かが起きている。
この村の、誰もが気づかない深い場所で、声なき声が叫んでいる。
――もう、見過ごせない。
翌朝、静流は祠の前に立った。
風野郷の村外れ。人の手が長く入っていない、小さな社。石に刻まれた文字は風雨に削れ、祠の奥には、一つの石がひっそりと据えられている。
その石を見つめた。重たい空気が、肌に貼りついてくる。息を吸うだけで、胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
「この石、間違いない……“夜泣き石”ってやつだね」
そう口にしながらも、静流の胸には確信があった。
この石から、あの声が洩れていた。あの痛みが、流れていた。
子どもの霊の想い。それが、この石に宿っている。
クロが狐面をかしげた。
「ふむ、古い怨霊封じの石よの。まさか、封印が緩んどるのか」
その言葉に、静流は心の奥で頷いた。何かが“外れかけて”いる――そんな気配を感じていた。
「空気が重い……。ここだけ、時間の流れが止まってる感じがする」
白の言葉に、静流もまた同じ感覚を覚えていた。空間が歪んでいる。ここだけ、過去が流れ続けているかのようだった。
「結界が歪んでる。境界がずれて、霊の声が漏れてる」
やっぱり、そうか――と静流は思う。
音ではない。声だった。想いだった。
助けを求める泣き声が、夜毎に空を彷徨っていたのだ。
「アヤメ、そっちは?」
少し間を置いて、アヤメの声が答える。
「はい、見つけました。“夜泣き石”とは、かつて戦乱の中で命を落とした幼子を祀った慰霊の石。封じたのは、初代陰陽寮の使い手……名は《暁乃》」
暁乃。古い文献で見た名前だった。霊と対話し、結界で祈りを結ぶ陰陽術を確立した人物。
その人の封印が、いまほころびを見せている。
「じゃあ、石の中には……まだ、想いが残ってる?」
思わず問い返した静流の声に、確かな緊張がにじんだ。
「それも強いものです。子どもの霊、その母と思しき女性の霊も」
母と子――それは、切り離されたまま残された想い。
だからあの夜泣きは、あんなにも切なくて、苦しくて、哀しい音だったのだ。
静流はそっと息を吐いた。
自分の中で、決意が静かに形を取っていく。
「……うん。じゃあ、行ってみよう」
彷徨う魂に、還る場所を与えよう。
**
夜になった。
再び訪れた祠の前は、昼間よりも冷え込みが強く、風も止んでいた。
灯籠に淡い火が灯り、揺れる光が祠の輪郭を幻想のように照らし出す。
足元に霧が立ち込めていくのを見ながら、静流は喉の奥で呼吸を整えた。
胸の奥がずっとざわついていた。
今夜、終わらせる。あの子の声に、答えを返すために。
クロの耳がぴくりと動いたその瞬間、祠の奥――黒い霧のような気配が溢れ、小さな子どもの影が姿を現した。
その姿を見た途端、静流の手が微かに震えた。
(ああ……やっぱり……まだ、こんなに小さい……)
すすり泣く声が、胸に刺さる。
「ひっく……こわいよ……さびしい……」
その言葉に、ぐっと喉が詰まる。
これは、怨霊なんかじゃない。ただ、哀しみのまま世界に置き去りにされた魂――。
「まっすぐな想い……だけど、迷ってしまってる」
自分に言い聞かせるように呟き、静流は印を切った。
迷いはない。私たちの役目は、この子を、還すこと。
「白、あれを!」
白が頷き、静かに両の手を掲げる。
祠の空間に、淡い光の輪が広がっていく。その光が、子どもの霊を優しく包むように、結界の円環が形成されていく。
その光の中で、影はゆっくりと動きを緩めた。
緊張の糸がわずかに緩んだ瞬間、アヤメの声が響く。
「今です、静流様」
静流は一歩、前へ出た。
視線を合わせるように、そっと膝を落とし、子どもと同じ高さで言葉を紡ぐ。
「……君の声、ちゃんと届いてるよ」
その瞬間、霧がゆらりと揺れた。
「さびしいなら、さびしいって叫んでいい。怒ってるなら、怒ってもいい。だけど……ここは、君のいる場所じゃない」
胸が苦しくなる。
この子の哀しみを、全部引き受けてあげたくなる。
それでも、それは叶わない。だからこそ、せめて――。
「……母様に、あいたい……」
震える声。その一言に、静流は頷きながら微笑んだ。
「うん。じゃあ、行こう。一緒に、迎えに行こう」
そっと手を差し出す。
触れられるはずのない存在に、それでも手を伸ばす。
“ここにいるよ”と伝えるために。
その手に、白の力がそっと重なる。
「……浄化」
白の両手からあふれた光が、青白く、けれどとてもあたたかかった。
子どもの霊がそれに包まれていく。小さな体が、少しずつ、少しずつ透けていく。
泣きながら、それでもどこかほっとしたような表情に変わっていた。
「……ありがと……母様に……あえた……」
その声を聞いた瞬間、空気が変わった。
張り詰めていた祠の気がふっと緩み、霧が引いて、静かな夜の冷気だけが残った。
夜が明けるころ、村の赤子たちはようやく安らかな眠りを取り戻していた。
祠の前に立つ静流は、肩の力を抜くように、ふうっと息を吐いた。
「……終わったね」
声にすると、初めて実感が湧いた。
長い夜が、ようやく明けたのだ。
「ふふ、主
クロが尻尾を誇らしげに揺らす。
「……静流。霊、救えた」
白の短い言葉が、何よりも嬉しかった。
「ええ。あなたがいたからこそです」
アヤメの声もまた、やさしく心に染み込む。
視線を落とすと、祠の前――
そこに、見覚えのない一輪の白い花が咲いていた。
風も音もない静寂の中、その花だけが、まるで“ありがとう”と告げているようだった。
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